ついったーでもつぶやいたけれど、司馬遼太郎の本にこんなことが書いてあった。
「『大学者であろうが田舎のじじいであろうが死ぬのは同じや。それとも聖人がお念仏のほかに何ぞ学問のある人間にしかわからんような特別ええ事をいわれたと思うているのか』」
(「司馬遼太郎が考えたこと1」より)
これは、戦前大学生であった彼が、戦地に赴く前に、どうしても「死」ということがわからず、どう受け止めていいかわからずに、天台宗だったかに熱心であった中学の恩師を訪ねて問うた時にこう言われたというもの。の抜粋。
お前には最初から信じようという気持ちが無い、と一喝された後の言葉。念仏をただ唱えてみろと先生は言う。
学べば、考えれば、何か新しいことが分かるのではないか、より一層理解できるのではないか、ということを私も常日頃から思っていたけれど。
そしてそれは、「自分には分かるのではないか、悟りの高みを理解できるのではないか」という高慢でもあり。そしてそれは経験的に成功体験として持っているつもりでいて。
学のある人だけが到達できる何かというのはもしかしたら無いなと思い始めている(仮説)。
それはあれやこれやと考えて結局到達したのが「人生は壮大な暇つぶしである」という仮説であり、それをもとにすると「好きなことやったらいい」と言う結論になったという自身のふがいないや。いや。的経験からである。
そんなの、本能的に知っている。というか、やっている。
最短距離で答えに行き着くのが最も優れた方法だとすれば、考えないことが一番優れているのかもしれないなと、ゲーテが言ってたこと(ぐるぐる枯野を引き回されている家畜の件)はほんとだなと、思う次第。
でも、考えないと納得できなかったのだ。でも、それって単に頭が悪いというか頑固というか、つまり要領が悪いってことなんじゃないか。
しかし「あれこれ考えずにすきなことやったらいい」とはいえ、考えるのが好きなことだとすると、どうなるのだ。あれこれ考えずに考えればいいのか。なるほどねー。
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