June 10, 2010

偽善について

深夜はいけない。つい書きすぎてしまう。

あと、深夜は言葉の選択がいい加減でだめだ。善など説明無しにつかうものではない。

独善、偽善、善という言葉を私は使ったのだけど。

善とは何ぞや。
これは以前書いたと思うのだが、見当たらないので一応書くと、最大多数の最大幸福である(私見)。何が善で何が悪かというのは、文化とか時代とかもはや個人レベルでそれぞれ違う。ある程度の共通性はあるのだけど。そうして、ある文化圏で善悪の基準とされているのが、最大多数の最大幸福なんじゃないかと思ったわけで。つまり多数決だな。
ただし、内心の自由がある以上は、何を善で悪だと思っていようと自由なわけである。
つまり多分主観的な善悪と、一般的な善悪があるのだろうと。思っている。

そして前のエントリで私は全くそれらに触れることなくあっさりと不用意に善という言葉を使ってしまったので反省しているということ。


で、善。
善が以上のようなものである以上、偽善も独善も大して問題は無いじゃないの、という私見。

「それは独善的である」と言ったときに、つまりそれは、君だけが善だと思ってて周りはそう思ってないよ、という意味である。まあ確かに行動が伴っていたら、小さな親切大きなお世話で、他の人には迷惑になるのかもしれないが、本人にしてみれば心から善!と思ってやってるのだからまあいいじゃないの、と個人的には思う。ちょっとした注意はすれど、そんなに糾弾しなくてもいいと思う。
これは内心=善、外形=善ではない、のパターンだ。

で、「それは偽善である」と言ったときには、君は善行をしているように見えるが内心は打算で動いていて心からの善ではないだろう、という意味である。でもこれは特に周りは迷惑していない。一応善っぽい行動で、誰かは助かっているのだから、迷惑にすらならない。周りによく思われようと善行を積んでいても、別にいいじゃないの、助かってるんだし、と個人的には思う。大体こういうことを言うのって、それによって出し抜かれようとしている人の嫉妬とかなんじゃないかしら。そうでなければ人の内面にまで干渉するおせっかいな人で、それこそ独善的なのかもしれない
これは内心=善ではない、外形=善、のパターン。


「思ったことをすべて口に出すのが義務だとでも思ってるの?」
-------------------江國香織「ホリー・ガーデン」より

きれてるなぁと思う。



で、個人的には偽善であろうが独善であろうが、別にいいじゃん、と思うということ。
自分を内省する分には勿論構わない。あれは善から出た行動ではなかったのではないか、とか、あれは大きなお世話だったかもしれない、とか。最近気づいたけれど、苦悩する人間というのは一種セクシーだ。多分。
で、一方、他人のことは結局わからないのである。偽善かどうかなんてわかりはしない。でも「なんかいいことっぽいことをしようと思って、した」、と。寧ろそれだけでその人をちょっと好きになるくらいでいいんじゃないかしら。
だいたい、よいことをしようと思えばほぼ不可避的によい人に思われるのである。それを意識したからといって偽善と呼ぶのは狭量だし、全然意識してなかったとしてそれは別に殊更にほめられるべきこととも思わない。

といいつつ私も「そんな独善的な」とテレビやなんかの報道を見て思ったりする。まあその場合は、もしかすると独善的ですらないかもしれないと思っているんだけど(つまり、内心も外形も善ではないということ)。


真理を知らないものはただの馬鹿者です。だが、真理を知っていながらそれを虚偽というものは犯罪人だ!
----------------------ブレヒト


というか、独善も偽善も、もしかしたらこの意味で言われているのかもしれない。

余談だけれど、テレビに出ている人って、すごいなあと思う。特にここでは報道番組のキャスターとか。つまり、そういう顔をして、その場にいて、そういうコメントをするということを全国に放送されるのに耐えられるということ。そういうことをやっていたということが沢山の人に目撃されてしまうということ。しかしそう信じてやっているのだろうし、信じることができるというのは一種神々しい。信じてやっているのでなければ破廉恥、まあそれもすごいに入るんだけど。



それにしても、wikipediaの偽善の項目が、編集者の主観が入り込んでいて、「思慮の浅さを反省すべきである」とか書いてあるんだけど、なんか文章全体的に思慮が浅い感じがして、ある意味ほほえましい。とか上から目線で書いてみる。

2 comments:

  1.  こんばんは。相変わらず、不意にきらめく一閃ですね。
     「偽善について」を拝見して、はて、と思いまして、今までのエントリを探してみました。

    >で、個人的には偽善であろうが独善であろうが、別にいいじゃん、と思うということ。

    ですが、「内心と行動の一致・不一致について思うこと」というタイトルで述べられていることとは整合している?
     どちらかというと主張のベクトルが逆かなーという印象を受けたのですが。や、矛盾、ダメ。と言いたいわけではなく。

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  2. >ともさん
    おおお、すごい。よく見つけましたね。すっかり忘れていました。

    あー、確かに「内心と行動の一致・不一致~」では別のことを言ってますね。
    えーと、善解するとすれば、これは自分に関してのことっぽいです、多分。自分の内心と行動の不一致が気持ち悪い、自分はこうありたい、って話だと思われます。
    で、一般化したのが新しい方のエントリかな。他人がそれをやってる分には厳しく言いたくないなあという。でもまあこの「他人」の中には自分も混ざってますね。一緒に免罪してほしいという気持ちが現れていますね。つまり昔の方が自分に厳しいです。はい。

    私多分、人にも厳しくなりがちなんですよ、自分のことを棚にあげて。かといって「偽善者」「独善的」という言葉とか嫌いなんですよね。いかにも自分は義人であるかのような言い方じゃないですか。そんなわけないのに。

    ご指摘ありがとうございました。
    自分の中の葛藤が発見できてよかったです。

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