February 5, 2010

負け試合を意気揚々と

今も歯痛による虚弱と睡眠導入剤(今ホットな)の影響でフツカヨイ的文章になることがほぼ確定的だけれど、読んでくださるのならこれ幸いである。

よく読ませていただいてるブログ「椿ひらいて墓がある」に、「負け試合を意気揚々と。」っていう言葉が冠してあって。

この言葉をこの方が冠している意味とは違うのかもしれないのだけど。
最近マクロにみると人生自体が誰でも負け試合で、それを意気揚々としているのって安吾スタイル?と思いついて。
恋は敗れる。人は死ぬ。地球は滅びる。まあそこまでいわなくても、いずれ死ぬのだから人生は負け試合ともとれる。負け試合を知っていながら意気揚々と。恋を人生の花として彩として。さてモチベーションはどこから?
負け組勝ち組の別は嫌うところなので、そこと区別した上で。
人間生きとし生けるもの皆死ぬなれば、勝つのはいったい誰なのだ。でもなあ、この世で勝ちたくはないよな。


生きるというのは受け入れるということだ。
先天的所与条件である才能や身体的特徴を、後天的環境を、物質的肉体への時間経過による変化を、時代を、社会を、受け入れながら生命を維持していくことである。

そういうことをいくつかの経験からわかるようになったとき、人は、それでも意気揚々と生命に忠実であろうとする者と、負ける試合には出ない、降りる、という者があろうと思う。また、負ける試合なら手を抜いて、というスタンスもあろう。

私が坂口安吾を真面目だといったのは、この点でチャレンジングだからだ。彼が生きることを愛し、恋という花を愛し、文学者であるが故の自己虐めに虚弱になりつつも負けじと太宰や芥川のような不良少年を横目に見ながら天命を全うしたというある意味でのがむしゃらさ。


生まれた時は一人で、死ぬ時も一人で、だけど生きている間は誰かと一緒、的な文をどこかで見た(どこかは忘れた)が、孤独は人のふるさととはよく言ったもので、この文だけ読めば、生きてる間は誰かと一緒にいるというのがもしかすると生きている意味なのかもしれない。意味というのは漠然としているな。生きている間のなすべきこと、タスクなのかもしれない。
好きな人たちに会うことというのは実際私にとっては一番の喜びと言ってもいい。
ある友人は、弁護士になった今でも、仕事は単なるタスクで、友達に会うとか旅行するとかが生きがい(とまでは言ってないけどそういう)らしい。だから院のときと全く変わらないのだと。
一度、会社での送別会を銀座で終えてから、早稲田に住む別の友人をもう夜の1時は回っていたけれど馬場に呼び出して、花束を投げ出して共にボウモアを飲んだとき、その友人には「送別会の日くらい大人しくしんみりして家に帰るもんなんだよ」と怒られた。その時「私は、会いたいときに、会いたい人に、会うよ」と言い返したのだけど、後で考えたら結構いい口説き文句だったなと思う。でもそうありたい。実際彼しかその時会いたい人は浮かばなかったのだし、会えてよかったとも思う。


真面目さは強さだ。虚弱は真面目に生きることの邪魔をする。虚弱など、ひとつもいいことない。
探し回らなければならない。魯山人が、この世の美しいものを見るために生まれてきたのだというような天啓にも似た確信を得たように。
Have a nice life.負け試合でもナイスに。

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