September 30, 2009

利潤動機なるものを疑え

3分間ドラッカー【第161回】 2009年09月03日/上田惇生

引用。

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利潤動機とそこから派生する利益最大化の概念は、事業の機能、目的、マネジメントとは無関係である。無関係であるよりも悪い。害を与える。利益の本質に対する社会の誤解と、利益に対する根強い反感の原因となっている。誤解や反感こそ産業社会にとっての病原菌である。

 ドラッカーは、利益を目的とすることは誤りだと口を酸っぱくして言う。利益とは、世のため人のために、明日もっとよい事業をするための必要条件である。それは目的や目標よりもきつい条件である。実現できなければ存続さえ怪しくなるというものである。

未来について唯一確かなものは不確実性すなわちリスクである。リスクの語源が、アラビア語の「今日の糧を稼ぐ」であることは偶然ではない。
 未来のリスクを賄うための利益、社会にとっての富の創出能力を維持するための利益を上げることは、企業にとって絶対の条件である。

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定義について

あるところで、定義の話をしていて思ったんだけど、あと、twitterに昨日何気なくつぶやいたんだけど、定義というものは、「一般的に統一されている側面」と、「個々人によって違う側面」とがあるんじゃないかと。
定義っていうものの意味の範囲が私は他と比べてどうやら広い。

なんでも定義。それを説明しようとしてたら定義。

もしアイスクリームを定義しようとしたら、レシピから定義する方法もあるだろうし、味とか温度とかでもあるだろうし、業界とかサプライチェーンとかでもあるだろうし、思い出とか好みでもあるだろうし、もう何でもありみたいな感じだ。ちょっと言い過ぎた。

大抵は、定義といったら、
「一般的に統一されている側面」のことだろうと思う。みんなに通じるというか。
でも、
「個々人によって違う側面」というのもあるだろうと思うわけで。個人的な。その人だけの「アイスクリーム」ってあると思うのだ。その人の定義する「アイスクリーム」。よく、野球選手とかに、あなたにとって「野球」とは?みたいな質問するけど、そういう。そこで彼は定義するわけだ、自分にとっての「野球」を。


で、セカイカメラの出現によって、その個人の中にあった個人的な「定義」が、セカイにすべり込むんじゃないかって、思ったり思わなかったりした、昨夜。セカイカメラってのは、私の理解では、iPhoneのアプリで、iPhoneを通して場所にタグを付けられて、iPhoneを通してそのタグを皆が見られる、つまり普通の視界に漫画の吹き出しみたいのがくっついてて、いろんな人の感想だとか情報だとかが見られるというもの。ここ数日の私の理解では。

で、定義の話なのだが、そういう「定義」ってみんなある程度は同じものを持ってるんだけれども、そういうのっていつ形成されたのかなと思って。いつわかったのかなと。「好き」っていう感情は、どうやってその感情が「好き」だと知ったのかしらと。
今日おじゃる丸がやってて、見てたら、小鬼のキスケが、「恋」について教えてもらうんだけれども、最初「ドキドキするものだ」と教えてもらい、ドキドキしたので、これが「恋」かなーと思って聞きに行ったら、それは違う、恋は「もじもじするものだ」、と言われ。で、ドキドキももじもじもしたのだけどそれも恋ではなくて、次は「その人に会えないといらいらするものだ」と。で、その要件も満たしたが恋じゃなくて。わからない、という内容で。
私たちはキスケみたいなことにはならない。なぜかならない。それで、なんでだろうと。いつそれを「恋」だと知るのだろうと。誰にも教えてもらってないのに。
これがみかんだよ、とかいうのはわかる。指し示して教えてくれるから、みかんとその物体が結びつく。でも、これが恋だよとは、教えてもらってない。む、漫画とかかなあ。そんな気がしてきた。生まれてきたときには全部名前がついていて、それを表現したものがあふれていて、私たちは難なく定義を手に入れているのか。

最近、江國香織の「都の子」を読み返す機会があって。彼女は「泣いた赤おに」を読んだ時に、切ないという感情を理解した、らしい。
そういう記憶、いいなあと思う。

でも、色弱の先輩の話を思い出す。
彼は小さい頃に、色盲、色弱のテストのための絵を見せられた。クラス全員が、この絵の中の線をなぞって、と言われ、できたのに、彼はできなかった。最初はふざけてるのかと思われた、と言っていた。その絵は、赤い地に緑の線が斜めに一本引かれた絵だった、らしい。赤と緑の区別がつきにくいから、彼はなぞれなかった。
それは、「赤」と「緑」の違い、つまり定義がはっきりしていなかったということだ。「赤」がどういう色で「緑」がどういう色だ、ということを認識していなかったということ。
多分、私とて、そういうものはあるのだろう。言葉として違うことは知っているけど、ちゃんとした違いはわからないというか。
手に入りにくい定義もある。

でも、基本的には、それぞれ自分なりに世界を知覚して、それでいいじゃない、と思う。
定義は必要な時に必要な分でやればいい。時効の援用権者の定義とかね。くそー定義ばっかりだぜ。

September 27, 2009

ポイント

ここ沖縄では、いろいろな番組が遅れてやってくる。
チャンネル数が少ないので、東京でやっていても沖縄ではやらないものもあるし、時間を変えてやっているものもある。そういうところも、田舎の人が、東京はいいなあと、リアルタイムでオンエアなのかい、と、劣等感を抱くポイントとなりうる。これが離島へ行くと更に、チャンネル数が減り、本島はいいなあ、と、そういう話になる。よくないと思うねこれは。今の時代に。まあ変わっていくのだろうけど。


で、そのおかげで、だが、今日の昼間にガイアの夜明け(2009.8.25放送分)を見た。本当はBS JAPANでもっと早く見れるのだが、夜とかはテレビが皆の共有なのでなかなか難しい(うちは方針で、テレビを一台しか置かないことにしている)。

その回は、ポイントビジネス。しっかり見たわけではないのだが、最後に取り上げられたサイモンズという会社のやってることが、なんだか面白そうだった。
失効ポイントの有効活用、というのがそれ。

