June 23, 2010

故郷

だらだらと、東京での思い出の地を書いている。
東京を知らない人だと全然面白くないだろうなと思いながら書いている。
思い出しながら書いているのだからもう記憶には記録されているはずで、この場合ブログに書くことに備忘録の意味は無い。じゃあなぜ書いているのかって、一つには書きたいのに書くネタがないからで、一つには郷愁募ったからである。

先のエントリにも少し書いたが、通っている美容室は東京に8店舗くらい、沖縄に1店舗だけある。他府県にはない。社長が沖縄好きで将来ここでやりたいから展開している、と聞いたけれど、実際今勤務しているのは東京で勤務していた美容師さん4人と地元採用だろうか、1人のネイリストさんがいる。みんな東京に暮らしていた人々なので、私がそっちの話題にのれるとわかるとうれしそうに話す。沖縄に来るなんて結構すごいなと思うのだけど、みんな淡々としている。若い子は多分20かそこらだ。
私はこの美容室が好きで(他に浮気をしたことも実はあるけれど、だめだった)、どこの店舗も結構好きだった。スタッフの仲がいいし、礼儀正しいし、てきぱきした雰囲気がいいし、私が黙ってればやたら話さなくていい。


そういう、東京への郷愁が少し前にはあったわけだ。美容室の下りは、まあそういう同士がいるということ。
郷愁とは何ぞや、と思う。


故郷って何かしら。
生まれ育った場所。よく聞く話だけれど、生まれと育ちが違う場所で、かつ転々としていたら、故郷はどこになってしまうのかしらっていう。
それで、やっぱり極端な話、心の置き所というものになるんじゃないかと思うのだ。
そうすると、これはある意味どこでもよくなる。その人次第になる。
これは一応措く。

もしかすると、家族の所在地だったり、生家の所在地だったりが重要なことなのかもしれない。
見慣れたものがある、とか、そういうことなのかもしれない。
遠い記憶をなぞれるものがある、そういうことなのかもしれない。


私の場合、多分、故郷は沖縄なのだろう。
それで、考えてみると、家族の所在地であり、生家の所在地であり、見慣れたものもあるし、遠い記憶をなぞれるものもある。
うん、故郷だ。申し分ない。
しかし、これらがなかった場合は故郷たり得ないだろうか。
家族がみんないなくなってしまったとき。家がなくなってしまったとき。見慣れたものがどんどんなくなってしまったとき。遠い記憶をもはやなぞることができなくなってしまったとき。
沖縄は故郷ではなくなるのだろうか。

私は、沖縄という土地だとか人だとかそういった具象的なものだけではなくて、いやむしろそれらとは全然関係なく、「沖縄」という概念に縛られていると感じるときがある。
勿論そうなったのは沖縄で生まれ育ったからだけれど、つまり自分自身が「沖縄」に属していると、「沖縄」を愛してしまっていると思うことがある。「沖縄」という概念を、だ。
沖縄の人々をみな愛しているというわけでもなく、沖縄の景色をみな愛するでもなく。
沖縄の人はみんないい人、なわけはない。ヤンキーだっているし馬鹿だっているし殺人だって起こる。
多分、私は「沖縄」を大切に思っているのだ。
で、「沖縄」ってなんだろう、っていう疑問が提示されるわけで。

これをうんうん考えたくて、ずっと来ている。私は「沖縄」に縛られている。

概念は分解されなければならない?
概念は分析されなければならない?

ペンディング。


で、東京。

東京にいる間は沢山のものを見たし思い出もあったし、大切な気持ちを覚えた場所もある。
東京は孤独であった。
東京の孤独を思い出せる場所はきっと故郷で。
そういう故郷への郷愁を、早慶戦の喧騒の中に見出しては息を吐く。

日常の瑣事に充実などをし甘露味を覚えていても、呆けているのだ。

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