June 29, 2009

やさしくて小さくて忘れてしまいそう

くるりの「永遠」やら「ハローグッバイ」やらを聴いていて、何やらなつかしいような、あたたかいような、泣きたくなるような、感覚をおぼえて、
どうしてこう、くるりを聴くとこんな風なんだろうって、思った。

それで、考えてみた。考えることは大切だ。考えれば大抵のことはわかる。と、女の子は言っていた。


何か失ったものを思っているからじゃあないかな、とカラスと呼ばれる少年は言った。
何かを失って、失ったことに気づいて、もう随分遠くに行ってしまったそれを取り戻せるわけもなく、途方に暮れて、ふと今の自分の身のまわりや青い空を眺めている、そういった音楽だからじゃないかな。


失ったものを思う心持ちというのは、「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられ」る心持ちと似ている。


村上春樹「風の歌を聴け」の中で引用されている、デレク・ハートフィールドの文章にこういうのがある。

「私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんなふうに苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。」



そんなわけで、「風の歌を聴け」を再読で読了したのだが、これもまた、今の私には、わかるのにではなく、わかったと思いこむのにすらもう少し時間を要するもので(ただ、カフカに比べて6分の1くらいに薄いのと、デビュー作であるということが、カフカを頭からかじっていくよりもいくらか理解を促してくれそうな気はしている。それにしても、とがっている)。


私はこのブログの前に3つほどブログをやっていて、2つ目の場所はここと同じ名前だった。
ごくたまに、見返すこともあるのだけど、そこには、

できるだけ穏やかに落胆したい

とわかったようなことを書いてあった。でもそれは結局その通りになっていった。そしてそのあとに、

でもそうやっていろんなことに落胆していったら
生きていけなくなるんだろうかと
考えるのも
秋だからだ。絶対。

と、秋のせいにしちゃった。
今は初夏だからなあ。

Life goes on.

June 27, 2009

単に、お腹がすいたということ

父のベッドを譲ってもらったおかげで、特別な飢餓はあまりやってこなくなった。

特別な飢餓というのは、件の海底火山を湖に浮かべたボートの上から眺めるというイメージを伴う、あの飢餓である。つまりは、あのベッドが特別な飢餓をもたらしたものだったということになる。私はパン屋を襲撃しなくてもよくなったし、ワーグナーを聴くこともない。そういうことだ。タンホイザー。


人類が、人類の一部が、まあ私たちが、飢えなくなってからほんの少ししか経っていなくて、人類は飢餓と共にあったとはよく言われることだと思う。それは単なる事実として受け入れられるし、だから今をものすごくありがたがることを別にしてもいいのだけど、そうすることで今のところ何かが好転するということもないだろうと思うので、まあ、単にこれはイレギュラーな状態なのだ、くらいには思っている。

そして、飢えること、お腹がすくことと、口に何かものを入れることというのは、そんなに結びつかないな、と思った。お腹がすいている時って、お腹がしくしくするのだけど、口は別にどうにもなっていない。乾いた時というのは口や喉から水分がなくなったような感じがするので、口に運ぶことと結びつくと思うのだけど。
で、昔、最初の人というのは、お腹がすいたときどう対処したらいいものか、迷ったんじゃないかなあという想像。なんかお腹が変だけど、どうやったらこれを治せるのだろう。
で、最初でなくても、しばしば、何かを食べればいいのだという答えを忘れている。うっかり。
多分、お腹がすくことに、そしてそれをやり過ごしてしまうことに慣れてしまったのだと思う。

なんか、いつもお腹すいたなあって思ってる気がする。

June 26, 2009

衝動と自由

なんというか、衝動というものをコントロールせねばならない、と思っている。

例えば、明日も仕事なのに22時からゆりかもめに乗っちゃって台場を散歩するという衝動とか、夕御飯を食べていなくて何か食べたいと思ってついスナック菓子を買いたくなるという衝動とかいう些細な衝動から、好きな人に好きですって言ってしまうという衝動とか、ある人との連絡手段を絶ってしまう衝動とか、絶食してしまう衝動とか、とかとか書いたけど結構全部些細だった。
まあ、人生は些細なことの積み重ねなのだ。


