日本科学未来館のプラネタリウム番組「夜はやさしい」を観た。ずっとずっと観たかったのだ。
前回谷川俊太郎が参加した「暗やみの色」の時に、彼がすでに原田郁子に構想を話していたが、それがプログラムとして実現した形。
頭上に広がるは世界各地の夜空、流れるのはその各地の夜の音。喧噪や、波の音や、祭りの音楽。そして谷川俊太郎の詩を朗読するのは麻生久美子のすきっとした声。
たとえば今、インドネシアはバリのガムランにまどろむような。
今、オーストラリアはアーネムランドの舟の上で水の音とディジュリドゥを聴くような。
今、ドイツはミュンヘンの安宿であかるい喧噪を楽しんでいるような。
それがある人々の日常の音であって。
それは確かにやさしかった。
音がよくて、詩をじっくり集中して聞くことができなかったのが心残りと言えば心残り。
しかしこのプログラムに出てくる音というのは、例えば祭りの音であったとしても、メロディのようなものが無くて。
聴こえるのは打楽器や吹く楽器の音なのだけど(木管かな)、とにかく音を出すというだけのものすごくプリミティブなものばかりで。どうしてかしらとぼんやり思っていた。
メロディの否定、だろうか。
私が今メロディのない音楽をプリミティブと言ってしまったように、メロディのある方が、巧みな方がより技巧的というか、進歩的というか、そういう意識のようなものがある。でも、最近自分自身、メロディの無いものに惹かれつつあり。むしろ規則正しいテンポすら、無くても良くて。
ある意味作りすぎていない音だけの世界とか。メロディに依存しない、大衆に媚びない清々しさというか。
(まあメロディアスなものも結局好きは好きなんだけど。)
そういう意味で、そのままの宇宙的夜空には、合ってたなあという音たちだった。
最後には麻生久美子が歌うのだけど。メロディあるのだけど。
すごくリラックスできる。
終わった後ふわふわしてしまった。
ちょっとメモとして。アボリジニの楽器、ディジュリドゥの音が結構好き。
ほら貝のような。胸の底に響くような、獣の唸りのような低い音。
ちなみに、10/13(水)~11/19(金)の間は改修のため見られないそうなので。
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