May 22, 2010

完結した自己

たまに、勉強している。
私は法学部で法務研卒なのに、いわゆる政経が全然できていない。やったことはあると思うのだが、もはや12年くらい前の話で、受験科目でもないので、とかいう言い訳。ていうかそのくらいは自分で勉強してしかるべきである。大人ってのはそういうもんだ、多分。
覚えているのは「チェック・アンド・バランス」という言葉を担任が好きだと踏んで正解したクラスメイトの観察眼、くらいだ。

それで、このブログで書いているようなこと、つまり私の「こうなんじゃないかなー」という思いつきがそのまま政経の資料集に載っていたりする。なんだ習ってんじゃん、である。
それはそれで自分で辿り着いているので、まあ同じ考えの人がいたということである程度の自信にはなる(多分)のだけど。たとえば社会契約説なんか、ちゃんとやっていなくて(これはでも結構致命的というか、水曜日のスペル何だっけ、レベルだと思う)、自分で「国家ってそういうもんなんでしょ」って思ってたようなところがあって、でも教科書にはちゃんと書いてあって。
でも結構、そういう詰め込み方の勉強は、理解して頭に入れたようであっても、文字面だけ頭に入ってて中身は入ってない(浅い)ということがままある。というか私の場合そんなのばっかりである。だから、後追いでもう一回実感を伴って理解しないと全然意味が無い。それを今やってる。人生まわり道である。二度手間yeah。


ついさっき、池田信夫氏のブログを見た。
いつもはツイートはスルーしてるんだけど、ブログのタイトルが「自己という幻想」だったので、つい読んでしまったのだった。
ちなみに私は彼のことをよく存じ上げない。勝間氏にかみついたひと、くらいの認識しかない。すみません。
ただ、この文章だけを読むに、論理展開がかなり雑。当然~である、当たり前、等々がめっちゃ出てくるけど、検証はされていない又はかなり不十分(いつかやったことがあるのかもしれんけど、やったならリンクとか貼ってほしい)。
そもそも当然とか自明とか、検証が必要なものについての真面目な文章の中でのこの手の言い回しが私は好きじゃない。そういうのを言っていいのは真面目に検証してからだし、真面目に検証した時点で当然とか当たり前って言葉は使わんと思う。だって検証してるから。こういう言葉ははしょる時に使う不親切文句である。
まあ時間無いんだろうけどね。


池田信夫blog:「自己」という幻想
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51423906.html

----------------以下引用

これは進化論的に考えても当然だ。人間を含む霊長類の生活単位は個体ではなく、数十人の個体群である。特に人間の個体群では分業が発達しているので、あなたが一人で山の中に放置されたら、1ヶ月も生きていけないだろう。したがって脳が社会的につながっているのは当然で、これを著者はソーシャル・ブレインズと呼ぶ。

脳が相互作用するとき、重要なのは認知コストである。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%を消費する。これは脳内の膨大な毛細血管に血液を送っているためだが、人間の脳の重さはチンパンジーの4倍なのに血流量は2倍しかないので、エネルギー供給はぎりぎりだ。したがって脳はなるべく新しい行動を起こさないで、習慣に従って認知コストを節約しようとする。人々が互いにこのような保守的行動をとると、規範ができて行動パターンが決まる。

歴史的にも、自己完結的な自我という概念は、近代西欧(とその影響を受けた文明圏)にしかみられない特殊な意識である。ただ個体群が安定せず、不特定多数と相互作用しなければならない社会では、個人をモナド的な主体とみなして「自己責任」で行動させ、財産権によって彼の自由を守る制度が効率的である。経済学の前提している「合理的個人」とは、このような便宜的な制度にもとづいたフィクションであり、それを自明の前提とした消費者行動理論が実証に耐えないのは当たり前だ。


----------------以上引用


結構どの段落も首肯しがたいところがあるけれど。つながらん。
でも最後の経済学の問題点は、たしかにそこらへん関係あるかもなとは思う。合理的個人とかありえない気がする。


で。
「自己」という完結したものは幻想である、という話。つまり完結していない、という話。
自己と他者は分けられるものではない、みたいな。この話自体はとても興味がある。

このブログの記事自体は、ソーシャルブレインズの本の紹介である。

ソーシャルブレインズってそういう話だったんだ、と思う(全然読んだことはない)。
ミラーニューロン云々の話なんかは、それでも「自己」内の話のような気がする。ラバーハンド実験(自分の腕とゴムでできた腕に同時に刺激を与えるようにしてたら、ゴムの腕だけに刺激を与えた時でも刺激を感じるようになるって話)なんかは確かに触覚と視覚が替わっただけで刺激の他者性がなくなったようにも見えるんだけれど。でも見なかったらわかんないよねと。
えーと、視覚と触覚はどう違うのか?
接触の有無だな。遠隔のものも感知できるのが視覚、できないのが触覚。そういう意味では聴覚、嗅覚も遠隔知覚が可能だから、ある程度の範囲については他者性が無くなりうるのかしら。(でもほんとは、どの感覚器官も接触しないと感知できない。目は光、耳は音波、鼻は何だ、匂い分子かなんか。)

上手く説明できないけど、自分の中での「自己」と「他者」の区別の話って、この知覚の話ではなくて。じゃあ何なのかと言われると難しい。概念的な問題だろうか。
私は勿論「自己」を完結したものとして普段生活している。でも、もしかしたら何かしらの方法で他者とはつながっているのかもしれない、という意識がある。期待のようなもの。それは私が他者の様子を見て認識するというものではなくて。という話。あるいは宗教の話になるのかもしれん。


ペンディング。

2 comments:

  1.  自己の話。ちょっと前に読んだ本の内容と関連するかも。
    「ユーザーイリュージョン~意識という幻想~」って本なんだけど。参考まで。

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  2. >ともさん
     おお、ありがとう。見てみます。

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