店にその会社のカードに加盟してもらい、加盟店でのポイントは一元化して貯められる。客にはポイントの集約につながるメリットがある。
店には発行するポイント分の金額を会社に払ってもらう。今まで失効したポイントは店に還元されていた形になっていたが、これを先に吸い上げる。客がポイントを使えばなくなるが、ポイントが使われないまま失効すると、その分が会社にプールされる。これを地域活性化とか、社会貢献につかえるのではないか、というビジネスらしい。もう実際に寄付している。
今は普及と加盟店を増やすのに頑張っているという段階。取材当時で300社くらいって言ってたかな。
東京農大の学生に加盟してもらうとか、中田英寿に会って、協力をお願いしたりするシーンもあった。

こういうのを見ると、スキームとか商品を考えるのも大切だけど、地道な営業活動がどうしても重要だよなと思う。これがないとせっかくのスキームも生きないし、何も始まらない。営業。官と民の違いでもある。
もう、本当に、大変そうだ。営業の人たちはすごい。前にいた会社は社長が仕事を取ってくるトップ営業で、私たちはほとんど営業をやらなくてよかったわけだが。

で。なるほどねー先に吸い上げるわけね。と思った。店には負担が増す。
番組によれば、発行されるポイントの総額は年間1兆円、うち使用されるのが約6000億円、未使用で失効するのが4000億円、だそうだ。単純に当てはめれば、今までのポイントの出費の4割増しで出費が増える。加盟するだろうか?
しかし、クレジットカードでも、電子マネーでも、人々が持ては、店側は参入する。そういうものなのかもしれない。

CSR関係は最近環境への関心の高まりもあって、いろいろ皆やっていると思うのだが、これも面白いなと思った次第。前の会社でもCSRもポイントも注目していたのに、思いつけなかったよなあと。
競合はいるのかしら。

ていうか、株主にウエルインベストメント株式会社 がいた。

参考
サイモンズ・ポイントカード

September 26, 2009

もやし

私信に近いが。

『食費の節約・節約メニュー』に関するアンケート
● 73.7%が1年前に比べて「夕食費を節約している」
● 節約メニューによく使う食材はダントツで「もやし」

「もやし」。
FJB!
我等のもやしがダントツだよ。

学生はお金がない。もやしは心の友、家計の友。30円で買える。傷みやすいのが玉に瑕。そんなもやしを愛するゼミ仲間が彼、FJBであった。今はシンガポールセレブだが、かつてはもやしを愛してやまない心優しい人だったのだ(今もそうだと願うところである)。もやしは、漢字で書くと「萌やし」なのだと発見したのもこの頃であった。ゼミ生がこぞって高木やに通い詰めたのも、きっともやしを求めてのことに違いない(私は何度も断っている。だってあほみたいに辛い)。

だいたい、「もやし」というのがいい。あくまで人間が萌やしている、というスタンス。萌やす、というのは、芽を出させるという意味である。「春雨のふるに思ひはきえなくていとど思ひのめを萌やすらむ」という歌もあるようである(goo先生がそう言っていた)。
どっちかというと、もやしサイドから見れば「萌やされ」である。それか「萌え」である。数年前からの新語「萌え」との関係性は関知するところではない。


ただ、反省すべきは、もやし料理のバリエーションを広げる努力を怠っていたというところにあろう。
アンケート結果によれば、皆下記のような料理を作っているようだ。

<様々なもやし料理>
・ もやし料理(ナムル・炒めなど)
・ もやしのコンソメスープ
・ もやしのなんちゃってミートソーススパゲティ
・ もやしポン酢                      ・・・など

様々なもやし料理、の下に、まず「もやし料理」と来ているのが、もしかしてあんまりできない子なのかな、と思うけれども(レベル合わせて、・ナムル ・もやし炒め であろう)、こんなにバリエーションがあるのかと、もやしをまた見直す次第。
私など野菜炒めとか豆腐チャンプルに加える程度のもやし活用度で、恥ずかしい限り。

何はともあれ、もやし農家素晴らしい。


※追記
FJB氏が、更に広げてもやしと人間の関係性の展開を示唆するようなエントリを書かれていたのでここに記す。

寂しさについて

昨晩、久々にTelefon Tel Avivを聴いたら、なんというか、まあ有り体に言うと、病んでいて。
東京にいた最後の二年間くらい、つまり2006年の夏から2008年夏くらいまで、これを好んで聴いていたというのは、今とはかなり違った精神状態だったのだろうと思うわけで。
どういう曲かというと、こういう曲である。



これを聴きながら、夜のお台場(テレコムセンター付近。人通りはほぼ無い。)を散歩していたのだけど。あと通勤中も聴いていた。朝から。

こういう曲つまり東京に住んでいた時聴いていた曲から想起される思い出というものが、悉く「寂しい」という感情を伴っていることに気が付いた。
それは過去のものだからというのではなくて、東京で生活していた間ずっと、常に、寂しかったのだということ。友人といても、サークルで騒いでいても、恋人といても、そうだったのだということ。

そしてその寂しさを、私は好きだったということ。自分の内側にずっとあった、帰るべき場所とでも言おうか、そういうもの。人は誰しもひとりである、という基本に戻るというか。

音楽を聴くときは大抵一人だから、そういう記憶が多いのもあるかもしれない。
真冬に銀座の街を歩いてバイトに向かうとき、とか、同じく真冬に銀座に呼び出されて待たされた間散策したときとか、早朝に大学へ向かう道、とか、台場でフジテレビのスタジオを見ながら散策した道とか、平日の真昼にがらがらのゆりかもめに乗っていたとき、とか、秋の夜に窓を開けて寝っ転がっていたとき、とか、千葉のだだっ広い公園で芝生と空ばかり眺めてぼーっとしていたときとか。
思えばよくぼんやりしていた。

寂しさは、親しいものだった。憧れてさえいた。誰しも、そうなのかもしれない。本能的なものかもしれない。一人は冷静になれる。自分が自分を支えている肉体であることを確認できる。
「僕の地球を守って」という古い漫画があるけれど(ちなみに名作)、一巻の最初に、主人公の女の子が月を見上げて、なぜか、帰りたい、と思うシーンがある。彼女は結局後の展開で、月に関係のあることがわかるのだけれども。
しかし夜空を見ていると、同じように、帰りたい、と思う。漫画に影響されているのでは全然ないと思うが、寂しさと、空に思いを馳せる気持ちが混ざってそうなるのだろうか。


