October 19, 2009

郵便につながってあれこれ

先日お手紙を頂戴して、嬉しく読んでいた。

一部では、というかちょっと前に堀江氏が郵便不要論をつぶやいていたのだけど(ブログエントリはまだ読んでない)、郵便が不要な人は不要だろうけど、必要な人は必要だ、と当たり前のことを思う。

なんというか、これ不要じゃん、とか、代替可能じゃん、とかって、それはそうなんだけど、制度を語る際には、全体にそれが適用されるんだってことを考えるべきだよなーと、自戒を込めて思った。大人も、子どもも、おねーさんも、だ。おじいさんもおばあさんもね。何かが変わる、というときに置いて行かれがちなのは、多分弱い人たちなんじゃないかと何となく思う。
同じことで、テレビ不要論もあるわけだけど、で、私も今の民放好きじゃないからよくわかるんだけど、テレビが必要な人の方が多いと思う。当り前か。特に、ネットを使えない世代とか人々にとっては、多分テレビは重要な情報源だということが言いたい。
今は、テレビのスイッチを押したら何かしら映って、あとはチャンネル変える、と、音量調整、くらいの操作しか必要無いわけで。その人たちがテレビを見られなくなるというのは、やっぱり駄目だよなあと思う。
糸井さんも前に、テレビ観ててわからなかったことがない、ということを言っていた。誰にでもある程度分かるように、編集して流しているのだと。そうだなーと思う。テレビの罪というのも勿論あるけれど。
あと、テレビは、無料だ(消費の過程で取られてるかもしれないけど一応)。

いや彼は彼のキャラクターで、政治家でも何でもない立ち位置で言ってるってわかるから、いいと思うんだ。影響力ありそうだけど。というか、彼すごく負けず嫌いだなーと思う。


で、郵便は、私には必要で。
紙に文字書いて、包んで、切手貼ってポストに入れたらOKっていう手軽なシステムがね、その間に生じるタイムラグがね、家のポストに入ってるのを見つけた時の嬉しさがね、葉書及びその紙包みの質量がね、必要なわけだ。
働いてるときなんか何度それに救われたかわからん。

貰う側だけでなく、書くときだって楽しい。
前も書いたけど、パソコンと違って修正がきかないところも、勢いにまかせて書いちゃったところも(ブログでも多々あるが)、汚い字も(ごめん)それぞれ味がある。そもそもレターセットを選ぶっていうのは小さい頃から心踊るものだった。近所にいい文具店がほしいといつも思う。沖縄に足りないものは、いい雑貨屋と文具店だ。

まあ実は、今となっては、手紙を書く相手は一人だ。年賀状を書く相手やメールをする相手はいても、手紙となると一人だ。なんで彼女とはメールでなく手紙なのかは、関係の形成過程に手紙というツールがあまりに多く利用されたからであろうと思う。一応メールをしていた時期もあったけどな。
同じ言葉でも、口に出すことと、紙に文字で書くことが異なっているということをわかってたなと思う。

で、忙しくなっても、手紙を書く人でいたいなと思うという話。

文字は、書いた方がいいなと思う。なんとなく。
手紙をたくさん、本当にたくさん書いてきた。小さい頃から、宮古島に住む祖母だとか、転校する前の学校の友達や、同じ小学校の友達にすら。私は二回転校しているので、そのことも関係しているのかもしれないし、でも携帯が普及するまではみんな手紙をやりとりしていた、常に。手紙という手段は、私にとっては親しみ深い。
あと、文字が、特に自分の手で書いた文字の集合が、自分の分身みたいな気がするというのもある。自分の中を通ってきた言葉だし、文字だ。ものを作ってる感覚というか。パソコンで書いた文章をプリントアウトしてみたところで、自分じゃない気がする。ぱっと見自分のだとわからない。

余談だが、院時代も板書は手書きでとっていた(しかし理由の90%はワードを使いこなせないため。関係図とかで手間取る。今となればパワポでノートをとるかもしれん)。
法史学の時間にはA4の白紙に5枚くらい板書をとったので、いつも腱鞘炎になりかけた。
しかし、私はノートの取り方が壊滅的に下手らしい。後で見てもよくわからない。というか、授業というもの自体がほぼ議論中心なので、そうそう体系的に進むわけではなく。問いだけが羅列してあり、結論が出てないとか。直後に見ないと意味をなさないメモみたいなもので。
復習というか、まとめる時間が必要だってことだな。

で、結論としては、手書きとかかなり好きです、ということ。でいいのか。

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