June 13, 2010

富は一つの才能であり、貧しさも一つの才能である。

今後悔していることがある。
後悔なんて言葉はだいきらいだ、なのに今までに後悔したことは山のようにある!という自己嫌悪の話をしているのでは、ない。


で、後悔。
やっときゃよかったよなーって思うこと。
一つは、もっと勉強しておけばよかったという書くも陳腐な若者の悩み。
一つは、もっと旅に出ておけばよかったという書くも陳腐な青春への郷愁。

私は今、なぜだか経済学をやっていて。
前者の書くも陳腐な悩みの渦中なのである。
経済学と言う学問のなんたるかを知らないところからはじめているのである。
経済学に接するチャンスはいくらでもあったし、私が人生設計をある程度戦略的に行えたならばやっていなければおかしい学問である。大学生の頃って何も考えてなかったからしょうがないよ。とかいうんじゃなくて。
まじで、「ウィーンの都市と文化」なんて取ってる場合じゃないから。ウィーン多分行かないから。「中国法」取ってたのに全然理解できてないから。全人代のこと全人大だと思ってたし。なんで国家主席とか首相がいるのかとか。あーそうじゃなくて経済ね。経済学。
確か法学部のための経済学ってあった。そこでさわりくらい教えてもらってればよかった。当時サークルのキッティに教えてもらおうと思ったらノートがグラフだらけでまぶしすぎたので止した。後悔。あと2週間で経済学完成させなければならぬ。
やるよやるやる。試験レベルくらいにはやる。できないことはない、他の科目をおろそかにすれば。

しかもだね、これ試験レベルでやるんだけれども、面白そうなこと沢山書いてある。ああだからケインズとかマルクスとかエンゲルスとかに熱中する人々がいるのだなと納得。結構根源的な学問だ。経済の中には貨幣というのも出てくる。ほぼ日の「お金」の特集なんかもひもづけて考えられそうだ。

お金。
貧困。

「富は一つの才能であり、貧しさも一つの才能である。」コクトー


閑話休題


さっき「尾形亀之助詩集」を読んでいた。というか厳密には、その解説を読んでいた。
そうしたら、尾形という人を僕は好きになれないのだが、通り過ぎることが出来ないというようなことが書いてあって。
この人は、自分に即して生きるということをした人ではなかったか。と述べている。
尾形亀之助といえば

「私の足の小さいのに気づいた 電車くらいの大きさがなければ醜いのであった」

「これは―― カステーラのように 明るい夜だ」

「おゝ これは砂糖のかたまりがぬるま湯の中でとけるやうに涙ぐましい」

「左側を通つて下さい 左側を―― 左側を通らない人にはチヨウクでしるしをつけます」

というフレーズの有名な(?)詩人であり。

この人の作風は、「自分に即している」ということで表現されていた。
自分のことをすごく愛するということ。自分のために自分の時間や力を使う、ということ。自己で完結した人生を送るということ。それが人間本来の生き方なのではないかということ。
時代は第二次世界大戦中、全体主義の中でそれとはまったく関係無しに生きる、そのことの自由さと孤独。
その後の高度成長期、働かなければ食えないというそのことを他の人間がぐるになって言い出して、自己の時間を犠牲にしていくのに反発して、働かず、昼まで寝てしまうこと。しかしかすかに残る罪悪感。
「働かなければ食えない」といった人がおれば、これのことかと目の前で餓死するのもよかろうと言うのである。
そういう徹底して自己に即して生きるということをできなかった自分にはまぶしいし、恐ろしいと、著者言ひたり。そうやって少なからず妥協し破廉恥に生きているのであると。


破廉恥とフレンチは似ている、
なので、破廉恥なことはフレンチキスとどうもつながる。
フレンチキス・コールというのが高校の学園祭でのベストカップルの段で起こっていた淡い思い出。コール・オプションではない。

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