で、そういった衝動というのは嵐のようなもので、頭を抱えてしゃがんでいれば行き過ぎるものが多い。短くて5分、長くて1週間くらいでは去る。と、経験的に我々は知っている。

その5分ないしは1週間をやり過ごすことによって、取り返しのつかない状況や、のっぴきならない状況に陥ることを避けることができる。
そういった衝動の多くは、その結果として不可逆的である。引き返せない。で、そういった場所に追い込まれそうになることを予期して、ここはぐっと我慢だ、となるわけである。まあ厳密に言えば逃げることができないわけではないのだが、何か代償が伴うことがふつうである。


私は、衝動に任せることをあまり良しとしないできたわけだけど、最近の発見としては、睡眠導入剤はこのたがを外す。
しかも悪い方向の衝動、というか、まあダウナー系へ突き進む衝動である。どんな科学的根拠もないけれど、ぜったいそうだ。どんどん落ちて行って、たまにひどいエントリを公開したこともある。理性の欠片が公開を踏みとどまらせたケースもあるにはある。
お酒よりずっとたちが悪い。お酒での酔いはニュートラルだと思う。というか、お酒に酔った時というのはとても冷静に物が見えている気すらする。
もう眠剤は飲まん。断じて。


で、衝動というのは大抵自分を追い込むものなのじゃあないか、と思った。
つまり衝動は、吟味しないでする決断だと思う。というか、決断というプロセスを踏まないで結果だけがそこにあるもの。そうすることが決まり切っていて、見えない手で前へ押し出されていく感覚。
決断というのは他のオプションを捨てて一つに決めること、すなわち不可逆的要素を不可避的に内包するものである。なんて。
それに懸命に抵抗したい、というのもある。これは追い込まれたくないからだ。すなわち、自由を求めるからだ。


で、いつものように一足飛びに行くけれど、あらかじめプログラムされていること(つまり衝動、追い込まれる、決まってしまうということ)と、これに対抗すること(つまり自由であること)というのは、人間の最初から持つ矛盾の宿命のような気がする。運命と自由。欲望と理性。個人性と社会性。諸々。

これは、前の必然と偶然の話とはちょっと違ってくる。必然はここでいう「あらかじめプログラムされていること」と同義ではない。


完全に個人的メモだな。
もっと咀嚼できてわかりやすく書けそうになったらまたまとめる。

June 25, 2009

memo090624


確信
まっすぐ上に向かって

タイル
めくる



適職
天職

June 23, 2009

言葉のこと

何かのテレビ番組でナレーターが言った。
「・・・は、語学教育に力を入れました。彼の作った大学と学園都市は、その時代の知的世界に大きな影響を与えました。」

多分その時代に重んじられていたものは、哲学だの神学だの法学だのそんな感じだったのじゃないかと想像していたのだが、語学が重んじられていたということに少し驚いた記憶がある。
そしてその次にナレーターが放った「知的世界」と言う言葉が妙にひっかかった。
世界の中でも「知的」世界とそうでない世界があるということ。世界の中でも「知」に関するものだけを取り出した、1つの層のようなもののイメージ。


それで、単語というのはすべて概念だな、と思い至った。
実体とリンクしているかしていないかの違いはあるにせよ。つまり、概念だけの単語と、概念+実体の単語があるように思う。
たとえば、iPhoneは一つの概念であると同時に一つの実体(iPhone本体)を指し示す機能も包含している。林檎、もそうである。
一方、apple社というのは一つの概念であるが指し示す実体それ自体というのはない。ということ(建物、とか、人、とか、書類、とか、そういったものの総体が実体だということはまあできるかもしれないが、それだけが「会社」ではない)。愛とか忍耐とかの方がわかりやすいか。
そしてiPhoneという概念自体は実体である「物」に縛られずに一人歩き可能であるということ。
人の名前とかも、そうだなと思う。私は今mogという名前でエントリを書いているけれど、これだって概念なわけだ。そして一人歩きしている。


で、それすなわち、語彙の量というのは、知っている概念の量というのと相関があるということ。
まあ、等しいとはいわない。言葉を知っていても概念をちゃんと理解していないということはありうるから(ドイツ語のLiebeという文字列を知っていても意味を知らない場合、概念を知っているとはいえない)。
語彙が豊富だというのはそれだけで結構すごいことだと思う。


