June 14, 2009

selfish

自分ってのはよくわからない。
自分なのによくわからないとも言えるが、自分だからよくわからないとも言える。自分は兎にも角にも客観視が厳密に言えばできない。自分だから当たり前だ。

つまりそれはどういうことかというと、まず、自分の顔が見えない。
自分がどういう顔をしていて、自分がどういうときどういう表情をするのかというのは全くわからない。
鏡を見ればある程度表情なんかは再現できるにせよ、それは自分で意識的に作った表情なのであって、多分それ以外の表情というのをたくさんしている。写真にはもしかすると隠し撮りされたりすれば自然な表情が写っているかもしれないが、「写真写りがいい・悪い」という言葉があるように、実際と写真とではどうも違うということがあるらしい。そして、どちらも結局見ているのは平面的に写し取られた「鏡」「写真」であって、自分の「顔」ではない。自分の顔の質感だとか人に与える印象だとか、そういったものは人の反応から推察するしかない。


で、自分の声というのも聞けない。逆に言うと自分の声は自分だけしか知らないとも言える。というのは、人が聞いている自分の声と自分が聞いている自分の声が違うということ。自分の声をどちらと置くかという話。
自分がしゃべっている、コントロールしているはずの声は、実は全然違っていたりする。俳優や声優は、その誤差をきちんと把握した上で誤差を計算に入れながら声を操っているので、すごいなと思う次第。


で、更に、自分の身幅というのもわからない。身長を測ったり、腕の長さを測ったり、というのはできるのだけど、それが実感としてわからない。私は166センチ身長があるのだが、そんな数値を言われてもぴんとこない。自分より高いのか低いのか、それがどれくらいなのかで普段は判断しているのだと思う。多分長さとかいうものは、見ることや触ることができて初めて意味を持つというか、そういう類のものだろうと思う。
一旦自分の体の大きさがわからなくなると、結構混乱する。真っ暗な中で寝る前にそんなことを考えてしまったら、もう明かりをつけて自分の体を確認せずにはおれない。よろしければ是非お試しください。


あと、自分が見ているこの景色は、他者と全く同じだろうかという疑問もある。色弱の先輩は、水色とピンクが同じに見えるし、赤と緑も同じに見えるのだと言っていた。それは想像しがたい世界である。私の見ている水色と、あなたの見ている水色は果たして。


自分の感情も結構わからない。苛々がすっと静まったり、誰かに対する感情が変化していったりというのが、何かのきっかけが思い当たるわけでもなしに、ものすごく流動的なときというのがある。感情とは嵐のようなものだ、という文句があった。



そうして、自分が見ているこの視界というものや感覚や感情なんかは、一身専属的に自分だけのもので、他者が決して体験できない超排他的なものだということが、ある日不思議だった。そんなある日は度々ある。
そして、そういう不思議な「自分」を有する人間がこの地球上にものすごい数いるという事実。いくつもの「自分」。


客観てのは一体何なんだろうな、と思う。
「自分」以外の「自分」たちが見たもの。その見え方。それはそのそれぞれの「自分」たちにとったら主観以外の何物でもなくて、それぞれには主観しか存在しえない。主観だらけである。
他者から見た何かは客観である。その者にとっては主観でも、自分にとっては客観である。そうすると客観というのは相対的な話なのだな。ある見え方が、主観にも客観にもなりうる。しかも厳密に言うと、客観というのは主観の入った客観である。こう見えてるんだろうな、という主観の入った。

ややこしい話をしたかっただけである。

客観なんて存在せえへんよ、と言ったのは院の友人で、それに対して猛反発した他の友人と論争するのをもうすこしちゃんと聞いておけばよかった。その発言の清々しさだけを覚えている。


自分のことばっかり考えるのって、いかにも自己中だと言って非難轟々な感じだけれど、自分をないがしろにしてはいかんと思う。
他者のことを考えるのもいいけど、他者に働きかけようにも自分がコントロールできるのは自分だし、自分が失われれば自分も失われるのだし(あれ?)、つまり自分が資本なのであって、これが欠けていくと民事再生か破産かといった話に、なる。何にせよ、自分をないがしろにするなんて、本末転倒だと思う。

というselfishのすすめ。

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