October 29, 2010

indescribable.

色々な音楽を聴いていて、どんな音も音として響くのだけど、琴線にふれるというか、こころの近くまで来る音というのがあるなと思う。

でも、例えばそれは「ピアノの音」というように一概に言えるものではなくて、同じピアノでも弾き方が違えば表情が違って、単に聴こえるなという認識しかできない音であるときもあれば、脅迫的な音もあり、沁みてくる音というのもあり、穏やかになぜていく音もある。弾き方かもしれないし、音の位置かもしれないし、和音の作用かもしれない。
でも、その音がやさしいのは、その音を作った人がやさしい気持ちで作ったからだと思うし、その音がとがっているのは、その音をとがった気持ちで作ったからだと思う。作曲した経験はないけれど、なぜかしら、そういう考えが私の中にはある。

で、音は言葉ではないから、言葉の束縛から、法則から自由である。
と共に、音は音なりに、ある程度の法則に従っているのであろうとは思う。人間が音波として認識できる範囲というのは決まっているし。出せる音というのも楽器の数に拘束されているのかもしれないし。
楽器という風に限定しなくてもいいけれど、つまり音が出せるものに。それはカシャカシャ言うキーボードの音でもいいのだけど。そういえば、コーネリアスの「toner」って曲はまさにプリンタの音を音楽にしちゃった曲だし、ビョークおばさんの「dancer in the dark」の中の「Cvalda」も工場の機械音をそのままビートやパーカッションにしてしまった曲だ。
で、そういう音による表現方法というか、伝達方法に、改めて気づかされているという実感。

「夜はやさしい」で体験したのは、詩を読む人が違うだけで、こんなにも作品の表情が変わるのだということ。麻生久美子の声はとてもすきっとしていた。原田郁子の声は、やわらかく手さぐりだった。
七尾旅人の声を聴いて感じたのは、人間の声というものの可能性。
岸田繁の声を聴いて思うのは、ものすごく正しい重さで届く声があるのだということ。

「特別な声」というのは存在するな、と思う。

たとえば音が、たとえば感触が、たとえば色が、あまりに自分の中で肥大していた言語の占める位置を脅かしつつある。

でも、相変わらず言葉も好きで。
文章の力にもまた、感動を覚えて。言葉を使ってこんなに表現が、その才能にある程度関わらず可能なのはとてもフェアで、幸福なことのように思える。

なんというか、それよりなにより、この世界、この時、それを伝えようとする人間の熱、が美しい。心ふるえる。

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