July 2, 2010

谷川俊太郎 100年インタビュー

谷川俊太郎の100年インタビューを見た、再放送で。
前半は結構見逃している。で、後半。一応ちょっと面白そうなことを言ってたので、メモる。ああ、ちゃんと見たらよかった。

一つは、宇宙的自己と社会的自己がいる、ということ。
この宇宙的自己というのはいかにも谷川さんらしいと思うのだけれど、つまり自然的自己とでもいうべきもの。おそらくは、物質的な意味での、動物的な意味での、生命体的な意味での、自己。
で、後者の社会的自己というのは、あくまで人間同士の社会、関係性の中でのみの自己。
この二つがいつもあって、それを意識している、とのこと。
彼の場合、結構宇宙好きっていうか、20億光年の孤独のときから宇宙詩人なわけで、そして今でも宇宙詩人(多分ね)なわけだけれど(インタビューの時も宇宙のっていうか惑星のイラストのTシャツにジーンズという格好であった)。

それにしても宇宙的自己かぁ、と私なんかは思う。私なら自然的自己と言う。それは、「宇宙」という言葉がもしかすると全てを包含していないかもしれないと思っているからである。宇宙の外があったらそこも含めたいのである。いや、宇宙の外のことにまで思いを馳せているというのではなくて、「宇宙」と言うことによって今そこにある身近にある、むしろ自分自身であるこの場を離れてしまうような気がするのだ。つまり、「宇宙」というと、まあここも含まれてはいるけれど、少し疎外されたような感じがする。向こうのほう、という感じ。逆に「自然」と言うと、この身近なところに軸足を置きつつ、この世界全体、人知の及ばないところまで全て「在る」もの、という感じがする。まあ言葉の感覚が違うという話なのだろうけど。
もしかすると、私の場合、宇宙<自然、だけど、彼の場合は、自然<宇宙、なのかもしれない。

余談。
昨日書こうと思ったはなし(現代文の問題文章)の一つには、この「言葉を定義すること」というのがあって、「科学的」というものをどれだけ厳密に設定することが出来るだろうかという話であった。言葉を定義したところで変遷するのだ、というような話。嗚呼、本当にそうだろうか。
私はおそらくは、ある言葉について定義をすることはできると思う。ただ、その定義の中身の定量的な部分が変化するのだと思う。まあ「科学的」という言葉については定義するのが難しいだろうということは思う(そもそも定義してfixしてしまおうという意志がないのだし)。そうそう、定義は固定なのだ、あるいは枠組みの固定なのだと思う。


で、インタビュー。
もう一つは、詩の力について。

詩というものについては二つの意味があって、ひとつは詩作品という形式のことを指している場合、もうひとつは詩情ということを指している場合。前者の意味での詩形式というものでの表現は、力として衰えているとは思う、しかし後者の意味での詩情というものは、もしかするといろいろなものに含まれていて、それはずっと存在し続けるのだろうと思う。という話。

私も、そうだろうなと思う。今どき詩作品というのはなかなか目にしない。あったとしてもベストセラーにはなかなかならなくて、小説なんかのほうがやはり娯楽としては満足を得やすいのだろうと思う。理解もしやすいし。
その一方で、詩情(彼は言い換えて、英吾で言うpoetryですが、と言った)については、いろいろなものに含まれていると思う。同意である。しかし詩情という言葉の曖昧さもまたある。詩情というのは、いわゆる詩的な情感ということであろう。詩的とは何ぞや。これもまた、詩を読むことにおいてしか理解できないものであろう。なんとなく言い得ている、なんとなく浪漫がある、なんとなく表現として暗喩的である、そういったもの。
そういう意味で村上春樹は小説家であると同時に詩人でもあると、私は思う。

詩のことをえらそうに書いたけれど、私はそんなに詩を読む方ではない。谷川さんの詩も、ちゃんと読んではいない。いくつか知っているのがあるというだけのことである。
他に読んだものといえば、宮沢賢治と尾形亀之助と草野心平と中原中也と、まあそのくらいである。
わけのわからない詩はわけのわからない小説よりも読むのが苦痛であるゆえ。


谷川さんは今回もいくつか詩を朗読していた。彼の特有の口調で。全く軽やかで素朴な読み方で。軽やかっていうのはとてもいいことだ。
彼の詩って結構突飛な感じもするのだけど、割と「ああ」っていう感じがする。納得感がある。おそらく、詩の面白みというものはこの納得感にあるのではないかしら、と思う。詩というものが元来わかりにくくできているために殊更。彼の詩はとても原始的というか根源的というか、ある意味あまり詩的でないというか。
私なんかは「朝のリレー」でふうんと思い、「20億光年の孤独」にぐっときたタイプである。今日朗読していた「私」という詩集の「さようなら」もよかった。
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もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥にとけよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
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一部抜粋。

彼はもう83歳らしいのだが、上手く年をとりきれていないということを言っていた。昔の年寄りってもっと落ち着いていたし、構えがあったのだけど、自分は全然そうでない、と。それを良くないと思っている、と。
そうして、死というもの自体をあまり怖いと思っていない、と。例えば小さい時は母が死ぬのが怖かったし、そのあとは恋人、妻が死ぬのが怖い、というように、自分の愛する者が死ぬのが怖かったけれど、しかし自分が死ぬのは自分がいなくなってしまうということだから、あんまり怖くはないのだと。それに、向こう側に行ったらどうなるんだろうという興味もあるし、とのこと。まあその前に苦しかったり痛かったりするんだろうからそれは嫌なんだろうけど、と。今健康だから言える贅沢なことですね、と仰った。

ああ、そうだなあと思う。至極真っ当というか、正直だ。
私は私の愛する人が死ぬのが怖い。離れるのが怖い。自分が先に死ぬならそれは味わわないからいい。でもそれってかなり自分勝手なのだ。家族は悲しむのだから。

泥にとける、空に消えるのは、でもよかった。戻っていける。永遠に銀河の風に吹かれるわけだ。

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