August 7, 2010

変化について

この前の現代文で、庭の話があった。

西洋の庭は、噴水を作ったり、木々を丸い形にカットしたり、そういう造形美を目的としている。そういう意味で西洋の庭は彫刻のようなものであり、そこで完成するものである。加えて、自然に対する姿勢として、人間が自然を支配し加工するというスタンスである。
しかしながら、日本の庭は自然を生かすようにつくられている。縁側から庭がつながっていて、いつでも生活空間の中から行き来できる、くつろぎを重視した庭である。そして、その庭は木々が成長するのに伴ってその形を変えていく。その庭をつくった者はそれを予想しているのであり、その意味で不変の完成形を残そうという意志はない。自然に対する姿勢としては、支配するのではなく、調和するスタンスである。

的な話。

その後に、そもそも日本の文化というのは何かを残そうとするようなものではない、と続く。
例えば「生花」は花がそもそもすぐに枯れてしまう以上、残せるものではない。それでいて尚、その花との出会いを大切にし、美しく配置するというもので。
「茶の湯」も主と客のその一度の席で心を込めて茶を点て、それをいただく、その場を愉しむのであって何かを残そうというものではない。
そして芭蕉が俳句より好んだという「連句」もまた、そのようなもので。連句というのは、誰かの詠んだ上の句(5・7・5)に下の句(7・7)を別の人がつけ連ねて楽しむというもので、誰が詠んだとかその句を残そうと一生懸命につくるというのではなく、その場での友人達との戯れを愉しむというものである。

という感じ。

そこで、龍安寺の石庭の話が出てくる。
石と砂だけのシンプルな庭である(厳密には苔くらい生えている)。これは日本の庭の中でも例外であるとする。植物が植わっていないのである。つまりほぼ変化しない。これは他の日本庭園と異なり、くつろげる空間というよりは非常に張り詰めた緊張感のある空間である。そして志賀直哉の褒めて言うように。
「相阿弥が石だけの庭を残して置いて呉れたことは後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘であるか後世ではわからない。例えば本法寺の光悦の庭の中でも中の『八つ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭ほど原形を失わない庭は他にないだろう。此庭では吾々は当時のままでそれを感ずることが出来る」


で、「飽きる」ということを考えた。
飽きるだろうなと思ったということ。所謂西洋の庭(つまりいつも刈り込まれていつも同じ形をしている庭)はきっと見ていてうんざりするに違いない。無論、西洋にも日本より野趣溢れる庭もたくさんある。
で、そういう定型的なものに飽きるというのはもしかして健全だなと思ったということ。
以前に内田樹氏のブログで、「人は定型から出ることは出来ない。しかし定型を嫌うことはできる」という言葉があったけれど(マスコミの論調についての文脈であった)。
それで、変わるということが(もしかすると微妙な変化であればあるほど)美しいしわくわくさせるし感動させるのだなと。
そうして、自然が変化しないように見えて実は変化していることって実は驚異的なことなのではないかと。思ったわけで。

空とかさ、雲はすごくゆっくり動いている。早くてもたかがしれているというか。なのに、気がつくと急に暗くなって雨が降ったりとか、いつのまにか薄紅に染まっていたりだとかする。雲の形も刻々と変わっているし、天上の星も実はゆっくり動いている。月がいつのまにか高く上っている。
植物も全然動いていないように見えて、実は一日でかなり成長していたりする。実がなるものに顕著だが、一日でぐんと実が大きくなっていて驚くのはよくある(よくあるのに驚くのだから私も学習しない)。

全然飽きないなあと思って。

で、音楽とかって好きなの聴きすぎて飽きるということがたまに起こるのだけど、少し経ってから聴くとまたすごく面白く聴こえたりする。違って聴こえたりする。そういうのって、もしや音楽変化してたりして。っていう思いつき。だって日々人間も変化してるわけだから、聴こえ方が変わってく事だってあり得ると思う。読書然り。


なぜ、変わらないと飽きるのだろう。
クリエイティビティと関係するのかしら。変わらないということは、進化しないということだ。変わるということは、何かしら前進なり後退なり横移動なりしていることになる。そうやって変えようとする力が、いろいろな物事を動かしている。そういうことと、この世界の源泉のようなものとはつながっているような気がする。いや思いつきだけど。
そういう動力がなければ、世界自体が動かないというか。変化するということ。単なる循環でなく(超マクロな視点で見たら循環なのかもしれないけど)。そういうこの世界の細部まで動いて変化していることが、時間が流れているということと同義で、エネルギーの移動とも同義で、ていうような。
変化って時間軸が絶対必要よな、って今思ったんだけど、逆も言えるだろうか。時間を定義するには変化が必要だっていう(何一つ変化しない場合に時間が流れているといえるのかということ)。
変化するのはなぜかって、まあ、そういうものなのだと言われればそれまでなのだけれど。
プログラム説。
ああ謎。

変わらない方がいいものもあると、思っていた。
愛情とか。ときめきとか。わくわくとか。
でも、愛情はともかく、ときめきやわくわくというのはギャップが前提のようなものだから、難しいなと思う。

諸行無常。

なんか、自分が何らかの動力で動いていることは確かで、そして物を食べないと動けなくなることからその動力が食べ物からえられているであろうこともわかって、それってなんだか超不思議だなと思う、今更。
私、ほぼ食べ物じゃん。
私自身も変化の結果なのである。体内変換。
そしてこうして書いている内容もまた、何かを取り入れて変換して出したものなのである。

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