September 1, 2010

ラブリー・ボーン

今日は台風で、台風の割には荒れなかったのだが、とにかく朝から学校は休みだし塾も休みにするということで、対応に追われた。
で、台風が来るといえばDVDを借りに行くというのはまあ多くの人が考えることで、午前中店に行ったらいまだかつて見たことのないほど混んでいて、しかもちびっ子ばっかりでした。伊達メガネをかけていたものの無駄にどきどきした。


で、家族で見るものとして選択を誤ったなと見始めから後悔したのだけど
「ラブリーボーン」
観た。家族で見るには失敗、個人で見るには良作。
観た後、家族は一様に暗くなってしまった。私の選ぶ映画はいつもそんな気がする。デートで見に行く映画(「誰も知らない」)も、妹と見に行く映画(ダンサー・イン・ザ・ダーク)も、暗くなってしまった。そしてその時は、二人で見なきゃよかったって思うんだけれども、結局後々好きな映画になっていることが多い。


そもそもはBrian Enoが曲やってるというので知った作品だった。映像が美しくて主人公の子がかわいいし、そもそも映画情報というものが入ってこない生活をしているものだから、これくらいしか思いつかず。ちなみにドリームワークスで、スピルバーグ製作総指揮だそうである、あとで知ったけど。


で、結構重い。
映画の序盤から主人公の女の子は殺されてしまうのだが、勿論それを知って観てるのだけど、殺しの前や後がリアル。家族には「ゴースト」の恋人じゃなくて家族版、と説明していたけど、時代が違う。ホラーではないと思って観ているのでそういう場面が急に出てきて恐ろしく感じる。ファンタジックでコミカルな場面がありつつなので、尚更に。

殺されるということ。殺すということ。その事実。人はみな死ぬということ。報いること。恋ということ。生きるということ。断罪のこと。

ローで散々行われた議論(議論にもなっていなくてすでにそれぞれの考えを持っていて然るべきというようなもの)だった、犯罪被害者のこと。刑罰ということ(つまり報いるということ)。模擬法廷で、少女に生きたままガソリンをかけ火をつけて焼死させた被告人(実際の事件である)の弁護人役で最終弁論をやった時のことを思い出した。どうしたって弁護する余地のほぼない事案だった。私はその時弁護人を演じるにおいて特に被害者に感情移入はしなかった。想像はしたし、恐ろしかった。被害者の恐怖と苦しみ。それを助けなかった被告人。
ただ、弁護人の仕事は被告人を弁護することで、私は弁護士役だった。

そのあとになってから、修復的司法という授業を受けた。修復的司法というのは、今までの刑事システムにおいて断絶された犯人と家族や地域を、敵対させたまま憎しみ合ったままにしておくのではなく、関係を修復していくようなもう少し広い範囲で取り組む司法を目指すべきであるというような主張である(まあ司法の枠にとどまらず)。担当教授も修復的司法の提唱者であった。模索中という感じだったけれど、結論は出ないままに授業は終わった。もしそんなことができたらどんなにいいだろうと思った。一緒に履修していた友人たちは揃って懐疑的であった。あきらめて捨てきることもせず、なんとかしてそのやり方を模索しようともしなかった。その時のわたしにとってこれは座学であって、目の前の司法試験はますます巨大化し目の前に立ちはだかり、体を不摂生が蝕んでいた。でも、記憶には残ってるなあと今少し感慨深い。


映画、私は結構よかったと思う。所謂、一つの答えだ。


機会があれば。

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