June 13, 2009

雨にはじまり沖縄の女の子について

沖縄は最近、空梅雨から脱して、雨がざあざあと降っている。

スコールのように、東京のゲリラ豪雨のように、激しく、しかもそれが断続的に降る。
ゲリラ豪雨は実際に経験したけれど、スコールは実際には見たことがないのに、スコールのようにって使うのは不可思議なことである。そしてそういうことって多分たくさんある。

雨は地面を叩き、道路の上を水が流れ、行き交う車は飛沫をあげて目的地へと進む。フロントガラスを覆う水も掻き分ける。

まあまあそんなに降って、と思うけれど、ダムの貯水率は上昇するので、水道部に勤めているさっちゃんは喜んでいるな、と思う(さっちゃんは、貯水量の減少を心配するあまり、トイレまで我慢している)。


さっちゃんの心意気というのは、こう、なんというか、さっちゃんに特有というよりは、沖縄の女の子に特有のような気がする。沖縄の女の子というのは、私が思うに、割にモラリストで、芯が強く、主張するところはするし、飾らない。
例外はあるし、私とかはちょっと外れているけど、大枠で。
すんなり直球をど真ん中に投げる。変化球があることは知っているけどそんなのめんどくさくて煩わしく潔くない、と、意識しない感じである。多分。
そしてそういう人達はすごく付き合いやすい。


私が東京へ出て初めて女の子の友人を作ろうと思った時に戸惑ったのはそこだった。
基本的に、「あたりさわりない」ことしかしゃべらない。ここまで、と線を引かれているのがわかるような、その線がもうありありと見えるような(ついでに言えばその線は結構本人から離れた所に引かれた、くっきりとした白線である)付き合い方だった(後日、ちゃんと気の置けない友人はできた)。


なぜ、そういう付き合い方になるのか。以下観察による推測。
自分の内面を見せることが、一大事というか、超重要機密というか、そういうものだと意識しているようである。
ありのままっていうのが難しいというか。ありのままを見せることが手の内を明かすようで、弱みを見せるようで、防衛戦略上ダメというか。
私はこう思っている、と言った途端にそれが固定されてしまう。その発言に責任をもたなきゃいけなくなる。そういう考え方の人なんだと思われてしまう。そしてそのように扱われてしまう。
かつ、相手に心の内を見せたとしても、相手が困惑するだけだ、ご迷惑だ、という常識というか、決めつけみたいなものがあるように思う。そして実際それが迷惑だと思っている人というのもいる、結構。


自分の内面と外面の、境をそんなに意識せずに生きていたから、結構困惑したのだけど、結局8年弱の東京生活で自身にもそれが染み付いてしまった。こういう意味でも東京に感化されたのだった。
宮崎出身のサークルの先輩はよく、こういうのを「東京ナイズされる」と言った。この言葉が市民権を得ているのかどうかは知らないけど、この先輩以外の人が使ってるのを耳にしたことはない。
良し悪しは各人の問題として、私はそんなに良く思っていない。全然良くない。


と、沖縄の友人たちと話していて思ったという話。
最近、友人とか、友人の友人とか、友人の配偶者とかと、土曜にバドミントンをしている。

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