June 22, 2009

「海辺のカフカ」読了後のちょっとしたこと

先日だが、「海辺のカフカ」を読了した。

実は本にのめり込むというのを久しく体験していなかったので、これはなかなかに面白かったのだと思う。
あと何ページだなあ、とか、もうこのくらい読んだなあとか、そういったことを普段はちらちらと考えながら読んだりするし、ひどくなると、これはこの章まで読んだら終わりだ!とか、修行みたくなる。
長編小説が根気がなくて読めないみたいなことを以前書いたのだが、作品との相性やら自分のコンディションの問題でもあったのだなあと、まあ当り前のようなことを思った。


春樹は偉大だ、と何度か書いていたけれど、改めて、もの凄い作家だなと思う。芥川が凄いとか、夏目漱石が凄いとか、そういう凄さと別の、凄さだ。
多分、ノルウェイを読んでなにそれって思ってた時というのは、耐性ができていなかったのだ、多分。ある意味幻想的で直截な性行為の描写だとか、人物のやりとりだとか(たいていそれは現実離れしていてきざっぽい)、描写やなんかだとか、メタフォリックなストーリーについて。

脇道にそれるが、気に障ると書いてきざと読む。気障。でも実は、最近分かってきたことには、気障なことが結構好きで、気障なことを言ってる人を見ると嬉しくなってしまう。ぽーっとなる、というのはまた別で(これは好きな人にされればなると思う)、このひと気障なこと言っちゃってる!とうれしくなるのである。いいぞ、いいぞ!と。
たとえば月並みだけれど、バーで飲んでいる時にトイレに行くと言って帰ってきたその人が花束を持っていて、それを渡されるとき「君にはピンクが似合うと思って」と言うとか、彼がバーテンダーに「この花束と同じ色のカクテルをこの子に」なんて言うとかいうことがあったわけだけど(この人はいつも、誰にでもこうだ。たまに私をホステスのお姉さんか誰かと勘違いしいている節もある)、こういうの見るとすごく面白い。

あと、二人称を君、って使う人も結構好きだ。気障とまでいかないのかもしれないけど、気障っぽいと思う。逆にお前、っていう人が嫌いだ。それで三木道三とか嫌いなのだと思う。


話を元に戻す。
別に今でも彼の文体が得意だとか、砂に水が染み込むが如き自然さで体になじむとかいうことはなくて、そこは単純に考えれば、性差だと思う。彼は彼からの目線でしか書かないし、それは女性の目線ではありえない。多分男性にしかわからないこと、つまり実感をもてないこと、そういったものをやわらかく表現する能力には長けているのだろうと思う。女性がそれに同調するような。
私は、共感はしていないけれど、理解できるような気がする、理解しよう、理解したい、という気分になる。それは彼の小説の中の「僕」にしろ、現実の男の人にしろ、同じなのだろう。
「女性というものは愛されるためにあるのであって、理解されるためにあるのではない。」という言葉もあるわけだが。

以前に大学の先輩とメールをしたとき、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編(「カンガルー日和」に収録)が好きだという話をしたら、「道で可愛い子とすれ違うと男は皆多かれ少なかれああいうこと妄想する気がするよ。あんなに綺麗に文章にできないけどね」と返ってきた。
という証左。になってるか?
まあ女性の中にも、もしかしたら彼が私にとって100パーセントの男の子かもしれない、と思う人もあるかもしれないけど。
でも、100パーセントの相手がいる、とか、昔は男男と男女と女女がいてそれを神様が半分に分けたから、皆片割れを探してさまよっているとかいう話は、結構好きである。


で、「海辺のカフカ」だが、読了したはいいものの、咀嚼しきれていない。多くの解釈を必要とする作品だと思うし、自分なりに解釈してみたい、というのはやはりある。そして如何せん長い。引用メモならもしかすると近々作れるかもしれないが、話の流れがわかってしまわないように気をつける。
登場人物がみな、ものわかりのいい人たちでできている。察知して受け入れる。同じ世界観をもっているか、違っていてもぶつかったりしない。実に理想的だ。都合がいいといってもいい。

文庫本の帯には、こう書かれていた。
「今、世界中の読者がこの物語を読んでいる!」
なんのこっちゃ。

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