July 20, 2010

フェアネス

訳あって今日は夜中に国際通りを歩いたのだけれど。

東京のどの街より安心感があったのは、そこらを歩いている人々や路上に座り込んでいる人々がアウェイ感を持っていることが肌でわかり、そうして自分がそれほどのアウェイ感を持っていないこともわかったからで、そうしてアウェイでは人は滅多なことはしでかさないのかもしれないという一つの命題みたいなものが浮上してきたのだった。国際通りはぱっと見繁華街だけれど、その実はお土産品店通りなのである。今は。だからある一定の繁華街に見られるような犯罪の匂いがない。
座り込んでても少し心もとなげに道行く人を見る人たち。格好は派手だけれど、なんだか律儀というか。よそではよそ者のような顔をするなんて。

東京ではみんながある程度よそ者のような顔をしていて、ある程度自分の街みたいな顔をしていたような気がする。その雰囲気が私は確かに好きだった。排他的でない感じ。みんな同じ地平に立っている感じ。ルーツなんてどうでもよくて、集まってきたもの同士の同等な感じ。あなたがどこの出身であろうと、どういう地位にあろうと、どういう人生を送っていようと、関係ない、っていう。それはある意味でそれに関心を持たないという意味で冷たくも思えるが、それに干渉しない、それを理由に偏見を持たないという意味でフェアだと思う。私はフェアなことが好きだ。
東京出身の人も勿論いるけれど、そこは流石に品が良くて、「べらぼうめ、こちとら江戸っ子でい」とは言わない(少なくとも私の周りは)。


フェアであること、というのは私の中で結構重要なことである。
そういう価値観で育てられたということもあろうが、性格上そこに落ち着かないと決着がつかないように感じるので嫌、というのもある。
何がフェアで何がフェアでないのかは確かにわかりにくい。でも、ある場面場面で、この方法が一番フェアだと思う、というのがある。
先の東京の例で言えば、出身地がどこであろうと構わない、というのがフェアで。
今日の塾の小学生が二人、帰りにお菓子を選んだ時に、一つしかない飴を二人とも欲しがった際早い者勝ちというのは私の中でフェアではなくて(たまたま同じ飴を私が持っていたのでもう一人にあげた)。
有名な人が有名でない人に向かって威張るのもフェアではないし、学歴が高い人が低い人に威張るのもフェアではないし、地位が高い人が低い人に向かって威張るのもフェアではない。
もう少し進んで言えば、年上が年下に必要以上に威張るのもフェアではない。というか、年齢を理由に威張るのはフェアではない。

つまり何かを理由に優位に立ち、その優位を利用して、意思に反して他者を押さえつけたり利用したりすること、これらはみんなフェアではない。
その理由はほとんど全部が大したものではないからである。
出身地、有名無名、早い者勝ち、地位、年齢、それらはその人の人間性がいかに優れているかを示すものではありえないし、実際優れているかどうかというのは周りの人間が勝手に言うものであって、明日風が吹いたら変わるかもしれないような軽薄なものである。
そうして、そんなものの上に立って安心しちゃって他者に向かってアドバンテージを主張するようなことは、フェアじゃない上に滑稽である。

そうして、そういったものはほとんど、人間という存在のレベルではとるにたらないものだと思う。そんなもので人間が対等でなくなるのはそもそもおかしい、ということ。それぞれはそれぞれに人間なのであって、それぞれに同じだけの質量とか感情とか生命とかを持っている。そういうものを持った人間たちがそれぞれに自分の足で歩いている。話している。考えている。それだけである。


年齢だって、生まれる年を自分で選べるわけではないのだし、大正より明治に生まれた人の方が偉いなんてことは無いわけで。所与条件(最近好き)。

そういうことで、
「国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。」
という原田和英氏の言葉にものすごい納得感を覚えるのである。
※参考:内在する戦争(いけいけどんどん)

経済再開しよ。

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