余談。
いま「言葉を知っていても概念をちゃんと理解していない」って言っちゃったけど、ここでいった「言葉」は「文字・音」に置き換えられるべきである。「文字・音」と、「言葉」は区別するべきであって、文字や音は概念を想起させるトリガーのようなもので、言葉っていうのは多分文字や音及びそれらによって表わされる概念の総体を示すことが多いのではないか。


前のブログでは、言葉の非力さというものを何度か書いていた。
それは、何かを表現しようとした時に、自分の語彙があまりに足りないのもあったし、表現力があまりに陳腐なのもあったけれど、なんにしたって、見た方が早い、と思っちゃうからだった。百聞は一見にしかず、然り然り、と思っていたのだ。
いくら言葉でその見た目の美しさを表現したり、音の美しさを表現したりしても、直接見たり聞いたり方が早いし正確、というのがあったのだ。で、まあ、まず見ろ、まず聞け、ということだ。それで昨今写真や動画をブログに埋め込むのが流行ったりしている(流行るというのは正しくないな。当然の成り行きだ。)のだと思う。


で、私はこれまで、上述のように、「直接見たり聞いたり方が早いし正確」、と思っていた。
でもこれは、いつもいつもそういうわけではないのではないか、と今は思っている。

例えば、おんなじ音楽を聴いたのでも、聴く耳を持っている人とそうでもない人というのは残念ながらいて(聴く耳が欲しいといつも思う)、音に乗った繊細な感情や情景を感じ取れる人もいればそうでない人もいるのだ。見ていてもそう。絵でも書でも女の子でもいいのだけど、人によって感じ方が変わったり、感じとることができたりできなかったりする。過去の自分と今の自分を比較することでもこれはわかる。


でも、言葉で表現することによって、ある程度の正確さをもってその感情なり感覚なりを伝えることができることがあると思う。たとえば。

ある人が、女の人が微笑んでいるのを見たとする。
それを見た人は、「ああ、笑ってるな。にこやかだな。」と思うかもしれない。

違う人が、その微笑みを、文字で表現したのを見る。
「彼女は影のように淡い微笑みを口元に浮かべている。どことなく完結した感じのする微笑みだ。それは僕に小さな日溜まりを思い起こさせる。ある種の奥まった場所にしか生まれるはずのない、とくべつなかたちをした日溜まりのようなものを。」


多分、文字を読んだ人は、日溜まりを思い浮かべるだろう。ぽかぽかした、ひんやりとした陰に囲まれ、そこだけ特別にあたたかな場所を。そうしてそれを女性の微笑みと重ね合わせるだろう。きっとその想像した微笑みは、とても豊かだと思う。

その微笑みを直に見た人には、その印象や重みがてんでばらばらだけれど、文字を読んだ人には、大体同様な印象と重みが平等に伝えられる、と思う。

言葉の輪郭はそれぞれ、一様ではない。想像する日溜まりも、女性も、微笑みも、ある核の部分が同じではあるが幅がある。
その解釈の幅を含めて、その幅を許容して、もしくはそれにさらに表現を重ねることでベン図のように想起するものの範囲を狭めていって、読者のまたは聴き手の想像をかためていく。もしかすると、それは実際に見るよりある意味正確で、豊かで、幸福であるかもしれない。

そういったことをも各所で思わされたから、春樹は偉大だ、ということ。
引用は「海辺のカフカ」より。

June 22, 2009

「海辺のカフカ」読了後のちょっとしたこと

先日だが、「海辺のカフカ」を読了した。

実は本にのめり込むというのを久しく体験していなかったので、これはなかなかに面白かったのだと思う。
あと何ページだなあ、とか、もうこのくらい読んだなあとか、そういったことを普段はちらちらと考えながら読んだりするし、ひどくなると、これはこの章まで読んだら終わりだ!とか、修行みたくなる。
長編小説が根気がなくて読めないみたいなことを以前書いたのだが、作品との相性やら自分のコンディションの問題でもあったのだなあと、まあ当り前のようなことを思った。


春樹は偉大だ、と何度か書いていたけれど、改めて、もの凄い作家だなと思う。芥川が凄いとか、夏目漱石が凄いとか、そういう凄さと別の、凄さだ。
多分、ノルウェイを読んでなにそれって思ってた時というのは、耐性ができていなかったのだ、多分。ある意味幻想的で直截な性行為の描写だとか、人物のやりとりだとか(たいていそれは現実離れしていてきざっぽい)、描写やなんかだとか、メタフォリックなストーリーについて。

