February 13, 2010

人生はひまつぶし的な

とにかく人の役に立ちたいと思っていた先般の自分。
なぜなら、それが自分の価値だと思っていたからで、なぜ価値がなくてはならないのかというと、価値がなくては人に必要としてもらえない(つまり好かれたい)からであり価値を提供することが自分にとっても相手にとってもハッピーだから、であった。ハッピー=善というのは一応前提としておく。ハッピーの内容は措く。

そうして、価値とは何かを考えた末に、直近100年くらいのスパンで考えると、「問題解決に寄与すること」かなと思いついたわけで、そのメソッドを学びたいのもあってコンサルに志望した。

で、コンサルを辞めた今(今でもコンサルは楽しいと思うし、役に立つ職業であるとも思うし、思考の自由度とか、かつていた会社の取り扱う分野とかはわくわくするから好きだとも思う)、さて価値とは何ぞやとまた思い返す。

というよりは、価値ある生き方をするべきなのだろうか、ということ。いかに生きるべきかということ。これは言うまでもなく安吾の「堕落論」の影響である。

私には前にも書いたが恋を極力したくないという傾向があった。恋なるものを差し引いて考えたいと思っていた。それは事後的に消えてしまうものだから、先に消却しておきたかった。
でも安吾は恋こそ人生の花であって、これ以外に花は無いとまで言うのである。なんてことだ。じゃあ恋を自重するということは、私の人生から花を摘み取ってしまうということになろう。芝生と木々は目に優しく、花の散るのを悲しまずに心穏やかに変わり映えのしない生活をおくる。それはひとつの生き方だけれど、私は花が好きだし元来変化も好きだよそういえば。

そんなことで、もう少し考えてみようと思うに至った。
私という人間が生きてていいことってなんも無いんじゃないのと、思うのは人の常。誰しも誰しも、芥川や太宰もそうやって文学やってたんだろう。改めて河童を読んで、娑婆を逃れる河童を描いた芥川を思うのである。
安吾は、生きろ、という。いや、俺は生きる、だな。もはや本能のままにというか、恋に落ちてしまうもんは仕方ないだろと言う(私にしてみると安吾は色恋にウェイト置きすぎな気もする)。


私のロジックは、「恋はいずれ終わる→だからしても仕方ない」であった。

それがダウナーな気分になると、「人はいずれ死ぬ→だから誰かの命を救ったり自分や家族を一生懸命養っても仕方ない」となる。
「私はいずれ死ぬし周りの人も死ぬ→だから誰かの役に立とうと頑張っても仕方ない」
「人類は滅びる→だから何をしても仕方ない」
的な方向へ行くので(いや本気で)、自分が生きるモチベーションがどんどん下がってゆくのである。ここまで来ると、100年のスパンとかじゃなくもっと長いスパンで、ということになるのだけど、そこまで飛びすぎても別にいい。
で、この健康な体とありあまった時間をもてあましている気分になっていくのである。もしかして暇?とか思っちゃうのである。
ほんとに人生って意味とか無くて、壮大な暇つぶしなのか?そういう言い回しきいたことあるけど、自分の結論としてそれが出てしまっていいのか?
そういうときに、くるりの「陽気なピーナッツ」が流れてきて、「そうだろ 僕の人生は 結局 暇つぶしみたいだから」とかいってるもんだから、岸田さんがそういうこと言うならほんとかもとか思ってしまう。


で、「人の役に立つため」というのを人生の理由というか言い訳にできない(無くなってしまうから役に立つ意味が無い)となったとき、結局人生の目的は設定できないことになる。
というか、誰にとって意味があればいいのか、ということで、つまり自分でも他人でもだめで(いずれ無くなるから)、永久に、物質的に、世界として何かが変わるのでなければ意味がないと考えているのか。私は何を求めているのかしら。

自分で設定すればいいんだけど、これがまだ私にはできない。クリスチャンはこういう迷いとかが無くなるからいいのだけれど、私にはまだ懐疑心があって純粋にそれを設定することができない。
そうなると、have fanということになる。何をなすべきか、の答えは、やりたいことをするべきだ、になる。

結局それかい、となったわけだけど、人生が壮大なひまつぶしであると仮定できたので結構すっきりした。
答えがあると思っていたし、それを探さなきゃならない、それが見つからないのは私の不勉強のせいであり不徳のせいである、と思っていたのに、元々ありませんでした、というオチがありうるというのは、なーんだ、って感じで楽になる。
会社とかで、「あの紙どこだっけ」「え(やばいシュレッダーしたかも)」とかいって探してて、「あーそういえばあれ先方にあげちゃったわ」とか言われて「(なーんだ)」ってなるみたいな感じ。


結論としては、自分がより楽しくなるのがベスト、ということになった。
つまり、世界視点でなく、単に自分という人間の満足度をとにかく上げればいいのではないかなということ。というか、自分にとっての世界なんて自分自身なわけで。

それで、自分自身の満足度というものを各人が高めていけばよいのではないだろうか。客観的に「きっと満足していないだろう」という場合でも本人は満足している場合があって、それはそれでいいのではなかろうかということ。

そんな結論を抱えて、次。

No comments:

Post a Comment