August 27, 2009

強さとは

病院で、自分の番を待ちながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に竿差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。

と、芸術の尊さを考えながら、院内をできうる限り客観的に、詩歌の如く、風情をもって見ようとするも、目の前にはピクサーとおぼしきアニメ映画のDVDをポータブルプレイヤーで視聴中のドレッドヘアの黒人の男の子(7歳くらい)、そのお父様とおぼしき筋肉の隆々とした同じく色の黒い男の人が傍らから太い腕で男の子を抱き寄せてはキスをする。
ふむ。
漱石ならばどんな句を詠むであろうか。

そんな光景を見て、院内を詩歌にするのは諦め、病院へ通う自分というものを見てみる。
ぢっと手を見る。
私は望んでここにいるわけではないのだ。勿論。
一人暮らしをしていた頃は、病院へはほとんど行かなかった。病院に行くほどの疾患も見当たらなかったし、風邪くらいだったら市販の薬を飲んで寝ていれば治った。幸いインフルにもかからなかったし、まあ一度急性の胃腸炎で親が上京して病院へ連れて行かれたことはあったけれど、それくらいだ。
体調が良くないのはデフォルトで、女性は大体こんな感じだろうと思っていた(実際、体調が常に悪い女性は多いと思う)。まあ、違う人は違うらしい。

あの頃が強かったとは言わないまでも、随分弱くなってしまったものだ、と思う。病院で何時間も草枕片手にマスクをしてジーンズの脚を組み直す我。これを毎週1,2回やるのである。文庫くらい読了できるさ。

強いとか、弱いとかって、相対的な問題だよなあと思う。
何が強くて何が弱いのか。
働いていた頃、日経を片手に歩き夜遅くまで仕事をする私を強いと言ったのも、同時に疲れ切っていた私の弱っているのを支えてあげたいと言ったのも、同じ人だった気がする。丁重に断る。
他者から強いとか弱いとか、言われるのは全然好きじゃない。というか、しっくりきた試しはない。そうだな、強いな、と思ったことも、弱いな、と思ったこともない。まあ多かれ少なかれ他者からの評価というのはそういうものだ。強い弱いに限らず。男っぽいとか女っぽいとか、まあ好きにしてくれ。

強いは弱いの裏返しか。

強くなればなるほどに、それが折れた時の脆さがあるのか。
専門性を高めるが故に、その分野が衰退した時に展開できないとか。強くあろうと意志が律するほどに、律せられた精神が脆くなるとか。強くあろうとする肉体が、悲鳴をあげるとか。
私は、強い、というとなぜかトヨタを思い出すのだけど、トヨタは強かったし、脆くもあった、気がする。強さというのは突出した何かに頼っていて、諸行無常であるからには、その何かが永遠に頼れるものではないということなのか。
リスクを分配すれば、安定はするが強くはなれないのか。それとも安定が強さなのか。

ある一点、一分野、限られた項目において、強い弱いは存在する。
人として強いか弱いかなど、見当もつかぬ話。持続性すなわち、したたかさ。ポテンシャル。評価軸。

mighty girlという曲がある。一年以上前、シャッフルにしていたプレイヤーから、会社からの帰宅途中で流れていて、曲名を確認して苦笑した。



最近空を見ていない。暑くて外に出られないし、出たとして見上げる気になれない。太陽が圧政を敷いている気がする。
秋が待ち遠しい。

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