脇道にそれるが、気に障ると書いてきざと読む。気障。でも実は、最近分かってきたことには、気障なことが結構好きで、気障なことを言ってる人を見ると嬉しくなってしまう。ぽーっとなる、というのはまた別で(これは好きな人にされればなると思う)、このひと気障なこと言っちゃってる!とうれしくなるのである。いいぞ、いいぞ!と。
たとえば月並みだけれど、バーで飲んでいる時にトイレに行くと言って帰ってきたその人が花束を持っていて、それを渡されるとき「君にはピンクが似合うと思って」と言うとか、彼がバーテンダーに「この花束と同じ色のカクテルをこの子に」なんて言うとかいうことがあったわけだけど(この人はいつも、誰にでもこうだ。たまに私をホステスのお姉さんか誰かと勘違いしいている節もある)、こういうの見るとすごく面白い。

あと、二人称を君、って使う人も結構好きだ。気障とまでいかないのかもしれないけど、気障っぽいと思う。逆にお前、っていう人が嫌いだ。それで三木道三とか嫌いなのだと思う。


話を元に戻す。
別に今でも彼の文体が得意だとか、砂に水が染み込むが如き自然さで体になじむとかいうことはなくて、そこは単純に考えれば、性差だと思う。彼は彼からの目線でしか書かないし、それは女性の目線ではありえない。多分男性にしかわからないこと、つまり実感をもてないこと、そういったものをやわらかく表現する能力には長けているのだろうと思う。女性がそれに同調するような。
私は、共感はしていないけれど、理解できるような気がする、理解しよう、理解したい、という気分になる。それは彼の小説の中の「僕」にしろ、現実の男の人にしろ、同じなのだろう。
「女性というものは愛されるためにあるのであって、理解されるためにあるのではない。」という言葉もあるわけだが。

以前に大学の先輩とメールをしたとき、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編(「カンガルー日和」に収録)が好きだという話をしたら、「道で可愛い子とすれ違うと男は皆多かれ少なかれああいうこと妄想する気がするよ。あんなに綺麗に文章にできないけどね」と返ってきた。
という証左。になってるか?
まあ女性の中にも、もしかしたら彼が私にとって100パーセントの男の子かもしれない、と思う人もあるかもしれないけど。
でも、100パーセントの相手がいる、とか、昔は男男と男女と女女がいてそれを神様が半分に分けたから、皆片割れを探してさまよっているとかいう話は、結構好きである。


で、「海辺のカフカ」だが、読了したはいいものの、咀嚼しきれていない。多くの解釈を必要とする作品だと思うし、自分なりに解釈してみたい、というのはやはりある。そして如何せん長い。引用メモならもしかすると近々作れるかもしれないが、話の流れがわかってしまわないように気をつける。
登場人物がみな、ものわかりのいい人たちでできている。察知して受け入れる。同じ世界観をもっているか、違っていてもぶつかったりしない。実に理想的だ。都合がいいといってもいい。

文庫本の帯には、こう書かれていた。
「今、世界中の読者がこの物語を読んでいる!」
なんのこっちゃ。

June 21, 2009

twitter

なんかいろいろあって落ち着いて文章が書けず。

とりあえずtwitterをはじめてみたりしたが、これはなんとなく、はずかしいな。今まで本棚とか文章とか公開するのは別にだったのに、つぶやきっていうのは何故こんなにはずかしいのだろうか。意味無いことばっかりだからかなあ。でもブログの文章でも意味無いことの集合だものなあ。不思議だ。

まあこれでともかく、先日のささやかな夢実現への第一歩が踏みしめられたわけだ。あとは餃子とビールだが、実家ではお酒に厳しい視線が注がれるので、なかなかに困難を極める。

June 19, 2009

テレビのこと

結構前から、テレビから縁遠い生活をしていた。

高校生のときは、学校のあとに塾にも行っていたから、NHKのオンエアバトルだけ見ることは決めていたけどあとは全然見なかった。大学に入ってからも、特にテレビが気にならず、というか存在をたびたび忘れていて、というか大体大学でのんびり雑談とかしていたし、インターネットという暇つぶしもあったので見なかった。院ではF1くらいのものだったし、会社に入ったらテレビなんか見るくらいなら寝る、と思っていた。

