July 22, 2010

やめるはひるのつき

沖縄は、先日スコールが続いたが、その後また炎天が続いている。
思わず「あお。」と言ってしまうほどの青さ。光が散乱。まぶしく光る強い青さ。
出勤は徒歩。

行く道では音楽を聴いている。blueばっかり聴いている。

蝉の鳴いている声や車の音、もしかすると肌のやける音が本来なら聞こえているのかもしれないけれど、それらがふっと遮断されて、ただただ静かな音楽が聴こえていて。
そうしてやけにその強く光る空とか、そこらに無造作に茂った雑草たちや、畑から飛び出している月桃の葉や、野生の薔薇、白く焼けたアスファルトの道路までもが、美しく見えて。
ふいに、音楽と景色が同期して、頭に流れ込んできて。映画のような。
いや、それよりも不思議な感覚。実際に腕に焼けるような熱さと汗と吹き抜ける風も同時に感じていて。脚は少しタイトなジーンズがしめつけるのを感じ、スニーカーの足の裏にも自分の体重を感じていて。
心がころころと音を立てるような。

音楽に本当に感謝するのはこういう時で。

本当に美しいものを感じたときは、人は泣きたくなるのだ。

ニシカワさんの最近のツイートに心打たれる。
「現実がつらい。というのも、3連休で完全に夢想現実に浸ってしまったから。仮想現実でも平行世界でもなく、夢想現実。たとえば音楽をききながら見る景色とか、たとえば写真を撮ろうとしてる時に見る風景とか。物理世界にいながら精神世界と同期している状態のことを、こういうのだ。いま決めた。」

物理世界にいながら精神世界と同期、だなんて。


話は変わって。

深夜にパソコンの前に座っていると、「いちめんのなのはな」という曲ばかりが頭の中をループする。有名な山村暮鳥の詩である。風景。純銀もざいく。思わず小6の子の教科書を見て「この詩いいよね!」とその子ばりのテンションで言ってしまった。
もはや良すぎて良さを説明する気になれない。感じてくれ。

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  風 景
     純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

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やめるはひるのつき。なのだけれど。
私は昼の月が好きで。夜の低い空で異様な赤みを帯びる化け物のような月も好きだし、高い空にひらめく細い下弦の月も好きだけれど、青い空に気づかれぬまま薄く白くただようような月も好きなのであり。
きっと昼の月に関する表現はいくらもあるのだろうけれど、この「やめるはひるのつき」はとても好きな表現。
尾崎放哉の「うそをついたやうな昼の月がある」という句もあって。
昼の月というのは、病んだり、うそをついたりしているようである。
まあ後者の場合「うそをついたやうな」は「月」にはかかっていないかもしれないけれど。でもまあそういう、うしろめたい気持ち。

昼の月っていうのは、夜にあるべきものが昼にあるということのかなしさ、みたいなものを象徴しているのかもしれない。
夜いきいきとするものたちに、昼のものたちは嫉妬するのかもしれない。夜はそれらは見えなくなってしまうから。そうして昼には昼の世界がある。

「昼の 部屋の中は ガラス窓の中に ゼリーのやうにかたまっている」

「これは カステーラのように明るい夜だ」

もしかして、ドイツ語などに男性名詞、女性名詞、中性名詞があるように、俳句に季語があるように、太宰が悲劇名詞と喜劇名詞を分ける遊びをしたように、昼名詞、夜名詞、暮名詞、明名詞などあるのかもしれぬ。
お弁当は朝か昼。ゼリーは昼。カステーラは昼下がり。グラスは夜。縁側は朝と昼。サッカーボールは夕方。とかそういう。

いつだったか、江國さんの文章に、朝用の音楽と昼用の音楽と夜用の音楽を厳密に分けている人がいるという話があって。自分で音楽を楽しむ分にはいいけれど、町に出ると混在しているから気持ちが悪いという話。

音楽は分けないけれど、でもどうしても記憶とひもづいている音楽は、そのシチュエーションに気分が持っていかれてしまう。

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