January 17, 2010

読書傾向

堕落論/坂口安吾 読中。堕落論ほか全12のエッセイが収録された文庫本。

ようやっと手にする機会が。
「白痴」は微妙で、途中でやめてしまった。同じく微妙で途中でやめてしまったつながりの安部公房とイメージがかぶっていて、それは多分「安」がかぶっているせいでもあろうと思う。ついでに言うと、私は「安」という字もあんまり好きじゃない。なぜと言われても明確には答えきれないが好みというのはそういうものである。とにかく、どちらも、合わん、と思っていた。
しかしこれはなかなかに、いやかなり、面白くて。

そもそも私は多分エッセイが好きだ。もしかすると小説より好きだ。エッセイとも評論ともつかないものがおそらく更に好きだ。具体性と抽象性のあいだ。

この前エントリにもした「ワセダ三畳青春期」などはかるーいエッセイで、なんだかフラットで、彼の人柄が出ているにしてもくどくない読み物である。基本的にはあった出来事を書いているから具体的だし、そして具体的なものというのはわかりやすいという意味で、やすらかなものだと思う。軽くて読みやすいではあるのだが、バランスとして、私はその筆者(高野さん)のいわゆる抽象論も聞いてみたい。


理想は、「具体(現象の観察)」→「抽象(理論抽出)」→「具体(適用)」みたいな流れで考えを示してもらえるといいなと思う。というか今思った。帰納→演繹。
それを自分もしたいのだろうし、他の人がやっているそれを自分なりに検証したいのだと思う。

随分趣向は違ってきている。


学校には国語という科目があったと思うのだが、その授業の中で「この文章の主題は何でしょう」ということをよく先生が言っていた。
つまり作者が「いいたいこと」なのだが、へえそんなものがあるのか、と私は思っていた。いちいちそんなことを考えるのか、作品を楽しめばいいんじゃないのか、わざわざ言葉にしなくても各々感じているじゃないか、という気持ちもあった。
国語の授業は、その作品の理解を深めるというより、台無しにしてしまう方が多かった。私は割とフィーリングを大事にしたい方だったのだ、よく言えば。固定化したくなかった。悪く言えば優柔不断である。


で、そういう主題がはっきりしたものというのは確かにあるのだし、国語の教科書に載るような文章は大抵主題がある(のだろう)。
でも説明文とか評論みたいに、「私の言いたいのはこれこれこういうことよ」という、文章それ自体が主題の引き伸ばしになっているようなものならともかく、小説とかというのは読み手に解釈が委ねられているものであろう。たとえば春樹の「アフターダーク」の主題は?「これこれこういうことです」と言い切れるか?言い切るのが果たしていいことなのか?
「筆者の言いたいのはこういうこと」というのを読み手が想像するのであって、「筆者の言いたいことはこういうこと」です、と授業で確定的に教えるものなのか?ワークに記入するものなのか?センターでマークするものなのか?おかしい。
別に「こころ」だって「高瀬舟」だって違う読み方があり得よう。明確な違いにしろニュアンスの違いにしろ。我等に自由を!読み味わう自由を!
ていうか国語の授業は一つ指針としてあっていいけれど、子供たちの解釈を正しい間違ってるというのは少なくとも高校からはしなくていい気がする。

というわけでかどうか、私にとって高校生くらいまで読書は娯楽であった。
文章は分析するものじゃなく、手ざわりを楽しんだり、戯れるものだった。国語の時間に一つの文章を5時間くらいかけて分析しまくる(しかもその分析結果に納得しないこともある)のの一方で、プライベートではそういうことをしないですむようにしたかった。

で、このエントリの流れとしては、読書の傾向が娯楽から学び(分析とか解釈とか)に変わってきたということで収束していく予定だったのだが、結局娯楽に変わりないということに今気づいた次第。

まあなんというか、急にサルトルとかキルケゴールとか読めない私には今ちょうどいい本です。

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