January 23, 2012

めがね

遅ればせながら、この前の日曜に、映画「めがね」を観て、感銘を受けました。

確実に見たことのある、植物たち。海岸。海。風の吹き方。絵のすすけ方。強烈な既視感。
なのに、沖縄ではない文化をそこに入り込ませている映画で。
シンプルだけど小洒落たペンション、手入れのされた器具の並ぶキッチン、そこで手際よく作られた料理。梅干しと卵焼きと味噌汁。煮崩れもせずきれいに火の通されたあずき。近藤さんちみたいなメルシー体操。
マンドリンの音色、標準語のイントネーション、日に焼けもせずこざっぱりとした身なりをした住人たち。そしてめがね。
沖縄の暑苦しさ、人々のむさくるしいほどの人懐っこさ(本当は勿論人によるけれど)、押し付けがましいようなこてこての民謡。そういうどうしても私の「沖縄」と絡み合っているイメージが、すぱっと切り離されて、場所としての沖縄が、洗練された嫌味のないなにかにつつましく彩られた生活としてそこにあって。

少し面白い絵とひたすらのたりのたりとした、でも輪郭のはっきりした軌跡をそれぞれの人と出来事が描いていくような作品だった。

アイデンティティとしての沖縄。場所としての。アイコンとしての。「沖縄」「オキナワ」「Okinawa」。外からの印象に合わせなければならないと思う内に多重人格化した混乱し分裂した精神。

最初に私にそれを示したのはCoccoだったと思う。沖縄に本当に棲息する人間の音楽だと思った。ストレートでダイレクトだった。か弱く、力強く、しなやかで、折れそうだった。矛盾を内包せざるを得ない場所で生きる子供のなれの果てだった。

かなしさとか可笑しさとか卑屈さのないまぜになった心で、カラ元気は健気にうつる。それは沖縄人にとって美徳であった。
外向きの沖縄は、正直気持ち悪い時すらあった。
民謡。かちゃーしー。方言。明るく、ゆいまーる。ハイビスカス。パイナップル。原色。華やか。楽園。媚びていやがる。冬の沖縄は大抵曇っている。いつも晴れなわけない。

私の反発は今につながっているのだろうと思う。
両親に対する反抗期は無かった。
だけれど、沖縄に対する反抗期はずっと続いているのかもしれない。
軽蔑、愛着、執着、郷愁、うざったさ、でも帰る場所はここであるという奇妙な納得感。

「めがね」は、私にとっては、そういう映画だった。監督の意図とは全く別だろうけれど。
沖縄なのに沖縄じゃない、全く違う価値観をふいに入れ込んで、回してみた。侵された気はしない。親しさすら感じる違和感。
私にとって実はめがねは洗練の象徴であった。知と洒落と機能の。

そういうわけで、めがねの人に、めがね買ってもらいました。

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