September 19, 2010

最近本を読んでいない。ちゃんと。文章は何らかの形で触れているのだけど。
で、最近江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」を再読した。薄い文庫なのですぐに読める。
江國さんのものは本当に恋愛が多い。恋愛小説の名手らしいので、それもそうかと思う。

で、その本は短編集で、いろいろな恋愛が出てくる。もう終わってしまったもの。恋愛のただ中にいて幸福で倒れそうなもの。倦んでいるもの。若い他人の恋愛に触れて胸騒ぎがするようなもの。触れるか触れないかのような危うさ。
それに、孤独。
どんなに愛し合っていても、人は孤独なのだということ。

そういうことを嫌でも思い知らされながら、それでも果敢に恋愛に立ち向かう人たち。


そうして、もしかするとどんなことでもそうなのかもしれないが、恋愛を語るには具体的でないといけないのだなあということ。
さっき妹が、「愛は名詞ではなく、動詞である」ということを言っていたけれど。まあそれにも通ずるか。
具体的な相手、関係、雰囲気、発する言葉や空気、どんな気持ちでいるのか、それをお互いがどういう風に思っているのか、どんなエピソードが二人の間に今まであったのか、等々、極めて個人的なものが恋愛であり、そしてそれはあまりに個人的過ぎるがゆえに周囲にはわからないのだということ。
そしてそれなのに恋愛のある瞬間を紙の上で再現することに成功しているのが彼女が恋愛小説の名手と呼ばれる所以なのだということ。

「十日間の死」という作品が入っている。
その中に、失恋(というかなんというか)の後に一人ホテルにこもって泣いている主人公はこう思う。
「マークのためになんか泣いてやらない。私は失われた真実のために泣いているのだ」
失われた真実。あまやかで途方もなく幸福な日々。愛し愛された日々。
江國さんは別のエッセイで、その一瞬だけでいいから絶対が欲しい、後でそうでなくなったとしても全然いいから、その時にそう信じられるような絶対が欲しい、というようなことを言って、男友達と口論するエピソードを書いている。

そういう絶対がもしあったとして、でもそれが覆るとしても、それがその時絶対であったということが真実であれば、それを抱いてかなしくても生きていけるということなのかしら。
失われた真実のために。
そんな考え方をしたってやっぱりかなしい。恋愛が終わるのは。

江國作品で好きなものに「ホリー・ガーデン」がある。
この中で、果歩と静江という二人の友人同士が出てくるのだけど、不倫の遠距離恋愛に疲弊して新幹線で帰ってくる痛々しい静江を見て(静江当人は充実していると思っていて気づいていないのだけど)、果歩が、恋愛なんていうものからさっさと足を洗えてよかったと思っている、という下りがある。
ああそういうものかなと思う。果歩のスタンスも、静江のスタンスも、わかる。恋愛をしている間の苦しさと幸福と疲労と、恋愛からすっぱり足を洗ってコントロールしようとするドライさや後悔、逡巡。

加えて言うと、「思いわずらうことなく愉しく生きよ」という作品の三姉妹、麻子、治子、育子、それぞれの気持ちや行動もわかってしまう。

何にせよ、孤独なのである。それを知っていてなお?

でもな、安吾が言ってたよ。
「孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」


あーなんも新しいこと言えんな。

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