May 19, 2010

欠性態

「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
-----------------内田樹

これは「言葉を用いる力」という意味の場合なのだけど(たぶん)。

どれだけ言葉を知っているか、とか、どれだけ言葉をリンクさせられるか、とか、どれだけ適切な表現をできるか、とか、そういうものものの裏に、この能力があることが、それらのスキルを上げる力なのだということなのかな、と理解。

欠落に主眼を置くというのはあるなと思った、とツイートしたけれど、欠落に主眼を置いているというよりは、深掘りしているだけなのかもしれないなと今は思う。

つまり、足りないと思う、ということ。
これは「学力」の理解に関しても同じことで、内田さんはこの文章の前の段落で学力についてもこう書いている。

以下引用

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「学力」も同じである。
ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比較できるものと思っている。
けれども、学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落感」、「師に承認されたいという欲望」といったものは存在するとは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼすのである。
「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。

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以上引用


で、さらにこう続く。


以下引用
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だが、それを励起し、支援し、開発するための実践的プログラムはもちろん存在する。
経験を積んだ教師はそのことを知っている。
悪い方の例だけを挙げるが、例えば「成績が悪いと社会下層に格付けされる」という恐怖心は学習の動機づけとして間違いなく有用である。
この「恐怖心」は実際には「未来において自分が失うかもしれないものについての欠落感の先取り」という複雑な心理操作を子どもに要求している。
そして、経験が教えるのは、恐怖心の強い子どもほど高い確率で「ガリ勉」になるということである。
この子どもの「学ぶ力」の中核にあるのは「恐怖心」である。
「先取りされた喪失感」もまたある種の欠性態であることに違いはない。ただ、それは同学齢集団内の競争で相対優位をめざす以上の目標を持たない。
だから、「恐怖心の強い子ども」は自分の成績を向上させるのと同じ努力を(場合によってはそれ以上の努力を)競争相手の成績を下げるためにも注ぐことになる。
私はそのような努力を「学ぶ力」とは呼びたくない。
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以上引用


これはそうだな、と思う。しかしともすれば言ってしまいそうなことでもある。このままじゃ高校にいけない、とか。まあ、塾で。

競争心に結びつける、というのもあると思う。これはいわゆる欠性態なのだろうか。
私の中にこれがなかったとはいえない。積極的にけしかけられた覚えは無いけれど、順位を出すというそのこと自体がもうそれなのかもしれない。

最近接して思うことは、子どもってかなりピュアである。こんなことで嬉しそうにするんだ、とか、嬉しさをこんなに素直に顔に出すんだ、とか、感動すらおぼえる。

大学生の頃とちがってちゃんと大人目線な自分にも結構おどろく。いつの間に。

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