少し前に糸井氏が、さびしさってのは贅沢な感情だ、と書いていた。全部含まれているから、と。
確かにそうもいえるかもしれぬ。楽しさや嬉しさや悲しさなんかを経ての寂しさなのかもしれぬ。それが以前はあって、今はないというような。ある状態に焦がれる状態というか。
「いきの構造」という本は「いき(粋)」について仔細に分析したとても面白い本だが、その「いき」の構成要素としての「渋味」についてこんな記述がある。
「渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶がある。」
寂しさにも、それが言えるのかも知れぬ。

September 24, 2009

内心と行動の一致・不一致について思うこと

意思と表示について。

心の中で思っているだけでは、外の人にはわからない。
口に出すとか、文章にするとか、表情で表すとか、何らかの形で表に現れなければその人の中で何が起こっているのかはわからない。
もっというと、実は表わされたところで、実際その人の内面でその表示と同じ思いがあるとは限らない。顔で笑って心で泣いているのかもしれないし、笑顔で悪意を持っている人も、そっけなくても好意を持っている人も、いるわけである。

極論すれば、心の中で何を思っていても、外に出るのが他者にいい影響を及ぼすものであれば問題ない、ということもできる。

人に優しくしなさい、というのは、優しい気持ちを抱かなくても、優しいと思われる行動によって達成される。泣いている人にハンカチを差し出すのは、優しい気持ちでなくてもできる。でもその行動を見た人は、この人は優しい、と思う。もしかしたらこの人がその場にいた誰かの高評価を得る目的でそのような行動をとったのだとしても、外からはわからない。


わからないけれど、他者を欺いていると思う。不当に高い評価を得たままになってしまう。これがフェアじゃないと思う。

自分の内面と、それについての他者からの理解が一致するということは、安らかなことだと思う。正直であるということ。
ハンカチを差し出したのが、優しさとは違った義務感のようなものであったとしたら、この人は義務感からハンカチを差し出したのだと理解されたい、ということ。


例えば、誰かが悲しんでいるとき、私も悲しくなれればいいのに、と思う。
一緒に悲しくなって、泣いたり怒ったり、できればいいのにと思う。自分の内面も悲しければ、堂々と行動でも悲しがることができる。悲しい気持ちに嘘偽りがなければ、この人も悲しんでくれている、という評価だって後ろめたくない。
ところが残念ながら、私にはその能力が無い。イマジネーションが足りない。その人になりきれない。大抵、その人が悲しんでいることが悲しい、という軽微な悲しみしかやってこない。あとは困惑。

その人が求めているのが、何かの解決策であれば、一生懸命考えてあげることもできる。
しかしほとんどの場合、求めているのは、一緒に悲しんでほしい、悲しみにつきあってほしい、ということである。
私は想像力を振り絞って、何か言葉を探す。

そういうときに、割り切って、悲しくはないんだけれども、とても悲しいという表現をしてもいい、と考えられないだろうか、と思う。内面の事実とは違う評価を受けても構わないと開き直れたらどうだろうと。
それが彼彼女が望んでいることなのだから、私がそこを納得すれば、ベストな結果になるのではないかと。その人にとってはそれが真実になるのだから、いいではないかと。優しい嘘というやつだ。

多分、役者も同じことをしていると思う。芸術のために嘘を高度に高めた技だと思う。そしてその嘘を、皆が知っているという前提でやっている。
嘘も方便なのである。目的が正当であれば、よいのではないか。


頭ではそう思っていても、なかなか。
正当かどうかなんて、誰にわかる?何かのきっかけで私の本心を知って、その人は傷つくんじゃないか?
嘘は所詮、嘘。
嘘ですと断った上でなければ許されないものなのではないか。

嘘は負債のようなもので、負えば負うほど管理が難しい。帳尻を合わせるのに四苦八苦。
大人なんだから、いくらかの負債は必要なのだろうし、それを管理する能力くらい身につけなければならないのかもしれないが。

そんな自分の負担も考えて、結局私は悲しむ人の前でおろおろするしかない。


くるりの「ホームラン」という歌に、こんな歌詞がある。

「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」



そんなわけで、私は今日も案外正直に生きている。

September 23, 2009

紺碧

妹が何かの拍子で、
「王者と覇者の違いって分かる?」
と聞いてきた。

「王者というのは、人心を掌握して治める者のことで、覇者は力で捻じ伏せて治める者のことを言うんだって。漢文でやったんだ。」


早稲田は「覇者 覇者 早稲田」で、慶應は「陸の王者 慶應」であることに、いささかの敗北感を覚えた。前者は早稲田の応援歌「紺碧の空」、後者は慶應の応援歌「若き血」である。
しかも聞けば、「紺碧の空」の方が「若き血」より後に作ったものではないか。光輝あまねきとか、歌詞多少かぶってるじゃないか。

ただ、「若き血」はたしかに、いい歌。というか、実は私も歌える。院には慶応出身もいたから教わったのだ。
その後、慶應側の攻撃の時慶應サイドの演奏にあわせてつい口ずさみ、周りの早稲田陣営から変な顔をされた。

余談だが、早慶戦の際、学部が慶應で院が早稲田という人々のアイデンティティは崩壊しかけている。院の仲間たちからは、お前まだあっち側なのか、捨てろ、そんなもの捨ててしまえ!身も心もえんじ色に染まるのだ!と言われ、改宗を迫られるが、たとえ応援歌でも「慶應ぶっつぶせ」なんて言えないのが彼らである。「慶應」を「低脳」に替えた替え歌を聴いて激怒するのが彼らである。
そして早稲田の中で三田会(慶應出身者の会は大抵三田会という。早稲田は稲門会。)を結成し、そこだけで許される「若き血」を歌う喜びに心震わせるのである。

