June 27, 2012

目黒・学芸大学

ぶらり街歩き、などというテレ東でずっとやっていそうなラベルが、このブログにも実はありました。なんて懐かしいのかしら。

中野でトランペットを聴いた思い出をツイートしたら、思い出したのだった。

ラベルの貼られた4件のエントリを見ると、 どうやら住んでいた場所を時系列と逆にたどっているようです。懐古趣味上等とか言っています。私です。
結局それは鷺ノ宮で止まっていて、残すところあとは上京1年目に住んだ下目黒。



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寮のようなところに住んでいた。大学へは寮の前のバス停から出ているバスでJR目黒駅まで行って、山手線で高田馬場、からのまた学バスで早稲田、というルートで通学していた。実際の最寄り駅は東横線の学芸大学だったのだが、通学にはバスの方が便利で。
門限が10時で、1次会もそこそこに帰らなければならなかったうえ、バイトすればかるく門限破ってしまうので、2年目には早々に鷺ノ宮へ越したのだったが、最初の下宿先としては良かったような気がする。寮は全然皆フレンドリーではなく、誰もラウンジでおしゃべりなどしていなかった。
とてもドライで、孤独で、それは意外と快適だった。所謂、都市の生活、のような気がした。寂しさを我慢したり対峙したりするのではなく、寂しさに親しみを感じるのが自然な振る舞いだということを得心したのはこの時期で。

大学、学部はとにかく人が多すぎた。し、私は広く浅く顔見知りをつくりすぎた。
ただ、それは実際には仕方のないことだったように思う。
数撃ちゃ当たるの世界で、あんだけ人が多いと誰が自分と合うのか、親しくなりたいのか、わからない。とはいえ周りは新歓真最中、誰もがサークルに入りたがり、友達を作りたがっていた。今考えれば結構異常な状態だ。
じゃあいろんな人とちょっとずつ仲良くなってみればいいわけで。幸か不幸か、人材だけは潤沢。奇人も変人も凡人もいたと思うが、とにかく気取らない人ばかりで早稲田っぽかった。
オリエンテーションだけの友人もいたし、クラスで1年間だけの友人もいた。実際、今も週末に約束をしてまで会うその頃の友人はいない。
今となってはすべて結果論だ。まあ、いつでも肯定はしていたい。たとえ一人も気軽にメシ食う友人が残らなかったとしても、だ。
そういう日々の中で、私は目黒の自宅に戻ってひとりになるとほっとした。

学芸大の駅には商店街があって、そこにはやっと生活のようなものがあったので、そこへパンを買いに行ったり、東急ストアでそんなに重くないものを買って帰ったりした。自転車がやたらと止めてあり、その合間にドラッグストアのワゴンが置いてあり。ドトールや服屋や塾やクリーニング点に靴屋、八百屋、こういう商店街は沖縄には無い。沖縄にあるのは昔の市場のようなものと、大型ショッピングモールだ。
それで、家と商店街を行き来する道の途中に、ものすごく古ぼけたださいホテルがあり、そこはまったくひなびたところで、今調べたら、「ニュー目黒」という1969年に建てられたホテルだった。2001年、ミレニアムも海も超えた私の目にもはや「ニュー」はかなり古ぼけて見えた。
レストランだけが辛うじて稼働しているようなホテルだった。一体ここまで来て誰がこんなホテルに好き好んで泊まるものか、という立地と外装のひどさだった。
そのホテルを横目に、冬の家路をゆっくり歩き、ああ、冬までやってこれた、というひとしおの。

しかし、数年後某Sony君に食事に誘われて再びそのあたりを訪れたとき。

 CLASKA

!!
である。まじおしゃれである。そこでフリットとかオーダーするSony君もまじおしゃれ。
デザイナーズホテル、というか、ギャラリーも屋上のテラスもいろいろアート的側面を強化しまくった、昔と別の意味で下目黒で浮いた場所になっていた。いやかなりおしゃれ。つまり、ニュー目黒をリノベーションして云々というやつ。
客室の値段も料理の値段もそこそこするが、外国人の宿泊客が多いようだった。鄭秀和 a.k.a テイ・トウワの弟がプロデュースしているらしい。

そういう場所になったようで、わが上京の地。東京は変わりゆくなあと思う。

これでひとまず、ぶらり街歩き@Tokyoはルーツを辿り終わった。
気が向いたらまた書きます。東京のいろんな場所のこと。


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