すぐれて作者の独立した文学作品を読んだり、世界の底の底の方を流れるものを汲み取ったような音楽を聴いたりすると、今やっていることがすごくチープなものに思えてくる。
たとえば村上春樹が小説の中でスパゲッティを茹でているところを描写していても、その一節を読んでふと自分の手元に書き付けたメモを見ると、そのメモが非常に安っぽいものに見える。ばかばかしく思える。小説の中で「いかにもありそうな」メモとして主人公が一瞥をくれて「やれやれ」と言うに決まっているように思える。
生活を営むということはものすごく細かくて極めて現実的な(でもあまりにfictionalな)作業の積み重ねで、そういうことに我々は気づくけど気づかないふりをしたりそれを諦めたりしながら生きてる気がする。
それを指摘したからといって生活をし続けることに変わりはないのだし、それを斜に構えて見るよりはまっすぐに見た方がストレスは軽減されるかもしれない。
でも軽減されない、むしろ増大する人も勿論いるわけであって、私はそっちの方だなと思う。
そしてそれを、生活から離れたひとつの独立した視点からメタに語るのがそういった文学作品であり音楽作品であると思う。
そういう意味で彼彼女らはとても孤独に見える。メタな視点で語ることはもうすでに違う場所から世界を見ているということだと思う。
たとえば何かをすることに違和感を感じながら、でもみんながそうだからとか、違和感を口に出して言ってしまうとつまはじきにされるとか、そういう理由で口に出さずにじっと耐えるということを、社会生活をする以上はどうしても強いられるのであり。
それでも多分私は、小さい頃からそういう違和感のあることをできるだけ避けながら、でも孤立化することは幸運にも避けられて、狭くても居場所を見つけて生きてきたんだろうなと思う。いやなことはどうしてもいやで、納得のいかないことはどうしても納得がいかなかった。いる場所がそういう風になっていくのなら、立ち去った。
そういう生き方をしていると、どんどん狭くなって、いつか行き詰まるんじゃないかと、もっと我慢したりしなきゃいけないんじゃないかと思ったこともあった。もう大人だし。
でもそういう作品にふれるたび、これでいいんだなと思う。
我々はもっと自由なはずだ。思想や観念からも。
そういえば、こないだ糸井さんがほぼ日でこう書いていた。
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ことばこそ「超能力」なんじゃないか。
そういうふうに思ったことがあります。
お遊びみたいなことだけれど、
ことばで、スプーン曲げだってできます。
あなたは手も使わないし、
スプーンに触れさえもしないでね。
遠くにいる誰かに、スプーンを持ってもらって、
こちらからことばを送るんです。
「曲げて!」とね。
そしたら、かなりの確率でスプーンは曲がります。
うまく曲がらなかったら、
「頼むよ」とか「お願い」とか追加のことばを送ります。
「そんなの、あたりまえじゃん、ばからしい」
そう思われてもしょうがないけれど、
じっさい、他のどんな方法よりもすごい能力じゃない?
そんなことばを、ぼくが日本の東京のある場所で、
文字として書き記しているんだけど、
そのことばが、会ってもいないあなたのこころに、
なにかを感じさせたり、別のことを考えさせたりしてる。
ひょっとしたら、明日や明後日よりも、
ずっと先のあなたの行動にも作用しているかもしれない。
ことばが、音の波に乗って遠くまで近くまで行く。
ことばが、文字のかたちになって、過去や未来まで行く。
ことばが、人を震わせる。
ことばが、人を傷つけたり、人を癒したりする。
ことばという超能力以上の超能力のことを、
ぼくらはもっと信じたり恐れたりしてもいいと思う。
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これ多分、言葉は顕著だけど、音も、写真も、書も、器も、絵も、建築も、彫刻も、多分そうだなと思って。
人に何かを、割と本質的な何かを伝えようとする作品は作者の死んだ後々まで他者に届く。すごいことだ。
で、引用の最後のほう、「言葉を恐れる」ということ。言葉の使い方のうまいやつが、世の中を仕切れるようになっていくというやつ。
糸井さんが以前吉本隆明の言葉を引いて書いていた「沈黙」ということについての考え方。
昔のエントリ「言葉のこと」
子供たちは、大人に比べて言葉を扱うのが上手じゃない。だから、言葉で伝えきれないことがたくさんある。子供たちと接するとそれがわかる。でも、言葉じゃないもので一生懸命伝えようとしてくれていたりする。表情とか、仕草とか、言葉が言葉の本来意味するように使われていないこととかで。そこにあるのはものすごく繊細でピュアなひとつのたましいで、それを蔑ろにすることなんてしちゃいけないと思う。
つまり、最初の話とつなげると、言葉をうまく扱えることや話す内容がすらすら出てくるということが最重要であり、それができるのが最も優れた人間で、できないのが劣った人間であるという価値観に、私は違和感があるし、そうでなければ必要とされない社会なのであれば、そこを立ち去ることになるのかもしれないと思ったよ、ということ。
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