あーなんか早慶戦で皆で肩組んで紺碧やりたいなー。

September 21, 2009

ハードボイルドひるさがり

今日外出から帰宅した際。

私  「はやくドア開けてよ」
妹1 「まあ待ちなよ」
妹2 「ハードボイルド!」
妹2 「ハードボイルドってさー、固ゆでって意味だよねー。ハードボイルドエッグだよねー」
私  「うわーまじだ。boiledだ。」
妹2 「イケメンハンプティダンプティみたいだよね」
妹1 「固ゆでハンプティダンプティ!」
私  「割れない!」(割れます。)


goo辞書より

(卵の)固ゆでの意から転じて、冷酷な、非情なの意
(1)第一次大戦後アメリカ文学に現れた創作態度。現実の冷酷・非情な事柄を、情緒表現をおさえた簡潔な文体で描写していこうとする。ヘミングウェーの初期の短編がその代表的なもの。
(2)感情をおさえた行動的な主人公の登場する探偵小説の一ジャンル。D =ハメット・ R =チャンドラーなどがその代表的な作家。

まじだ。どう転じたら固ゆでが冷酷非情になるのだ。
ていうか妹2(17才)が博識。

責任について

折角なので、もう少し筆を進めてみようと思う。

先のエントリでは、責任をこう定義した。
「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」

日本語の普段の用法とは若干異なると思う。私のした定義の方が狭い。
責任というのは、一つに、責任をとる、とか使われる場合がある。具体的に何か代償を払うことである。つまり私の定義した、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」ということ。
もう一つ、責任を感じる、とか、責任感、とか使われる場合の「責任」は、また違った意味合いを持つものであろうと思う。これは、具体的に責任をとるということではないが、考えたり行動したりする上で重視する、とか、制約を課するとか、そういう意味であろうと思う。心の中のこと、あり方のこと、内面的なことである。

前者の「責任」について。
Aさんが「責任をとる」、という場合。Aさんはどういうことになるのか。
会社でのミスだった場合、上司や同僚に謝る、とか、取引先に謝るとか、そういうことになる。その人のせい、という、対外的評価にさらされることになる。そしてそれに応じた対応をする。残業したり休日出勤をしたりするかもしれない。悪くすると降格、辞職とかになるかもしれない。
法的に、損害賠償責任がある、と言われた場合、これは賠償をする責任を負う。つまりお金を払わなくてはならないということになる。
刑事責任がある、という場合には、自分の犯した犯罪につき、刑罰を受けなくてはならなくなる。
ケースバイだが、まあそういうものだろうと思う。つまり、前エントリで定義したようなことだ。不利益を被ったり、償ったりすること。

そして、後者の場合について。
Aさんは責任感がある、とか、そのことについて責任を感じています、とか。
これは、~しなくてはならない、とか、~はわたしのせいだ、とか、内面的に(心の中で)思うことだろうと思う。
そう思うことによって、行動につながることもある。この仕事が終わるまでは帰れない、なぜなら顧客に迷惑がかかるから、なんてのは内面の責任感により仕事を続けるという行動につながっている。
子供が悪いことをしたのは親である私の責任だ、申し訳ない、なんてのは、内面で責任を感じたことにより謝るという行動につながっている。で、別に行動につながらない場合もある、勿論。
もといた会社の先輩はよく言っていた。「責任感なんて僕は大嫌いなんだ。責任感なんていうのは人をうまく使って、しばりつけるための都合のいい言葉に過ぎないからさ。」

近所のサイトに、こういう言葉があった。

「思う」だけでは他者にとっては無いのと変わらないと、基本的なスタンスとしては僕は思っている。責任にせよ誠実さにせよ優しさにせよね。責任感の強さの度合いが「責任のまっとう具合」に加味されはしないし、加味されるべきではないと思う。

多分、彼の言っている「責任」は、後者の方の意味、つまり、責任感とか、責任を感じている、とかの心の話を前提にしている、と思う。それか、もしかすると、責任感を感じているだけでは、責任をとったということにはならない、と言っているのかもしれない。

で、責任感を外部的に評価するという話であれば、それは外部的に表示されないと評価のしようがないので、上記引用はわかる。ただ、物事として捉える場合には、内面の部分も含めるべきだろうと思う。他者にとっては無いのと変わらなくても、本人にとってはあるからだ。責任感のあるなしは、外側からだけでは決められない。
で、前述のように、責任感があるだけでは責任をとったことにはならないのは勿論だと思う。私は「責任をとる」ことと、内面の問題に、定義を分けたが、そういう言い方もできると思う。

内面の意思と表示の間の問題というものについて、法学でも民法の初期に学ぶのであるが(主に。他の憲法や法律でも学ぶけど)、その話はまた今度。

で、私は前エントリで、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」と定義した。これは外面的な話である。具体的にどうなるの、っていう話である。
これに内面的な、つまり~しなきゃとか、気に病むとか、そういう心の中の話を組み込まなかったのは、前エントリ内での文脈もあるが、それはあんまり問題にならないからである。具体的にどうなるの、っていうのが結局実害だからである。いざ責任をとらなければならないとなったときに、問題になるのはそこが主だからである。

私は責任というものについて、割にパッケージ化された考えを持っていて。それは以前に考えたことがあるからなのだが、それは少し前まで、責任というものを怖がっていたからである。
責任をとらなければならない、とか、責任ある地位、とか、そういうものが怖かったのである。
そこで、なぜ怖いのかを考えてみたわけなのである。考えることは大事である。考えれば大抵のことはわかるのだ。
出た答えは、責任というものがどういうものかということを明確に認識していなかったから、である。簡単ー。お化けと一緒である。わからんものは怖いのである。
で、責任を負うと、要するに、こうこうこうなるわけね、とわかってからは、怖くなくなった。責任の範囲は事前にまあだいたいわかるだろう。最悪辞職、とか、よくて社長に怒られる、とか。それをする覚悟ができていればいいわけだ。できなきゃやらなければいい。それだけだ。

私見。

※追記(090921.PM3)
補足。大体同じようなことが書いてあったが、辞書を一応参照することにする。
上記の文章中では、「責任」と、「責任をとる」「責任感」のそれぞれの定義が混乱して記載されているふしがあったため。

