January 9, 2010

国とかアイデンティティとか

最近気になった記事。
示唆に富む。
いけいけどんどん:内在する戦争

・国に所属するという先天的所与条件に拘束されて戦をするというのはアンフェアじゃないか
これはなんだか面白くて。ここでいう戦というものが経済戦争のことではあれど、同じことで。彼が国をつくるといっている理由も初めて知ったのであった。
国益が定義されてないという話とか、国のコアって何って話とか、関連して気になるというかかなり好みな話題で。


関連して、アイデンティティの話。
先日読んだ「ワセダ三畳青春期」の中に、筆者の彼女であったグローバルな女の子の話が出てくるのだけど、その彼女がアイデンティティを国に(かなり)求めていて、複雑だったというような話。これもさらりと出てくるだけの話題ではあるのだけど、本人と付き合えばきっと割に深い問題であるに違いない。
彼女は日本人の父親とどっか欧米系の母親の間(覚えてないや)にオーストラリアで生まれ、日本国籍を取得しているけれど海外を転々とする生活をしているとかで、日本人であることにこだわり茶道や伝統芸能にも通じているのだけど「私は本当の日本人じゃない」というコンプレックスがあって、一方でオーストラリアに関するプライドも高くて、という話だった気がする。

自分が何人かということ。国に所属しているもしくは国という属性を持っているということ。
何者かであることと通じるとは思うのだけど、あまりに根本というか、確かに軸足を置く国や文化があるというのは大事なのだろうと、思う。前に所属することみたいなテーマで何か書いたなそういえば。
dioramic:属すること
しかし今回の話とはニュアンスがちと違った。

人間は生まれた場所や環境や生まれ持つ特性等々、どうしても先天的な所与条件の下に人生を生き抜く。
これを無視しようとすればできるし、新しく所属するということもできるけれど、ある意味それは後天的なアイデンティティの付与というか、自分を定義しなおすというか、どちらにしろ先天的な基礎の後にあるもので。
つまり基礎がはっきりとしないままに自分を再定義するというのはかなり難しいような気がする。それは修正という形ではなく、選択または創造あるいはその両方であるから。


奇しくも今日、鳩山総理と宇宙の野口飛行士が通信したという話を鳩山総理のブログで見たのだが、そこで鳩山氏が「もし、この小さな宇宙ステーションに世界の人々が乗り込んだとしたら、いま世界で起きているような争いごともなくなるのではないか」と問うたと。
それはどうだかわからないけれど、「国」というものはある程度人間を規定することを認めざるを得ないなと思う。
「国」ってのはフィクションだと、概念的で流動的なものだと一面で思いながらも、領土とか民とか財とかの物質的なものとひもづいているし、何より人の心とひもづいている。あとからどうこうできるものではない、というのも真である気がする。生まれた地が心のある部分を占め続けるというのは。


上記リンク先ブログの筆者であるところの原田氏の「国をつくる」というのを、当初イメージできなかった(国?領土はどうするの?等々)のだけど、今は少しわかるような気がする。既存の「国」を飛び越えるというのとニアリーイコールな感じがする。逆説的だが、国をなくすというか。違う次元での「国」という新概念というか。うーんもう少し勉強せんとやはりわからんけど。
多分自分でビジネスやってる人は、この国という枠組みがいかにも邪魔というか意味のないボーダーに見えるのだろうなと思う。同じビジネスしてるのに国ごとにルールが違うからな。それだけでなく、世界を旅行した人というのは国というものの本質を体感できている気がして、かつその「国って何」的な疑問も体験に根ざしているから、やはりこれも尊敬してしまうのである。


先に提起された問題のメモエントリの予定が。
あたためていきたい。

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