December 20, 2011

熱いお茶が必要だ

行き詰まる時、無常観を覚える時というのはいつだって視点がマクロな時で、そりゃマクロな方が見えてる範囲が大きい(見えていなくとも見る準備はしている)わけだから、安全といえば安全で、ちまちまやってたことはばからしいし、そういう見方はぜんたい楽だ。
それは割と物理的な感覚で、たとえばGoogle mapなりGoogle Earthなりでぐんぐん遠ざかって、そうして地球の全体が見えるときなんか、ストリートビューを見ているときと全然気分が違う。一瞬前の気分。
安心。安全。達観。俯瞰。余裕。
しかしながら、我々は実に実に、物理的かつ実在的な存在である。まさに等身大との言葉通り一定の大きさの物体にはめこまれており、そういうものである以上物質界の法則に従わねばならぬ。拘束。いつまでもマクロな気分ではいられない。仕事はしなければならず、混んだ電車にも果敢に乗り込み、身を切る寒さの中にも飛び出さねばならぬ。電話をとり、キーを叩き、ダンボールを抱え、そこにもなぜか楽しみを見出す。ああ、そういうふうにできている。これが被造物ということかしらなどと思う。

空はどこまでいってもぶつからなくて、宇宙は人の手の(ないしは目の)届かないところが果てで、しかし逆にミクロにミクロに小さい世界もまた人の目の届かないところが果てなのかもしれず、そうしてそこは奇妙にリンクしているのかもしれなくて、端っこと端っこが認識できない線は終わっているのかいないのかわからなくて、それは時間だってそうかもしれないし色だってそうかもしれないし気持ちだってそうかもしれない。

かつて一度も「今」であったことのない過去。というフレーズがひっかかっていて、内田樹が懇切丁寧に書いてくれたレヴィナスを読もうとしている。内田樹はとても親切だ。どんどん稼いでほしい。

書いていてうんざりするほどのこの当たり前で同語反復で浅薄な文章を、いつしか誰かにひっかかる文章にできるかしらと思う。
価値。

俯瞰で生きるのは楽だ。いつもそんなスタンスでいれば、多少のいやなことは吹いて飛ばせる。でも俯瞰で人間は見えない。いつもそこには一人で行かなくてはならない。

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