January 20, 2010

法律過去未来

ご近所で法律の話が出たので、関連。

悪法も法である、という言葉がある。
wikipedia:法実証主義 に出ていたのでご参考まで。
悪法問題について以下引用する。

法実証主義には、それが正義や善といった価値から法を切り離してしまう(「悪法も法である」)ので、悪法に対する批判的態度を失わせる、といった批判がなされ、また法実証主義は戦後、ナチス体制化における悪法批判の基礎にならなかったとして、自然法学派からの批判にさらされた。グスタフ・ラートブルフの確信犯論が著名。

しかし、法実証主義は、法概念論(法の認識)と法価値論(法の評価)との峻別を主張するのみであって、法価値論の放棄を説くものではない。実際、ベンサムのコモン・ロー批判、ハートのリーガル・モラリズム批判、ケルゼンのイデオロギー批判など、法実証主義者は多くの場合、精力的な悪法批判者でもある。法実証主義は、法の存在条件を社会的事実のみに求めるので、法が法であるというだけで遵守されるべきだとは主張しない。したがって、「悪法もまた法である。しかし、法だからといって従う義務はない/従うべきではない。」というのが、法実証主義の一般的主張である。



この辺の法思想史系を私はちゃんと勉強していなくて、した方がいいとは思っているのだけれど、まあそれは時間がかかるから、ざっとwikipediaによれば上記のようなものであるらしい。
つまり法はただ制定されていて、ルールとしてあるものではあるけれど、その評価は別ですよ、悪い法もありますよ、そういうのは従うべきでないと思いますよ、みたいな話だと思う。その前の自然権思想否定とかそういう流れが私はちゃんとわかっていないので、法実証主義自体に賛成であるというわけではないけれど、まあこの点については同感である。

ただ何を以って悪法とするかというのはひとつある。
昔暴君が作ったもの、みたいな露骨なやつは今は少なくて、ある程度考えられて作られている(と思う)。万人の価値観に合うような法律ではないかもしれないが(だから国会とかで議論してたりいろいろあるのだけど)一応、考えてつくっている。私は特に立法作業を見たことはないけれど、ゼミの教授が立法に関わっていたりしたのでたまにその話を聞くことはできた。し、大抵の法律は少し考えればどういう趣旨で作られたのか推測できる。ちゃんと知りたければ逐条解説が出ているものもあるし、立法者が書いたものを読むことができたりもする。


こういうこまったことがあるから、改正しましょう、とか、こういうのを解決するために法律つくりましょう、とかで立法するわけだけど、あっちが立てばこっちが立たない、というようにどうしても利害対立というのは出てくる。いいことをしようとしても財源は?となる。血税が、となる。
友人は、政治は最悪の事態を回避するものだ、という。いいことをしようとするならそれは思想や文化の仕事だと。言い得て妙。(ここで言う政治が立法だけでなく行政を含むとは思うしその他諸々も含むとは思う)

だから法が保護しようとするものと自分とが対立する場合、それは自分にとってはいいものではないわけで、価値観的にはそれは守りたくない法律なのかもしれないのだけれど、だからって無視していいという話ではなくて。そういうことになればみんな法律守らないから。
上述の引用の「悪法」は、たとえば誰にとっても「それはダメでしょ」という法なのだろう。引用でナチスが挙げられていたように。
ただ、法律に疑問がわいたときは、なんでそれが法律になっているのかを考えるといいと思う。


前置きが本文みたいになった。

法律というのは、新しいものもあれば古いものもある。古いものの中には、改正された条文もあれば、そのままの条文もある。
で、法律というのは過去の国民の価値観だなあと。過去の国民の意見、というか。こういう風にした方がいい、という。その意見に今現在の人々が従っているというのが不思議な気がして。
いろいろなことが、「法的根拠」を基礎にして論じられるのだけど、その法律というのは昔の今はもう死んでる人々の意見だったりするわけで。それを根拠にすることがどれだけ説得力があるのかしらと。
特に授業で、立法者の意図はこういうものだったからこういう解釈をとるのが妥当だ、とかいう理由付けを勉強したりする時に、え、その人一人の考えに沿うからっていう理由なの、と思ったりした(実際はそれが国会を通って今日に至るまで改正もされていないということで、国民の支持を得ていると理解できるのかもしれないけど)。
だから、法的根拠のところまで辿り着いたら思考停止する、というのはあんまりよくないのう、と思った次第。ああ動く。世の中が動く。

法律の過去性というか。
(勿論、便利だし先人の知恵として大いに使わせていただいていいと思う。)


前に友人が、未来の国民の権利も保護すべきなんじゃないか、という論を立てていたことがあって。つまり、まだ生まれていないけれどこの国や環境を担っていく人々の権利のことを一切考えなくていいのだろうかという話。
最初聞いたときは結構突飛に感じたのだけど、よくよく考えると確かになあと思う。それを、気持ちの上で「未来の子供たちにこんな環境で地球を渡せないよなあ」なんてぼんやり思うのではなくて、法的に権利として考えるみたいな話だった気がする。今存在しない人間の権利というのは本来観念できないのだけど(権利は人に帰属するから)、しかしよく考えれば観念はできる。というか、法人だって観念してるんだから(会社とか団体とかは法人格を与えられれば人間じゃないけど権利を持てる)、未来の人間の権利も観念しようと思えばできる気がする。

未来の人間のことにまで思いを致すなんて視野が広いなと思う。しかし実際法律やら何かの運用やら、何でも先のことを考えてするのはいわば当然のことで、そういうのをしなかったことによるしっぺ返しというか後悔というか先人の後始末とかいうのは今まで人類レベルでむちゃくちゃたくさん経験してるのだ。で、大抵本当は予測できたことが多い(と思う)。
厚労省が結構予算をかけてがん検診推奨しているのも、後々の医療費まで考えてのことだし、そういう予防的なというか、未来のことを考えることの延長線上にその発想はあるのかもしれない。
難しいとは思うけれど。

そういう法律の過去性と未来性について雑感。

もしかしたら、今作ってる法律や改正した法律を見て、未来人は「あいつらこんな法律作りやがって。わかりにくいったらありゃしねえ。」と言っているかもしれないけど。

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