引用:goo辞書
(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
   「―を果たす」「保護者としての―」
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
   「―をとって辞職する」「だれの―でもない」「―の所在」「―転嫁」
(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。

September 20, 2009

強いられること

強いられることが嫌いである。かなり嫌いである。

違う考えの人がいても全然いいけど、その人が私にそれを強いようとすればかなり拒否する。反感を持つ。こと考えにおいては、強いられて変えられるようなものでもない。
大体何の権限があって強いてくるのか意味が分からん。

逆に私の考えと違う考えの人に、強いることはしないでいようと思っている。
自分の考えは開示するし、こう考える方法もあるよと言うことはあるけれど、あんたのそれ間違ってるよとか、考え方がおかしいとか、そんなのは言わない。それは間違ってもおかしくもないからだ。(漢字が間違ってるとか日本語がおかしいとかは言うよ。言う言う。)
もしある人が、間違ってるとかおかしいとか言ったとき、それもその人の考えである。という風に私は受け止めている。けど、世の中には間違ってるとかおかしいとか言われて、それが「本当に」間違っていたりおかしかったりする、と思う人もいるから(うちの妹みたいに)、言わないでいたほうがいいと思う。
私は個人主義である。

しかしそれを冷たいと言われることは多くある。
関わりたくないと捉えられるらしい。または、こうしろと言われたいらしい。
前者はともかく、後者はそりゃその方が楽である。決めるという労力を使わなくていいし、もし何か起こったらこうしろと言ったからこうなった、といういいわけができる。決定と責任を回避するのである。甘えすぎである。
もしかするとこういう態度が冷たいのかも知れん。

10代ならともかく、20過ぎたら自分のことに関する決定と責任を負うことくらいやれ、と思う。
というか、責任に関しては、自分のことなのだから、これはもう排他的一身専属的に自分が責任を負うのである。責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。自分のことに関するものなら、誰かの決定に従って行動したとしても、恋人関係が破綻しようが、仕事がうまくいかなかろうが、不利益を被るのは自分であって、その誰かではありえない。せいぜいその決定をした人をなじるくらいのものである。そんなリスク負ってまで、こうしろと言われたいか?と思う。

や、別に怒ってはいない。

で、強いられることが嫌いなのである。
人がすることで嫌いなことは少ないけど(自分と関係ないから)、強いられるのはなんか気に食わん。自分がそれに従わないつまり影響を受けないとしても、気に食わん。

あ、でも。
仕事とかで何かをすることを要請されるとか、そんなのは勿論やる。でもおかしいと思ったら、言う。で、納得したらやる。
仕事でなくても。
納得できてしまえば、強いられる、にはならなくなるのである。
だから、説得される、はいい。説明が入るとOKなのか。わかった。自己完結した。

September 19, 2009

人生―ジェンガモデル

私はこの部屋にあるもっとも神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。
人生はジェンガであると。

というのは。先のエントリのコメント欄にいただいたコメントがそれを示唆するものだったからである。
更に言うと、先の先のメモエントリにおいてメモしておいた友人の考え方が、それとリンクしたのである。


彼の話のおおまかな説明としては(私の解釈が半分くらい入っている、あしからず)。

周りの人を見ていると、どうやら「積む」作業をやっているらしい。
積むというのは、つまりこの地位もしくはステップの次はもう一段上のステップへ、次はその上へ、という風に積んでいくということ。もしコンサルなら、アソシエイトからコンサルタント、その次はマネジャー、次はゼネラルマネジャー、という風に。起業していたら、売上いくら、規模いくら、というのを拡張していき、という風に。
誰も彼もそうで、何かの集まりなどに行くと、「積んでいる」ということを前提に、あなたはどの分野で積んでいるのか、という風なことを聞かれるのだが、それに居心地の悪さを感じる、と。
僕にとっては、同時に「掘る」作業というのも必要であると思う。散歩をして何かに気づくとか、麻雀をやって留年するとか、そういう作業が必要だ。意味づけることは自分しかできないわけだし。
勿論、僕にとっての「掘る」作業に位置するものが、誰かにとっては「積む」作業であることもありうる。
君なんかはずっと掘ってるよね。

と、私はまあ大体こんな感じで受け取った。

最初に聞いたとき、掘る、という言葉にピンとこなかったのだけど、ジェンガとリンクして、なにやらピンときた。
人生はもしかすると、ジェンガのようなものかもしれない、と。

最初は積み上げるものがない。
それで、掘り出す。掘っていると積み木が出てくる。
それを積んでいくのだけど、積み木がなくなればまた見つけに掘り出さなくてはならない。
多分これをやっていると、掘る作業と積む作業を同じくらい、もしかすると掘る作業の方を多く、やらなければならない。
でも大人になり、掘る作業をする時間をなかなか工面できなくなってくる。積め積めと、プレッシャーをかけられたりする。他の人の塔の高さと競争したりするようになる。それで、積む方に気を取られるようになる。ジェンガのように、下の積み木を抜いて、積むようになる。掘らなくて済むから、これはとても効率がいい。
しかし、積み木の絶対量は変わらないから、それを続けるのには無理がある。塔だって脆くなる。
人の積み木を真似てなんとか作ってみたりもする。丹精込めてくつった積み木は頑丈で美しいが、簡単に作った積み木は不安定である。
そうして掘ったり積んだりしながら、生き延ばす。
ある人の塔は美しく、ある人の塔はささくれだっているかもしれない。ある人の塔は脆いが高みを目指していて、ある人の塔は低いが堅固かもしれない。人々はその塔を見て、ほめたりけなしたり、自分と比べたりする。
或る時、掘る力も積む力も衰え、塔が傾き、積み木は崩れおちる。地に落ちた積み木は、地面に吸い込まれる。そうして、また誰かが掘り返し、見つける。


そういうイメージがなんとなく、浮かんだのである。人生のある一面を、ジェンガモデルによって想像できるんじゃないかと。

人生といわず、世の中も。人生ならぬ、世界生というか。
なんだか、この世界というのは、時間も含めて、生き物みたいだと思っていて。
私は一個の生命体だけれども、私は細胞という個体の集合であって、一個の細胞の生き死にというものもある。そういう風に、人類もまた一人の生き死にはあるにせよ人類というものは生き続けているのであり、それは地球然り、宇宙然り、というような感じで考えると、世界、時間然り、と思えるのである。
この世界もまた、もしかするとジェンガのようなものなのではないかと。

