May 29, 2010

家族

嘘をつくというのが苦手である。
というか面倒くさい。
一個嘘をつくとあっちでもこっちでも辻褄を合わせないといけないからで、そんな自信は到底ない。絶対ばれる、と思う。なので他の人にもあんまり嘘はつかない。で、多分みんなそうなんだろうと勝手に思っている。

一度、嘘をついて親を泣かせたことがあって、いや言葉通り本当に泣いてしまったのだけど、それから結構私は親に嘘がつけない。隠し事というか言っていないことは勿論あるけど、正面からばしっと嘘をつくことができない。嘘だけではなくて、失望させるかもしれないということをすることができない。これは自分の弱みだとすごく思う。

最近「親子という病」だかなんだかという文章(たしか香山リカ)を現代文の問題で読んで、軽く不快ではあったのだけど、よく言われるように、家族というのはどこの家庭でも特殊で、そこだけに通じる習慣なり雰囲気なり関係性というものがあり、社会とは別の規律というかそういうものがあるところだろうと私も思う。
そして内田樹がこう書いていた。

内田樹の研究室:父親のかなしみ

以下引用
------------------
「母親」の仕事は子どもの基本的な生理的欲求を満たすこと(ご飯をきちんと食べさせる、着心地のよい服を着せる、さっぱりした暖かい布団に寝かせるなど)、子どもの非言語的「アラーム」をいちはやく受信すること、どんな場合でも子どもの味方をすること、この三点くらいである。
「父親」の仕事はもっと簡単。
「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもで家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカではなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
------------------
以上引用


これはこれで一つの家族論であろうと思う。
うちはこうではないのである。
私はこの家族でよかったと心底おもっているし、家族全員それを公言するような家庭で、もしかすると傍から見れば気持ち悪いくらい仲がいい家族なのだけど、去りがたいということはかなり自分の弱みになっていると思う。居心地が良すぎる。それに、ここを離脱することが愛する者たちを切り離すことになるのではないか、と思ってしまう。私が嘘をついて親を泣かせた時のように、両親を悲しませるのではないかと思ってしまう。特に両親が体調を崩してなどいると、意識していなかった長子としての自覚みたいなものを感じてしまったりする。ある面から見れば足枷。
沖縄に生まれたことと、この家に生まれたことの意味というのを少し考える。例えば実家が埼玉とか神奈川とかあるいは京都とかであればまた状況は違うのだろうし、この家でなければまた違う(考えはじめると結構沈み込みそうでほどほどにしている)。

親が憎まれ役を演じる(演じる必要がある場合だけれど)というのは、必要かもしれない。
なんてことを思う。

No comments:

Post a Comment