July 6, 2011

近況など

今日はじめて、刀削麺というものを食した。
刀で削いだ麺である。はじめてなのに一人だったからきゃっきゃできなかったけど、すぐ前の卓に中国人、じょんぐおれん達がいたので、ちょっとときめいた。本場みたいじゃないか。どうして中国の人は坊主が伸びたみたいな髪型をしているのかしらと思いながら、パクチーと一緒に刀削麺をほおばった。
まあそんな感じですね、最近は。
晴れて試用期間が終了し正社員となり、まあ仕事内容などは変わらず、少しずつ別の範囲にもお呼ばれしつつルーティン。


先程テレビで、器の大きい、ということについて言っていた。
あなたは食事へ行ったときにメニューをすぐ決められますか、という質問で。
心理学者の人が、アメリカでいうキャパシティというのは、あることを決めずにずっと考えていられることなのだと言った。
だから即断即決したがるのは器が小さいと。即断即決をしたがる人は往々にして人にもそれを求めると。
だから決められないというのは、それを保留にしておける余裕がある人なのだという意味で器が大きいとか。まあ食事はあんまり関係ないと思うけど。

アメリカでは、というその話を鵜呑みにするとアメリカっていうのはほんとにわかりやすいなあと思う。日本では、たとえば「器が大きい」っていうのはこういうことだ、というのはすごくばくっとしている。それを決め打ちするというのはあんまりしない。どの単語に関してもそうな気がする。
九鬼周造という人が「いき」の構造という本を書いているけれど、それは「いき」つまり粋というのを詰めて分析し言葉を尽くし感覚に訴えなんとか一つの本で総体を捉えようとしたものである。3つの要素を挙げ、それについて説明を施し、できるだけその言葉の持つ空気を写し取ろうとしたものである。それでも一冊本書けちゃうのである。
端的な、というのを嫌うような気がする。それはつまり、取りこぼすのを嫌う、固まるのを嫌う、ということなのではないか、と思う。

誰かと何か仕事をしようとすれば、それは言葉をツールとして使わなければならないわけで、そのときには確定的に決めないと意思疎通をいう用をなさないわけだから、そりゃあちゃんと決めた方が効率はいいと思う。
けど日常的に、決めなければならないというのは、嫌がるような気がするのである。それこそ無粋というか。ばくっとしとけば対応できるじゃない、というような。
法律だって解釈でいろいろやるもんな。アメリカは判例でばしばしケースを要素化して決めていくけれど。

日本人は四角四面なんてイメージが少しあったりするけれど、全然フレキシブルだと思うよ。フレキシブルすぎて読めないのかもしれないよ。

全てを決める必要はないそしてどのみちそんなことできない

決めずに置いておくのはキャパシティが広いってことらしいし、いいんじゃないでしょうか。
しかしゆるいな。ぬるくゆるびもてゆけば、わろし。ってぬるいしゆるいし、って思ってた中学生の頃。

No comments:

Post a Comment