幸せという言葉のわけのわからなさ、定義の出来なさ、反問の余地の大きさ、そういったものが、
「ああ、幸せだ」
という時の、それを言う側と聞く側の、一義的な感慨を生むのだろうなと、なんとなく思う。
それが実際に幸せであろうとなかろうと、そこは問題ではない。そう言った、ということが重要なのである。もしくは重要ですらない。
「――御幸福?」
という太宰の一節がぐっとくるのは、そのせいだ。
私は幸福だろうか。幸福とは一体何のことであろうか。それを知ってこの質問をしているこの人は、一体どんな答えを私に求めているのだろうか。幸福であってほしいのかそうでないのか、幸福であろうとなかろうと幸福といってほしいのかそうでないのか。
なんてうら寂しいいじらしい問いであろうか。
こういうものは横展開できると相場が決まっておる。「元気?」だってそうだし、「きれい?」だってそうだ。
かなしくなってしまう。
例えばこの問いに、
「幸福だよ」
と答える人と、
「そうでもない」
と答える人と、
「幸福って?」
と答える人があるとしたら、ロマンチシズムの観点から言えばきっとひとつめと、ふたつめがいいんだろうと思う。
それにたいして「どうして?」と問うのは、みっつめの答え方と同じだけリアリズムがあるけれど、私はきっとどちらも求めてしまうのだ。もしかすると、女性は。つまり、ロマンチシズムとリアリズムを同時に。
ロマンチシズムの意味を履き違えているような気もするのだけど、これってば粋の話なのだ。
「幸福だよ」「そうでもない」
これにはあとが続かない。続けさせようとする意志がない。この態度というのは諦念なのだ。諦め、媚態、渋味。艶。
「幸福って?」「どうして?」
これには野暮ったい、リアリズム。追求するのは野暮。追いすがるような問いかけ。でもそれを感じなければ、恋をしていれば不安になる。
私は経験上、粋を好んでいながらつい野暮な女である。
そうして、粋でいることの寂しさを知る。粋は、面倒くさがるということともつながっている。
ラブリーにじゃれあうというような先の野暮な問答は、面倒で粋じゃないのである。でも寂しいのである。
「どうしたらうっとうしいことが起こるんだろう」江國香織/思い煩うことなく愉しく生きよ
尾形亀之助の詩にたしかそういう愛らしい会話があった。
きっと今度載せよう。
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