May 11, 2010

宇宙浪漫譚

深夜というのはどうやら谷川俊太郎が降りてくるらしく、宇宙とか孤独とかについて思いを馳せてしまうがゆえに、おばあちゃん、その話前にも聞いたよ、という感じになるので、実の無い(つまり重複した)エントリは取り下げた。

いったい、私は「宇宙」だとか「光年」とか、そういった言葉が好きだ。今の今まで気づかなかったけれど、好きだ。思えばプラネタリウムも好きだし、未来館が好きなのは多分宇宙っぽいところが好きなのだし、会社のデスクトップはJAXAかどっかの地球の画像だったし。


多分、人の手が届かない感じがいいのだろう。非日常。
真空、とか、無音、とか、光、とか。
得体の知れない感じ。それは深海のように気味の悪いものでもなく(深海は生物があまりにすごくて)。
ものすごい重力とか、風とか、温度とか、もうとにかくスケールが大きい。言葉の意味の通り、スケールが、大きい。

ものすごく遠いとか、そういうことに憧れのようなものがあるんだろう。宇宙の写真は大抵きれいだし。

最近地学をやって、ああ、地学って結構ロマンあるんだなあと思った。私は地味な断層面の計測がどうも脳にこびりついていて、地学の地は地味の地だなとか失礼なこと思ってた。謝る。ダイナミックだし、ロマンがあるよ。大気圏の温度変化だとか、カンブリア紀とか。とし子が宇宙へ行ったのもわかる(わからない人はスルーしてください)。会社法のダイナミズムなんて高が知れてる。


それで、そういう言葉群が好きなのだということ。宇宙好きであるということに気づいたポイントはいくつかある。

行政法の学者に、藤田宙靖先生という人がいて、私はこの人の基本書を使っていたのだけど(つい最近まで最高裁裁判官)、この人の何がいいって名前がいい。いや、すごい人なんだけど。基本書とかもかなりいいんだけど。名前がいい。これで「ときやす」と読むんだけど、宇宙先生と呼んでいた(院内で)。

谷川俊太郎が宇宙詩人なんていうのも、わかる。いいね、と思う。

「万有引力とは ひき合う孤独の力である」

「いつ始まったのか 私たちは  誰が始めたのか すべてを」

ぐっとくる。

ぐっときたので、「芝生」を載せる。

--------------------

芝生


そして私はいつか

どこかから来て

不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

だから私は人間の形をし

幸せについて語りさえしたのだ

--------------------

HALCALIの「芝生」という曲で本人が朗読している。
ここで言う芝生は、誰もいない芝生だ。
キャッチボールとかフリスビーとかピクニックはしていない。ただ、急に気がつくと芝生の上に立っていて。樹があって鳥がさえずっていて空は晴れ渡っている。雲もいくつかあるかもしれない。じかんのないころのゆめをみているかのようなのどけき陽射し。


昔渡嘉敷島で、圧倒されるような星空を見たことがある(離島の都会で無いところ、特にさとうきび畑の真ん中とかでは、大抵圧倒されるような星空がある)。
合宿か何かで、みんなで芝生に寝そべって流れ星を数えるのだけど、なんというか、じっと見ていると、星達の遠近感を感じられるようになってくるのだ。
そうしていると、まるで背中で地球に貼り付いているような、今重力が何かのはずみでふっと無くなったら、ひゅるひゅると星達の側へ行けてしまいそうな気分になる。
空を飛ぶ、と言ったら、空から地表を眺めるのだろう。そうではなく、上へ、外へ向けられる意識として。

という宇宙のみなしごの一人であるところの私のこころをオープンにしてみたり。


こころよ、では、いっておいで
-------------------------------「こころよ」八木重吉

No comments:

Post a Comment