September 9, 2010

「正しい」について

「正しさなんて全然問題じゃない」
と書いたのは江國香織で。確か「いくつもの週末」というエッセイで、これは夫婦生活をテーマに書いたエッセイなのだけど、その夫婦間で甘やかす話とか(夫が「水」と言ったら何をおいても持って行ってあげるのだとか、そういう)、夫婦げんかの話とか、を書いていて、その中で、この言葉が出てくる。
その夫婦という関係性の中で、正しさは全然問題じゃないのだそうだ。


正しいことってあるのだろうか、とある時期よく考えた。
正しいことと正しくないことの限界事例に出会ったとき、何かを何かだと言い切るのはとても無謀な気がした。
それが正しいとなぜ言えるのか、根拠は何なのか、個人や文化圏の価値観では根拠としてあまりに脆弱ではないのか、正しくないとされた立場は保護されなくていいのか、結局最大多数の利益がそれをつくっているのではないのか、等々。
「何かを悪いというのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ」
というのは東京事変の透明人間という歌の歌詞。

こういうことって誰でも考えることだと思うのだけど、世の所謂発言者というか、大人たちというか、その人たちはでもちゃんと「正しい」という言葉を使う。怖がらずに。その人たちがその私の抱いたような「正しさ」というものへの幼い疑問を承知したうえで尚その言葉を用いているというのは確信に近くて、それはやっぱり「正しい」というものの存在をみんな肯定するのだろうということ。

内田樹が、本の中で、正しい意見だけを述べようとすると、ありきたりな抽象的な言葉にしかならないということを言っていた。それが具体性を持てば持つほど異論が提出されることになり、その異論はその発言の「正しさ」をその分損なうことになる(とその人には思われる)、と。だから正しいことだけを述べたい人は具体的なことを言わないのだと。そして曰く、
「大切なのは、『言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である』ことよりも、『その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる』ことである。」。
同感。

仕事をしていてもそうなのだけど、私は正しい言葉を使いたがる(本当に使えているかどうかは別として)。仕事においては別の意味で伝わってしまったら混乱するので、別に気を付ける分には構わないとは思うのだが、そういう面では多分必要以上に時間をかけてしまったりする。法律をやっていたせいかもしれないとも思う。これはつまり、リスク回避なのである。先のエントリで、自分で先につっこみを入れておくというのも、リスク回避だと思う。
つまり異論を提出されるのが面倒だとか、叩かれるとへこむから嫌だとか、そういうことなのだと思う。責任をとるとか怒られるとか。
ちなみに、異論を提出されることは直ちに自分が非難されることだとは思っていない。それを法律の議論をやるまでは同一視とはいかないまでも多少影響しあうと思っていたけれど、あの世界にいる人たちはとてもスマートに議論をする。その議論とその人との間柄とはまったく関係しない(まあ当たり前なんだけど)。そこらへんがすごく好き。フェアだと思う。

で、私にはその、正しいことだけ言いたいという傾向があるということ。確実なことだけ。
それでなければその正しさや確実性に留保をつけるのを怠らないでいたいというこれもまた担保をつけたがる傾向にあるのだということ。一体なんだろうこの欲求。

私が何かを正しいとしてしまって、その後に違った、というときの取り返しのつかなさが怖いのだろうか。
そういえば、小学5年生の時に私は学級の新聞委員の委員長をしていて、ちょっとしたクイズの景品をつくるために自分の判断でカンパを募ったのだが、ある子のお母さんがそれを知ってすごい剣幕で学校に乗り込んできたということがあった(カツアゲか何かと勘違いしたのだと思う)。その場に私はいなかったのだけど、翌日それを聞かされて私は結構驚いた。たかが100円でもお金のことはナイーヴなことなんだと、学んだ。先生がちゃんとその時説明してとりなしてくれたので、その場で事態は収拾した。
多分そういう感じで学級委員とか従兄弟たちをまとめるとかが多かったから、リスク回避の傾向が幼少の頃から育ったんじゃないかしらという推測(従兄弟たちを連れて遠くまで出てしまいこっぴどく叱られたこともある)。なんか責任を取らされる位置にいたかなしい性というかなんというか。


まあ今はもうそういうの、いいや。
なんでもへいきのへいざになりたいや。

No comments:

Post a Comment