February 16, 2010

大人

下の2つのエントリは、先のながーいエントリを2分割して軽く手を加えたものです。しかしあんまり変わってなくて、だめだめ感満載。

大人になるってどういうことかなーと考えた。

いろんな意味で使うけど、「大人になろうよ」とか「大人な対応」というのは、我慢すること、な気がする。我慢すること、もしくは我慢するそのエネルギーを諦めに変えて放出すること。
で、最近友人に、結婚するよという報告をメールで受けたのだけど、その時に私は、「大人になったんだなー」って送った。これはなんというか、身を固めるなんて社会的だね、っていう意味だ。別の意味。社会的だね、はちょっとアバウトすぎるけれど、もう少しかみくだくと、なんだろう、社会的法的拘束に身を委ねるんだねというか。皮肉ではなくて、覚悟するところがえらいというか、覚悟するだけの相手を見つけられたことがすごいというか。

もう27なのに(最近愕然とした)、何を言っているんだか、て感じではある。
このままでは30になってしまう。止めようがないのはわかっているけど、30になっちゃったらどうしようと思ってしまう。
未だ大人の自覚があまりないためだろうと思う。

安吾が青春論というのをぶっているのだけど、青春がいつであったかなどわからん、おれはずっと青春だぜ的なことを書いてて、ほんとに真面目だなこの人はとか思った次第。
大人になるということと、青春を振り返ることはなんだか似ている。

江國香織曰く、大人は楽しい、そうだ。多分彼女の「大人」は、拘束から解き放たれたものなのだと思う。
子どもは確かに支配下に置かれている。きまりだから、というので押さえつけられる。


関連。
最近自分が小さいころから叩きこまれてきた価値観のことを思う。
わからんことはたくさんある。
時事ネタだけれど、スノボの国母選手の服装の話、マスコミが叩き、ホリエモンとか河野太郎とかがブログやらついったーで擁護している。
ホリエモンが服装原理主義というそれだけれど、服装原理主義者と、それ全く必要ないよむしろ服装の自由の侵害だろという彼自身の立場が多分対極で、多くはその中をとる感じになると思う。河野氏はルールと価値観で分けて考えようとしているが、個人的にはちょっと腹落ちするところまではいかない。ルールと価値観の狭間のようなケースだと思う。
なんというか、けしからんという人と、別にいいじゃんという人の両方の声が聞こえる世界が、健全な感じがする。

まあでも、拘束から解き放たれてかつまだ社会的に拘束されていない、モラトリアム的位置が一番自由だ。
自由に安住するのがよしかというとそれはあなたのフリーダム、である。

ちなみに東京事変の「大人」というアルバムのジャケットと香りはよかった。

No comments:

Post a Comment