May 16, 2010

「すこやか」ということ

書くといったんだから書いてしまう。

江國香織の「ホリー・ガーデン」という作品がある。私はこの作品が好きで、もしかすると一番好きな作品かもしれない。最近の江國作品は実は読んでいない(がらくたとか。)。
「ホリー・ガーデン」を読んだのは確か大学1年の時で、その当時はそんなに好きじゃあなかった。それはいろんなことが理解できなかったからだ。つまり話の筋は追えるとしても実感を伴う「腑に落ちる感じ」がなかった。それは江國作品では理解できないのとおんなじことだ。

で、その作品の中に、こういう下りが出てくる。

「『あやしい』というのがどういうことなのか、誰も知らないなんて不健全だ、と思った。不健全。そうだ、ほんとうに世の中は不健全だ。」

それから、こういうのも。

「『忘れっぽいっていうのはすこやかなことだよ。』」

私はどっちも共感するわけだけど。


「すこやか」というのは江國さんがまあまあ使う表現で、必ずひらがなで書かれている。そのセンスを私は好きである。それで私もたまに使わせてもらう。
単純さ、のびやかさ、凝り固まっていない感じ。自然体。割といいイメージだ。正の方向。すこし、小ばかにしているかもしれない。単純だなあ、という風に。
で、すこやかってどういうことだろうと思う。

あることが「すこやか」であるとしたら、そのあることを突き詰めることが尚「すこやか」か、というとそれは「すこやか」ではない、と思う。突き詰めるということがすなわち病的であるからだ。
たとえば、「忘れっぽい」ということが「すこやか」であるとして、「忘れようとすること」は「すこやか」じゃないと思うということ。そこに人為的な当為的な、つまり「~すべきだ」というような意志が加わったところで、自然体ではない。「すこやか」であろうとすればするほどに、遠ざかってしまう。「すこやかさ」というのは志向できないと思う。
自分が自分に素直に生きやすくしようとすればするほどに、また、自分の善の意識に忠実になろうと思うほどに、ぎくしゃくしてしまう。病的になってしまう。考えれば考えるほど「すこやかさ」から遠ざかる。もしかするとそれを一番に求めているかもしれないのに。


関連して「健全」ということ。
どのくらいの人が共感してくれるのかはわからないけど、健全という言葉自体がもう不健全な感じがする。
健全というのはいわゆる「社会一般から見て」健全、という文脈で使われている気がして、それはつまり「偏見」とか「常識」とかそういった固定されて押し付けられた、小さい頃から学校やテレビで刷り込まれた概念に従順に従っているようで、それは不自然だと思うわけで。
という考え方すらも今まで読んできた文章が「健全」という言葉を皮肉る文脈で使っていたから、という刷り込みなのかもしれないと思うと堂々巡りだけど、この際措く。

そういう私の理解からすると、「健全」という言葉は「不健全」という使われ方をする限りにおいて肯定される。


この作品は数ある共感できる作品の中でも、一番共感できるような気がする。できてしまう。それは嬉しさでもないし悲嘆でもない。でもどちらかといえば後者に近い。

「いったん所有したものは失う危険があるけれど(果歩はそれを、身をもって学んだ)、所有していないものを失うはずがないではないか。だからこそ一切所有しないで暮してきたのだし、ともかく自分がいま中野を失うはずはない、と、できる限りの理屈をかきあつめて果歩は思った。」

この所有しないというのは(言い方の是非はともかく)、多分今の私のスタンスであるし、そしてそのスタンスがこういう事態を処理しきれないだろうということもまた、この文章で明らかにされる。
大学1年でこんなのわかるわけない。でも、同じ大学1年のときにすでにこれを一番好きな江國作品だと挙げていた同じサークルだった子と、今ならもっと語れるかもしれないのにと思う(この子は1年でサークルからフェードアウトしてしまった)。江國作品のどれどれを好き、というのは(他の作者でもありうるけれど)、ある種の告白・暴露であると思う。
と、大学1年の頃を思い返す。あの頃はもっと「すこやか」だったのにな、と思う。キャンバスは塗られたら白には戻せない。

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