June 13, 2010

メタファーとしてのあしかに思う

うっかり、していた。
誘導されていつの間にかブログの様子が変わっていました。
ブログを二回愚ログと打ち間違え、うそからでたまこと的よのう、と。


「メタファーとしてのあしか」、というフレーズのことを、私は好きなのかどうかもわからないままに、覚えている。村上春樹「カンガルー日和」収録の「あしか祭り」だ。
メタファーとは何であるか。隠喩である。隠喩としてのあしか。断っておくが、酔っている。戯言と思って吹いて飛ばしてもらいたい。

メタファーって何、と妹のたまひけり。受験の際覚える語であるという前に、私は村上春樹でこれを覚えた。隠喩だよ。直喩の反対だ。~のような、ということでなしに(これは直喩)、「うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。」というつまりうすむらさきの思い出なのである。それは説明を不要とする、むしろ拒否するのである。メタファー。



あしかはある日僕を訪ねてくる。あしかは礼儀正しい。一昔前の中国人みたいで、タバコを吸う。バーで仲間に名刺の交換をしてくれたことを喜ぶ。名刺は象徴性の海の中でも最も価値のある象徴なのだ。あしか祭りのための精神的ご援助を、とカンパを募る。

あしかってのは、あのあしかか。

あしかだと思っていたって問題ない。それでも物語は完成している。でも、あしかではなかったら。あしか祭りとは何なんだ。

あしかが歩いて家にやってくる?名刺をもらってうれしがる?あしか祭りを開催する?しかもそれはあしかが世界を構成するある種のファクターを確実に担っていて、あしかルネサンスを目指している?あしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあり、祭りはその追認行為にすぎない?

かといってあしかが何のメタファーなのかということはここでは一切知らされない。
いつもなんとなくわからないところが彼の魅力なのだというのは一つあるのだけれど。これを分析すると無粋になってしまいそうなのだけど。

あしかが何のメタファーなのか。

答えはない。またはたくさんある。
何かの団体、子ども、人、死、なんだ、もっと得体の知れないもの?あしか?存在?メタファー?

もしかするとこういう解決保留の何かを人のこころにひっかけておくという技術を芸術と呼ぶのかも知れぬ。


その作品の最後にこういう文章で締めくくられておくことも申し添えておこう。

以下引用
-------------------
ワッペンにはあしかの絵と「メタファーとしてのあしか」という文句が印刷されていた。僕はそのワッペンの処置に困って、ちょうど近所に違反駐車していた赤いセリカのフロント・グラスのまんなかに貼りつけておいた。すごく強力なワッペンだったから、はがすのに苦労したんじゃないかと思う。
-------------------
以上引用

とんがり鴉の話を思い出すような結末。



※朝起きてからの追記

やっぱり意味がわからんですね。そもそも発問が野暮ったいです。あしかは何のメタファーだったか、など。

多分、この「あしか祭り」はメタファーのためのものだったのではないか、というのが暫定の結論であります。亡きメタファーのためのパヴァーヌ。
大体なんだそのワッペンは。「メタファーとしてのあしか」?彼にはそんなところがあるのです、真面目なふりをして世間を斜に眺めているような。春樹の一流のジョークです。
(結局この点において私は伊坂幸太郎を好きにはなれぬのです)。

No comments:

Post a Comment