という妄想。

September 17, 2009

痛みを避けると面白くは無いということ

本当は、刺激があまり好きではないのではないか、と思う。
本来的にはというか、生来持っている性質として、刺激を回避しようとしていると思う。

辛いものは食べられない。
胃が弱いとかそういうのの前に、舌がそれを受け付けない。
苦味とか酸味とか甘味なんていうのは味だけれども、つまり味覚で感じているけれども、辛味は痛覚だからね。味覚じゃないからね。痛がって喜んでるんだからね、君ら。マゾだよマゾ。と、思っている。

同じ理由で、炭酸も苦手である。コーラをぱーっと一気飲みしてしまうような超人的な人はともかく、普通の人でも難なく飲んでいるらしい。スカッと爽やか、らしい。解せん。
あれも、痛いの部類に入る。
炭酸が弱いとありがたい。
で、大学に入って最初の頃なんかは、お酒も初心者で、居酒屋なんかに行くと何のもうかなーとかなるんだけど、大抵炭酸なんだ。サワーは言うに及ばず、居酒屋にあるカクテルは大抵炭酸で(ジントニックだのピーチフィズだの)、まあビールだってそうだしチューハイもそうだし。カシスオレンジとカシスウーロンばっかり飲んでいた。
そんなこんなで、そちらの道が閉ざされてしまったがゆえに、炭酸の無い方へ、炭酸の無い方へと歩いていくと、そこに焼酎とウイスキーがあったというだけの話なのである。別に攻めた結果でなく、守った結果である。

舌もそうだが、その他あらゆる面で、刺激の強いものは避けている気がする。これは持って生まれた性質なので仕方が無い。刺激ばっかり追い求める性質を持って生まれた人もあろう。こればかりは自分では決められぬ。

しかしこれを自覚したのが最近で。というか昨日で。
刺激ほしさに東京生活を送っていたり、友人との対話を楽しんでいたりした、とそれまでは思っていた。
刺激を必要としている、と。
それはそうなのだ、確かに。でも、痛さを伴う刺激は避けてきているのだ。自分が傷つかないラインでコミットしているのだ。のっぴきならないところまではいかないのだ。多分。

勿論いくつかの物事については選択してコミットしている。軸足を置いている。それは責任というような上に立った感じではなく、一蓮托生みたいなものだけど。
私は小さい頃から慎重なので、自分の手に負えるものかどうか、抱えきれるかどうかを多分少なく見積もって手を出している。よく言えばそれは自分の度量を判断して迷惑をかけないようにしている、ということなのだろうが、あんまり面白みは無い。物事が面白くなるのはどれだけコミットしているかというのと比例するのだから。それはもう絶対。

そろそろ積む作業に手を出したく。

memo090916

掘る
積む
苦みばしったコーヒーとアルゼンチンタンゴ

September 13, 2009

草に すわる

わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる

-----------------------------八木重吉「秋の瞳」より 「草に すわる」

こころよ

こころよ
では いつておいで

しかし
また もどつておいでね

やつぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行つておいで

----------------------------------八木重吉「秋の瞳」より 「心よ」

September 9, 2009

ふられる

主に恋心を打ち明けて拒絶されることを、ふられるというが、漢字で書くと「振られる」であるのは異存ないとして、カタカナとひらがなを交えて書く場合「フラれる」と表記する件について疑問を呈したい。

まず、なぜカタカナを交えるのか、という点。
これは別に、フラれるに限った話ではなく、「イケてる」とかそういうのも同じ疑問がある。何その、カタカナ。外来語でもないし。というか、もはや、気恥ずかしいというか、古い感じがする。バブリーな匂いがする。ボディコンとかお立ち台と同じ匂いがする。

百歩譲って、カタカナ表記をしたとしよう。
カタカナの部分が「フラ」なのは何故か。なぜ「フられる」ではなく「フラれる」なのか。
漢字の部分をカタカナにしたというならわかる。でも「ら」までカタカナにする理由が知りたい。送り仮名的に気持ちが悪いのである。
この違和感は、受動態を能動態にした時に、もっとも強く感じる。
「フル」
いやおかしいだろ。FULLかと。

ちなみに、なぜ思いの丈をぶつけて敗れることを「振られる」というかについては、昔女性が好意のあるなしを振袖の袖の振り方で示したという文化に基づいているらしい(左右に振ると「好き」、上下に振ると「嫌い」)。風流ではある。
でも、好きでも嫌いでも、「振られ」ているので、なんだかなと思う。

September 8, 2009

依存とか性差とか

ふと、恋愛について考える。
この前のエントリで、恋人が欲しいということの意味は、優先して一緒にいてくれる人がほしいのだということ、という話があったけれど(そういう場合もあるということ)、それに関連して。

恋愛は依存であろうと思う。一つの重要なファクターとして、「依存」であろうと。何となくそう思う。
依存関係のない相手とは恋愛関係ではないと思う。手をつなごうが、好きだと言い合おうが、結婚しようが、恋愛ではない気がする。

依存というのはどういうことかというと、相手が自分を気にかけること、つまり気持ちの見返りを要求するということ。それがなくてはだめだと思ってしまうこと。

それがなくても平気な場合、恋愛とは言わないのではなかろうか。

そして、恋愛関係に陥るには、互いにその相手に依存する気になるかどうか、というのがあろうと思う。
好きだけど友達、という場合には、この依存する気が起きないということじゃないかしら。


