July 19, 2009

もってるとかもってないとか

どんな人が好き?と聞かれた場合の答えとして、

格好いい人、とか、優しい人、とか、面白い人、とか、背が高い人、とか、頭がいい人、とか、めがねが似合う人、とか、いろいろ聞くのだが、その中に、自分を持ってる人、というのを聞くときがある。これは男の子に多い気がする。
私は、どんな人が好きか聞かれた時は大抵、話ができる人、とか答えている気がするのだが、まあこの答えも変なものだと思う。これはまあ措く。


で、自分を持ってる人、と言われて、それってどういう意味?、と会話中に食い下がったりはしないのだが、それってどういう意味?とは思っている。
自分を持ってる人が好きっていうのは、自分を持っていない人がいるということを前提としていて、そういう人を排除する意図で言っているのだけれども、自分を持ってるとか持ってないとかって一体どういう意味なのかしら。
その人が人間の個体として存在しているというだけで、自分というものが観念できるのだから自分を持っていないということは全くあり得ないね、という風に言ってみてもいいけど、そういうことじゃないってのはわかっていて、彼彼女らの意図するのは「自分の意見とか好みとかを持っていて、周りに流されない人」という意味で言ってるんだと多分思う。
でも、なんでも程度問題や相対的な問題に帰着させてしまう私としては、そんなの、自分の意見とか好みを持っていない人はいないし、周りに流されたことがない人もいないし、結局程度問題だろ、とか思う。頑固さの程度というか。


更に言うと、私が「自分を持ってる人が好き」というのを聞いて思うのは、私は自分を持ってない人なんて見たことないけどな、と思うということ。
よく見ていれば、もしくはちゃんとつきあっていけば、その人がどんな考え方をしていてどういうことにこだわるのか、というのはわかる。し、別にわからないからといって自分を持ってない、薄っぺらい、意見がない、人に合わせてばかりいる、みたいな評価を下すっていうのは途方もなく失礼な話だと思う。単にその人が心を開いてくれていないだけか、自分の観察力が足りないか、その両方をするだけの時間が不足しているだけだと思う。はっきりものを言う人とか、好きだとか嫌いだとかをはっきり示す人とかいうのは、外形的にわかりやすいということにすぎなくて、そうでない人が自分を持ってないってことにはならない。


かつ、比較的はっきりものを言う人、とか、比較的好き嫌いがはっきりしている人、というのはいるけど、いつもどんな点においてもそうである人っていうのはあんまりいない。
あらゆることにはっきり意見を持っている人ってのはいない。人間関係についてははっきりしているけど、政治のことになると口をつぐむとか、音楽についてははっきりしているけど、スポーツについてはそうでもないとか、そんなものだと思う。何につけても「これはこうだ!」とか、言える人というのはいないと思うし、別に言おうと思えば言えるかもしれないけどいつも根拠があるわけではないってことになって、単なる断定好きの人になってしまう。
別にいつもはっきりしている必要はないと思うし、いつも自分の意見を曲げないっていうのもどうかと思うし、なんにせよ極端だ。多かれ少なかれみんなある分野については意見を持っているし、ある分野については持っていない。
そして、その意見は誰だって何かから影響を受けているのであって、全くのオリジナルということはない、と思う。それって流されているというのだろうか。


この「自分を持っているかいないか」っていうのはもしかすると、日頃から考えているかいないかというところに結びつくのかもしれない。そのトピックについて考えたことがあって、もしくはその場で考えていて、そこにある材料で意見なり解釈なりを出せるかどうかということ、かもしれない。そしてそれができたかどうかをその相手が知るためには、その意見なり解釈なりを言葉で表現できるかということ、というのも含まれるかもしれない。
そういうことができる人が好き、と言っているのだろうか。それだと、考える力があって、表現力のある人、ということになるけれども。それだったら、なんとなくわかる気がする。司法試験みたいだ。


まあでも多分、私がこういう答えに反応するのは、「自分を持っている」という無意味にパラドキシカルな言い回しが単純に気に食わないんだろうと思う。

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