October 15, 2009

労働について

労働って、権利なんだよなーと、今更ながらに思う。

しかも憲法で保障されている権利なんだよなと。

具体的に、A社は私に仕事させろ、とかいう権利はまあ無いわけだけれども、少なくとも国家が労働の機会を保障する政治的な義務はあるというのが、憲法学上の通説的見解ではあるらしい。

多分この労働の権利なるものを習ったのは小学生か中学生かの社会科の授業だったと思うのだが、労働が権利と言われても、ピンとこなかった。労働というか、お手伝いとか作業自体はやっていたけど、それによって対価をもらうという経験がないから当り前ではある。働くことが権利?って感じである。

初めて給料をもらったのは、高校生の頃だった。推薦で大学が決まったので、3月まで塾で中学生のチューターをやったのだった(校則で禁止されていたのかは知らない)。時給がたしか1400円で、結局月末に手渡しで5万円位もらえた(当時自分のコントロールしている口座は無かったから)。高校生に5万は結構大金である。というか、高校生の私に。
その時、ああ、働くってことは、お金がもらえるってことなんだなあとなんとなく実感した。その5万が何に消えたかは全く覚えてないのが無邪気なところである。

で、この、労働とお金が結びつくわけなんだけれども。
大学院を出て、いざ働いてみると、労働とお金は結びついていないような感覚を覚えたのだ。
いや、現実的には結びついているし、モチベーションのベースになっているのだと思うが、給料のため!と思って働いているわけではないというか、そんなこと経理の芳川さんが明細を各デスクに配る時に思い出す程度というか。
働くというそのこと自体がやりがいであり、自己実現であり、楽しい。何も対価がないのにパズルを解くとか、スポーツをするとか、そういうこととほぼ同列というか。いやそれよりも面白い。ずっと複雑だし、期待にこたえる、貢献している、という感覚がある。叱られるのは嫌だったけど、叱られることというのは大概、発展だった。

逆に、DS購入のための出費を補うために短期バイトをしたときなんかは、今日の1万のために、と何度思ったかしれない(いろいろあって、ノリで買ってしまったので予算に計上していなかったのだ)。あれは確実に給料のために労働していた。


最近ベーシックインカムという構想を知った。
これは、国民全員に一律で国から最低限生活できるお金を配る、というもので、年金制度とかは吸収されることになる、らしい。財源は税。だから、働かなくても生きていけるけど、その分のお金は働く人が税金で払う。働いた人は税金も取られるが、自分の自由になるお金は働いた分増える。つまり、最低限の生活は保障された上で、それ以上の生活がしたければ働く、という感じだ。
wikipediaも定義が数行、という段階なので、文芸春秋編 日本の論点PLUSでの記事をリンクしておく。

これが導入されたらどうなるんだろうなあと思ったのだが。みんな働かなくなるんだろうか。
共産主義の例はあれど(あの国々で何が起こっていたのかは勉強不足でよく知らない。今キューバとかで何が起こっているのかも。)、このベーシックインカムの場合は資産がとんとんと均されるのではないし、商品やサービスの多様性も無くならないからな。

で。働かなくていいよ、と言われても、働きたいと思うと思うなあ、ということ。その仕事が好きであればだけども。そのゲームやる必要ないよ、と言われてもやってしまうように。お金は関係なく。
というかお金の面でも、最低限の生活で満足しない人なんて沢山いるんじゃないかとも思う。
一方で病気とか怪我とかで働けないという人もいるわけで。


前に父とした会話を思い出す。
私はその時その仕事が気に入っていて、働くということが面白くて、働きたいから、社会に貢献できるから、働くのだと思っていた(今もかなりの割合でそう思っている)。
しかし彼は、「違う。食べるために働くんだよ。」と言った。
彼にとっての労働は、一次的には家族を養うためのものだった。彼は今までの過程で、そのためにいろいろなものを諦めたに違いなかった。
それが、成り立たなくなるとしたら。働かなくても食べていかれるとしたら。


まあ、実際どうなるのかはやってみなければわからない。面白みもない話だが、財源の問題もある。
そしてものすごく革新的で、推測するには社会、経済、教育、心理等々、影響が多岐に渡り過ぎる。全てのプレイヤーが利害関係を持つというか。
何にせよ、面白い構想だと思う。


余談。
昔のギリシャを連想した。
奴隷制を敷いたが故に、学問が発達したと。
最低限の生活が保障された時に、人々は何を生み出すのだろう。なんて。

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