それで、テレビを基本的に、そんなに愛していない。(いや、たまには、なくてはならないと思うこともあることはある。)
でもまあ、実家にいて随分とゆったりした生活をおくるようになったので、リビングに行くとテレビがついており(父と祖母はテレビを愛している。聞いたことはないけど絶対そうだと思う)、やれ「東京フレンドパーク」だの、「サザエさん」だの、巨人戦だのを見ることになっている。まあ「サザエさん」と巨人戦は見たくて見ている。けれども、基本的なスタンスとしては、テレビというのは流れていれば見るものである。流れていなければいないで構わない。
テレビを30分も見ていると、私は今いったい何をしているのだろうという疑問が必ず浮かぶ。ご飯を食べている時はいい。なぜなら私は主にご飯を食べているのであって、テレビを見ているのではないからだ。でも、テレビを見ている時は、「私はこの番組が終わるまでテレビを見る」という覚悟を決めないと落ち着かない。


だいたい、ろくなものがやっていない、というのが一つの意見である。10あったら8は面白くない。昼間なんか最悪だ。沖縄でやってるのは、ワイドショーか通販番組か通販の長いCMである。あと保険。数年前よりかなり比重が大きくなっていて、あんな数個の商品を10分も20分もかけて説明されるよりは、わけのわからない昼ドラの方がまだましである。
そんななかで、そういうのが全くないNHKを比較的よく見る。1局で5chもっているからなのか、これはいい、という番組も結構ある。


そんな感じですごしていて、テレビを見ていないのは実は損をしているのではなかろうか、とはたと思った。
NHKはわかりやすい。受信料を支払っているのに見ないのはもったいない、ということ。
民放ではどうかというと、テレビのコンテンツ制作料というのは、広告主がお金を出している(と思う)。その分の広告費がどこからきているかというと、商品に上乗せされて販売されてたりするのではないかということ(よく化粧品業界と自動車業界の広告費が高い、つまりテレビ局なんかにとっては上客と言われている)。
で、商品は我々が買うわけだから、NHKみたいにダイレクトじゃないだけで、結局受信料的なものを消費の過程で払っているのではないか、知らず知らずのうちに。
といったことを考えていて。いや、事実どうなのかは知らないけど、でもそういう構造だと思う。車なんかはそうそう買わないからあれだけれども、化粧品とかトイレタリー系で考えると、結構身銭切ってる感が出てきた。

それすらも払うのが嫌、ということになると、テレビCMとか打っていない商品を買う、という方法があるわけだけど、それもなかなか難しい。普通のスーパーに並んでいる商品は大抵広告打ってるし、そうでない商品は逆に会社の規模が小さい分コストがかかってるので高くなってたりする。と思う。それに、まあ広告にお金がかかってないからといって安くなるわけではない。ブランディングの問題だってある。


で、テレビを見ないのは損、ってまあお金をベースに考えると思うわけだが、でも逆にテレビを見ることによってそれを回収しようとすると、今度は時間が消費されてしまうという。結構、けしからん。

私なんかは確実に時間に価値を見出しているタイプだし、そうでなかったとしてもどう考えてもテレビ見た方が得だから見るなんていうのはナンセンスだし、どんな人でもあんまりしないと思う。
なので、上記の仮説がもし正しかったとしても全然積極的にテレビ見よう!ってことにはならない。


でも、テレビはそんなに悪いものでもない。
テレビのわけのわからない賑やかさに救われる日もあるし、確率は低いにせよ、偶然素敵な人やものを見かけて世界が広がることだってある。ネットにはない、勝手に投げかけてくるところとか、コンテンツのある意味での豊富さとか、時間帯の雰囲気の違いを楽しめるとか、多分考えればもっとたくさんいいところはある。

