March 19, 2010

スキャニングとか超える超えないとか

内田樹の研究室:不安というセンサー

以下引用。
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今でも、暗殺の危機にある独裁者は出勤退勤のコースを変えない(複数のコースをランダムに変えるだけである)。
それは毎日同じコースをたどっていると「昨日はなかったもの」の存在と「昨日はあったもの」の不在が際立つからである。
危機はつねにそのどちらかの様態を取る。
そのことを高感度のセンサーを必要とするものは知っている。
イマヌエル・カントは異常にパンクチュアルな散歩者であり、ケーニヒスベルクの人々は彼の通るのを見て、家の時計の狂いを直したと伝説は伝えている。
けれども、これは哲学者としてはある意味当然のことだと私は思う。
毎日判で押したように同じ生活をしている人間の脳内では、暗殺者をスキャンするSPの場合と同じように「昨日はなかったものがある」ことと「昨日はあったものがない」ことが際立つからである。
哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内における無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰すのである(そういうことを言う人はあまりいないが、実はそうなのである)。
だから、「ルーティンを守る」というのは命を守る上でも、イノベーションを果たすためにも、実はとってもたいせつなことなのである。
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。
家庭を愛情や共感の上に築こうと願ってはならない。
愛情や共感は「儀礼」についている「グリコのおまけ」のようなものである。
あればうれしいが、なくてもどうってことないのである。

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以上引用。

哲学者のくだりは結構納得したのだけど、家庭のくだりがつながらない。家庭は「命を守る」「イノベーションを起こす」ためのものであって「愛情のつながり」のためのものではないってことなのだろうか。まあつまり、第一次的には。それはそれで一理ある。

ハピーゴーラキーの件はなんかまた今度書いてくれるらしいので待つことにする。
なんだかんだで彼の考え方結構好きだ。最初はなんだかはなもちならないかもって思っていたけれど。

自分がブログを書くときも、スキャニングしているなと思う。カントのような正確なルーティンを守っているわけではないけれど(そしてそんな判を押したような生活の中から異変なりトピックを見つけるような芸当はかなり研ぎ澄まされた人でないとできないと思うのだけど)。
そのあたりはさすがカントというべきなのか。つまり、精密なスキャニングのゆえに、そして自らを観察対象として最適な状況に保っておくために幾ばくかの楽しみを犠牲にしたであろう職人的姿勢ゆえに。

自分があまりにルーティンな生活をしていると、人間は変化を求めるものである。何かの刺激を受けて自分の中に波が立つのが楽しいのだし、それを察知して取り込んだり深掘りしたりするのが楽しい(私は。多分みんなも)。だから、人間は本質的には完全な安全を追求するような仕様ではないということだ。暗殺者に狙われつづけるというような異常事態(古代はどうだか知らないが今となっては異常事態)でなければ。嗚呼文化的文明的世界。
で、一番大きな波もしくは、興味深いと思えた波をピックアップして書いてみるのである。

そして内田樹氏の記事がいちいち興味深い波を自分に起こしたと思えてしまうという話。

前に、尊敬している人の話をふむふむと(多分目を輝かせて)聞いていたら、「でも君もそのうち僕の話なんか、はいはい、って思うようになるよ」というようなことを言われたのだけど、そしてそういうことが過去に実際あったことはあったのだけれど。
でも自分がなるほどと思った考えの人というのは、それを語った時点で既に次の、または次の次のステージとか、というかかなり先まで行ってしまっているので、私がその考えを噛み砕いている間に新しいもしくは更に練られた何かをまた獲得しているのである。追いつくことができない。年齢のせいにするのは容易いけれど(まあ年齢に依存する部分はあるけど)、もはや才能の域かなと思う。年下でもそういう人はいるし、年上でもそうでない人はいる。

10くらい年上の従兄弟がいつか(多分10年位前)、「親父が年齢がずっと上だってことがずるいよ。それは超えられないもん。」と言っていた。多分彼はいつも父親を超えたかったのだろうし、そしてそれがなかなか叶わないことにやきもきしていた(まあ今もそれはあんまり変わらないみたいだ。祖母の葬儀のときに久々に会った)。彼は彼の父親より難しい大学に行って医者になったし、彼の父親より稼ぐようになったのだけど。オイディプスというのは安易だな。まあ何かしらの何かがあるんだろう。

そういう何かしらがない私としては、超えられない人がずっといる方が全然いいと思う。ずっと学んでいられる。それにずっと尊敬していられる。
最近読んでいる「ロイヤーメンタリング」という本では、完璧な人間などいないから、ヒーローを絶対と思ってはいけないというようなことが書いてあったけれど、それでも失望がないうちは、もしくは失望を含めて、ヒーローはいた方がいい。ある程度の欠陥はあれどヒーローであり続けられる人というのはいるらしいし。

「スーパースターは待っている 芝生の向こうで呼んでいる 誰もがリフレインに涙する」
byくるり

忘れたくないな。

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