話変わって。

母が、男の人というのは、自分の人生とか信念が最優先で、家族のことを二の次にする人が多いらしい、という話をしていた。男同士の友情を、家族よりも優先させたりする、とか。
で、私はその話を聞いていて、そうよそうよ男ってひどい、とは思わなくて、私もそれはしかねないなと思うわけで。
論調として、男は、女は、という話をする時に、まず性別ありきで語るところというか、どっち側に属しているという意識からスタートする話というのが、しっくりこないところがある。
勿論確実に性差で立ち位置が違う話というのはあるけど(子供を産むとか)、こう、自分の人生と家族との優先度の話とか、大切にするされるの話とか、別に性差関係なくね、という話でも、なぜか性別で分けて話されることというのがあって。
今思えば、院に行くとあまりそういう話はでなかったので、意識が違ったんだろうなと思う。性別関係なく独立した個人、というか。まあ私の周りは。
勿論家庭を運営していく中で、結局は女が家事を負担するのだとかいう結果論はあると思うのだけど。

院時代に、学部の時の友人と結婚の話をしていて、私が「まだ相手を大切にしたり、幸せにする自信がないんだ」という話をしたら、「男みたいだね」と言われたのだけど、別に男みたいじゃないと思う。大切にするとか幸せにするとか、そんなの両者が努める話だと思う。

とかいう疑問。

September 7, 2009

自戒

最近インプットが足りないと、ある友人が書いていた。

それを読んだ時には、そうなのか、としか思わなかったのだけど、私自身インプットがものすごく減っているということに後で思い至った。これは、彼の言っている意味でのインプットとはもしかすると違っているのかもしれない。私と彼のステージは違うのだ。

インプットが足りないことは知ってはいたのだけど、自分のことに引き寄せて考えるということを怠っている、半分意識的に。
ここ最近は、よりストレスフリーな生活を心がけ、思考停止の練習をしていた。思考停止なんて、意識してできるのかしらと思っていたけど、全然できる。人間の頭は、怠惰になろうと思えばどこまでも怠惰になれる。周りが怠惰であれば尚更に、なれると思う。逆に、勤勉になろうとすれば、これもなれると思う。

インプットが無ければ、アウトプットは無い。
同じものを同じように量産していればいいという世界ではもはやない、どの分野でも。
吸収、成長、進化。
反応反射音速光速。

気づけ。反応しろ。先を読め。光の速さで。

私がここで言う、インプットが足りないというのは、情報に触れていないということ。気づきを得ないということ。アンテナを張らないことである。

私に関して言えば、アンテナが敏感になるのは、危機感がある時だと思う。ついていけなくなること、帰れなくなること、寂しいこと、競争に敗れること、見限られること、そういった不安や焦りというネガティブなもの。それが衝動になって私に日経新聞やらダイヤモンドやらを読ませていたし、早く帰宅することを止めていた。

興味があるとか、好きだとか、そういうものもアンテナを敏感にすることはある。
けれど、それは一部のアンテナにしか働かない。
嗜好性選択、と、友人は言っていた。自分の好きなもの、嗜好性に従って集められた情報とかモノ、それに偏ってしまうということ。それが悪いこととは言わないが、彼はそれに不信感を多分持っているし、私もそうである。自分の嗜好性への不信、自分の選択に対する不信。

今の状態というのはそれで、好きなものだけを観て、読んで、暮らしている。それは全然ストレスもないし、しなければならない、などという意識はない。
でもそれでいいと思っているかというと、不安が、ある瞬間に押し寄せるのである。
このままでいいはずはない。いつしか話がわからなくなっているに違いない。自分の中の何かが欠落したままに取り戻せないような事態になるのではなかろうか。ある種の閉じた世界にしか生きられなくなっていないか。他者を排斥する人間になりはしないか。卑屈になってはいないか。何かが起きた時に対応できないのではないか。

ただ、これは私が少し前に陥っていた強迫観念にも似た焦りとニアリーイコールである。

そんなに強くいつも思っているわけではないが、それでも友人の言うところの「ランダム性」みたいなもの、それは私も必要だと思っている。ただ、彼のように、100万儲けたら10万は(一見不合理に)捨てるように使うとか、30日試験前に日があったら10日は(一見不合理に)無為に捨てるように過ごす、というような大胆なことはしたことがない。これを彼は供物にたとえているが、面白い行動だと思う。
私がする不合理な行動は、せいぜい全然情報も無いCDだとか本を買ってみる、というくらいのものだ。まあ、そんなのはよくあることだと思う。何故か買ってしまったものというのは、ある。

基本的には、私は、好きでもないものをあえて読んだり聴いたり観たりすることは無い、と思っている。
それで、私は無理して興味のない本を読んだり、興味のない音楽を聴いたり、興味のない映画を観たりはしない。もしするとすれば、それが「必要」だからするのである。
これが基本のスタンスである。

問題は、「それが必要かどうか」という範囲が、ともすれば広がりすぎるということである。
あれもこれもになるのである。そして、その必要度も過剰に上に設定しすぎるのである。これを、注意しなければならない。
mustなのか、betterなのか、どうでもよいのか。それもその時々で変わってしまうことも頭に置いて。
落ち着いて胸の内を探してみるのである。これを今することにしっくりくるかどうか。私には直感とか運とかそういう類の能力(くじ運とか霊感とか)はほとんど備わっていないと思うのだが、しっくりくる、というのは結構に大事だと思う。何より、根拠が無いっていうところがいい。


その必要であるから読む、と判断して読んだ範囲のものが、いつしか、好きだから読んでいる、に転化していることがある。これはある意味幸福なことだけど、それが本当にそうなのか、ということを吟味した方がいい。自分を騙していることがある。


そんな感じで、そろそろまた思考停止をやめる練習をしてみむとす。
友人に会いたい。

September 6, 2009

クルーン

9月1日。
クルーンが、なぜか「KOHDA」と書かれたユニフォームを着てマウンドに。

「え、何で?何でこうだ?」
「香田コーチのやつ?」
「倖田ファンかな」
「くぅって呼んでほしいとか」

と言いたい放題の我が家。

宿舎に忘れたんだって。

September 2, 2009

脈脈

心電図なう、なんてつぶやいてしまったものだから、訝しげな連絡を何人かから頂きまして。
頻脈なので、ちょっと心電図のデータをとっていたのであった。

頻脈とはいえ甲状腺異常でもなく、心不全とかでもなく、全然大したことはなくて、単に交感神経が活発なのでしょうということで、なんとかベータ?みたいな薬を処方された。

頻脈で困ることというのはそんなにないのだけど(だって単に脈が速いだけなのだ)、ただ、坂道とか階段とかを登るときに、脈が速くなりすぎて疲れやすいというのはある。息が上がりやすいというか。それで炎天下の金城町石畳道付近(急勾配)を登った際に無茶苦茶疲れた姿をお見せしてしまったわけかと、なんだか納得するのだ(運動不足のせいだけではなかったのですよ)。