まあ、わかってるんだけど、ゆっくりテレビに身を浸すっていうのはなかなかできない。

June 18, 2009

眠れない夜に考える巨人たち~越智をきっかけとして

眠れないので、野球の話でも。

越智のことを考えていた。

越智というのは、読売巨人軍(ジャイアンツだから巨人て、って思うよね)の若き中継ぎ、山口と二人風神雷神と呼ばれるピッチャーで、中継ぎでてくる元気のいい投げっぷりのピッチャーだ。
結構力が入ってあらぬ方向に行ったりワンバウンドになったりするのがご愛敬だな、とか、巨人なのに髪が割に長いとか、そういった印象をもっていた。
越智が早稲田出身だということはつい最近知ったのだが、往々にしてそこらへんから始まるのだ、ひいきというものは。なにー早稲田か。しかも巨人か。そら応援するよ。という感じになる。
しかし中継ぎ、基本的には1~2イニングしか彼の雄姿を見ることはできない。でも連日見れたりはする。

そして今日の西武戦。ゴンザレスに代わってマウンドへ上がり、ボカチカ(入墨とか入ってる)への第一球がいきなりデッドボールというこの越智っぽさ。いかん、いかんよ、と思いながら楽しい。ちゃんとそのイニングはおさえて9回まで投げる。
実は越智は前の試合でも7-3でリードしているところでマウンドへ上がって3点被弾して一点差にするという若さを見せ付けてくれている。

そして今日のお立ち台には古城と越智(古城は代打でHRを打った)。あ、越智なんだ。


越智の何がいいって、全体的な雰囲気。まだとんがってるけどわきまえてて、野球漫画みたいな一連のモーションが。腰を曲げてまるで芝目でも読むようにぐっとバッターを見つめる。力のこもった速い球。投げた後の脚が上がってしまう、振り切った感。帽子を脱いでかぶりなおす所作。子供っぽい顔。


ついでに言うと、古城の笑顔はいい。キムタクもいい。
亀井はバッターボックスでの立ち姿がいい。姿勢がきれいで清潔感がある。
逆に阿部の立ち姿もいい。安心感のあるフォルム。
坂本は少年ぽいところがいいし、鈴木は外野で守ってるときの様子がいい。
グライシンガーは目に表情ないしなあ。そこがいいんだけど。


毎日野球が見れる生活っていいよなあ。

いくつかのささやかな夢というのがその時々にあるのだけど、それが時には「皇居ピクニックで透明なカップに段にして入れた三食ご飯を誰かとデートで食べる」というものだったり、「朝マック」だったり、「きりんときりんの間を通る」だったりするのだけれど、今のところ追加されたのは、「ビールと餃子のある状態で巨人戦を観戦し、twitterにリアルタイムでつぶやく」だなと思う。

June 16, 2009

雨とコーラ

雨が今日も降っている。当然だ。梅雨なのだから。

雨は水なのだけれど、水が降っているとは言わないなあと思う。明らかに水なのだけど、言わない。空から降る水は、水ではなく雨と定義されているに違いない。何せそこらへんにある水とは格が違うのである。空から来るのである。では空から降るおたまじゃくしは何と定義されうるのだらうか。

ま、どちらにしても、コーラは飲めない。

雨とコーラが関連付けられた頭の中では、雨の日にコーラを飲むことはもしかすると素敵なことなのではないかという考えが浮かぶ。晴れの日にコーラを飲むのはなんだか当り前だからな、と思う。コーラは清涼飲料水なのであって、清涼な飲料を必要とするのは普通に考えれば雨の日より晴れの日なのである。


そうして私はコーラを買いに雨の中出掛けたことが、実はある。東京は学習院下に一人で住んでいた頃である。普段のフットワークは全然軽くないくせに、こういう思いつきのためには雨を厭わないところがいかにも怠惰である。
家にはコーラが常備されていたことが全然ない。そういう家庭だった。たまにコーラが飲める時というのは、母は「少しだけならいいよ」と言った。小さい頃、そのコップに入ったコーラの少なさに抗議して、このコーラは「少し」ではなく「ちょっと」だ、だからもっと入れてくれといった類のことを言ったのを覚えている。私の感覚では「少し」の方が「ちょっと」より多かったのである。

それで私は雨の中コンビニへ、サンダルの足を濡らしながらビニール傘を差して、歩いて行った。普段飲まないコーラを、健康に悪そうなパンチの利いたコーラを、果たして買ったのである。