そういうわけで、まあ疲れるということがあるため、処方してもらったわけである。
飲んだら、脈が遅くなった(多分)。薬ってすごいよなと思う。
ジェネリック(後発薬)と言うけれども、開発や治験からやってる会社の苦労やコストおよび功績を考えると、一概には推進できないよなーとも思うのである。ある程度回収させないと大手製薬のモチベーション下がりまくるから。まあ、その中間をとって今の制度なのだろう。


こんな夢を見た。
テーブルにカスタネットが3つ置いてあって、そのまわりにはおはじきのようなM&Msチョコレートのようなものが、たくさん散らばっていた。それらは青と緑だった。
誰かがカスタネットを赤の面から青の面にひっくり返すと同時に、チョコレートを4つ集める。青が3個に緑が1個。
その誰かの手元は見えるのだけど、私は視線を上げないので誰なのかはさっぱりわからない。私に見せているようだ。
で、またその誰かが次のカスタネットを今度は青の面から赤の面にひっくり返す。私は法則を見出して、次に集めるチョコレートの色を答えなければならない。

メールの着信で目が覚める。頭の上には5冊くらい文庫が積んである。
顔の横に、心電図のデータをとっている小さな機械。
動悸。

まあ、そんな感じだ。
ストレンジ・デイズ読中なのだけど、遅々として進まず。体内にサナダ虫を飼っていないからかしら。

September 1, 2009

派派

今週の、ダーリンコラム(ほぼ日の)で、「派は、いらない」っていう文章があった。

海派、山派?
犬派、猫派?
‥‥みたいなこと、よく言うでしょう。
対立して、それぞれの立場をよく言って、
相手のことを批判しつつ聞いていくと、
おもしろい考えがたくさん仕入れられる。
というようなねらいがあったんでしょうかね。

でも、言うことがだいたい決まり切ってくるんだよね。
よく言いそうなことを、ただ言い合う。
これが、あんまりおもしろくないんだ。
昭和の時代のおやじたちが、呑み屋で、
「おれは信長だ」だの「おまえは家康」だのと、
唾を飛ばして言い合ってたんだけどね。
そういう、ある種の、素朴な「ことば遊び」なんだよな。

てなわけで、派で遊ぶのは、もういいんじゃないの?という感じのコラムだった。

私はつぶあんかこしあんか、と言われれば、断然つぶあんなのだが、つぶあん派に何も属さなくったって、なにもこしあんを目の敵にしなくたって、と言われれば、そりゃあそうだ、と言わざるを得ない。以前に書いた属することっていうエントリにも通じるのだが、属することによって仲間意識でうれしい!ってこともあれば、無理矢理敵意を抱くっていう契機にもなりうるということのささやかな証左。

関西では、関東では、九州では、東北では、こうだ!っていうやつ。ドロケーだ、ケードロだ、マックだ、マクドだ、エスカレーターは右だ、左だ、的なのに似ている。まあ、似てるなって思っただけである。

派閥っていうのは、属するためにわざわざ作るようなものだなと思う。出身大学まで、学閥にしてしまう。仲間意識っていうのは楽しいんだけれど、排除を伴うと寂しい。というか勿体ない。

派ってのは、組織なり構成員の数が大きくなればなるほどできやすいものだろうなと、まあ自民党を見て思ったわけだけれど。いや自民党に派閥ができるのはそれだけではなくって、その歴史の長さと、政権与党であったがゆえの行政との関係もあるとは思うのだけど。


昔は女子の方が派閥を作りやすかった、と思う(今は逆だと思う)。私はその派閥が全然好きではなかったのだが、なんか組み込まれていて、一緒に帰るとか、教室移動は一緒だとか、同じクラブに入るとか、そういうのがあって、別の派閥の子と帰ったりなんかすると、気まずくなったり、激しいと糾弾されたりするのだった。意味がわからん。小学校や中学校で顕著だったけれど、ああいう幼い頃というのは、より動物寄りで、なわばり争い的な本能めいたものがあるのだろうか。だとしてなぜ性差があるのだろうか(あるような気がするのであるという前提を置いている)。

男の子たちは、仲良しグループはあっても、排除し合っていなかった気がする。女の子は排除し合っていた気がする。裏切りとか、言われた気がする。もしかすると、恋愛のときに生ずる独占欲を、恋愛という過程以前のものとして、友人に向けているのではないか。仮説。あくまで仮説。ドラフトのドラフト。

恋愛というものを考えていた時に、結構前だけど、ああ、恋人をつくりたいっていうのは、何をおいても私を優先してくれる人を作りたいってことなのか、という結論を出して、その思考過程をそのまま口に出していたら、一緒にいた友人に、「当たり前じゃん」と言われた。そういうものを、小さい女の子は友人に求めているのかもしれない。女の子は、小さい頃も今もそういう対象を必要としていて、それが恋愛以前は友人に、以後は恋愛の相手に、求めると。男の子は、そうでもないと。仮説。

で、私は今ではこの「当たり前じゃん」と言われた考え方とは違う考え方をしている。いや、「恋人をつくりたい」というときはもしかすると、優先して一緒にいてくれる人がほしい、ということなのかもしれぬ(そういうケースもある)。でも、実際「恋人ができる」ということはまた別で、優先して一緒にいてくれる人だから恋人になるわけではない、勿論。恋人ができるというのは、なんというか、インスピレーションの問題で、そういうことを吟味している場合ではないというか、些細なことというか、同価値性がないというか。つまり「そのひとを好きである」ということと、「一緒にいてくれるか」ということは、言うまでもなく前者のウェイトが無茶苦茶に大きいので、意味無いね、ということ。

に、しても、脱派閥か。どっちDo you like的な話を、派にして遊ぶのは、でもやってしまいそうだなーって思う。