家に持ち帰って、窓を開けて、雨であるということを確認しながら飲んでみた。
コーラの味は久しぶりで、普段、コーラの味をガリガリ君コーラ味の味だと幾分錯覚していた私は、その甘みの少なさに少し驚き、炭酸の刺激は思ったより辛く、後味に少し苦いものを感じた。
つまりは、おいしくなかったのである。しかも結構おいしくなかったのである。


家では飲ませてもらえなかったコーラを自由に飲めるようになった今でも結局全然飲んでいないということの理由を、もう少し深く考えるべきであったと、その小さな試みの失敗に、飲み物に二酸化炭素なんか封入する意味がわからん、まったくわからん、何を考えてるんだ、と何かを棚に上げてひとしきり憤慨した後に、雨はコーラが「飲めない」のだと、はたと気がつくのである。


に、してもコーラという飲み物の不思議な魅力というのはやはりあると思う。コーラの持つイメージ。古き良きアメリカ、瓶から直接飲んでしまう文化、不健康で格好いいような、認められた不良文化のような、ジャンクで歴史のあるカラメル色の泡立つのみもの。
コーラ作ってた人にアップルかどっかの人が、君は一生砂糖水を売って過ごすのかというようなことをいって引き抜いたという話があるのだけれども、しかしただならぬ砂糖水である。


またつまらぬものを書いてしまった。
雨が降っているから悪いのだ、私のせいではない。


ちなみに、沖縄にあるアメリカのファーストフード店A&Wルートビアは見た目コーラに類似した飲み物で、少しだけ薬っぽいが美味しい。
炭酸も弱いし、甘い。チェリーコークとかが好きな方は一度是非。

June 14, 2009

雨にまつわる

沖縄は今日も雨だった。

江國香織の本で、「雨はコーラが飲めない」というのがある(江國香織の本は大抵所有しているのだが、これは引越しの際に紛失した。または貸していて忘れたか)。

雨というのは彼女の飼っている犬の名で、犬に雨と名付ける、つまり一般名詞を固有名詞としてつけるそのセンスに驚く。で、全体、彼女は雨が好きである。

「流しの下の骨」の中にも、部屋を暗くして家族で窓の外に降る雨を見るという場面があったし、「いくつもの週末」にも(これはエッセイだ)、勢いよく窓を開けて「雨よ!」とか、静かに「雨を見ましょう」とか提案する江國さんに夫が全然反応しないという彼女の驚きというか不思議がる様子が綴られている。当然のことながら、私は江國さん寄りである。


そうして、今日も沖縄に雨が降る。「スコールのような」雨である。
雨を眺めていると、大抵江國さんを思い出す。江國さんは、雨に濡れると物がいきいきとして艶っぽくなる、という。
それはそうかもしれない、と思う。
その一方で、雨の日は物がしおらしくなる、と思う。晴れの日はぴかぴかと当然のように光を浴びてそこに然としている、車や、木々や、建物なんかが、薄暗い中黙って濡れている様が、しおらしく見える。濡れそぼっている一個の独立した動物みたいに見える。
あと、人が見えなくなるから好きだ、といつか違うブログで書いたことがある。傘と雨で人の纏う空気の範囲というか、視線とかが狭まる。


うちの家族もまた、雨を見る家族である。
降りしきる雨の滴る植物たちを縁側から眺める母、とか、ベランダで洗濯物を慌てて取り入れた後に父と共に見る、とか。
父は「いい雨だなあ」という。私は「うん」という。
晴れていたのに急に雨が降ると、地面にこもっていた何かがぶわっと出てくるような、匂いがする。雨の匂い!というやつだ。

雨の日は、学校が昼なのに夜みたいで、わくわくしたのも覚えている。蛍光灯のあかりが心もとなく青白い。廊下の緑もいつもより雰囲気がある。

雨の日にも言いたい。今日も天気がいい、って。

selfish

自分ってのはよくわからない。
自分なのによくわからないとも言えるが、自分だからよくわからないとも言える。自分は兎にも角にも客観視が厳密に言えばできない。自分だから当たり前だ。

つまりそれはどういうことかというと、まず、自分の顔が見えない。
自分がどういう顔をしていて、自分がどういうときどういう表情をするのかというのは全くわからない。
鏡を見ればある程度表情なんかは再現できるにせよ、それは自分で意識的に作った表情なのであって、多分それ以外の表情というのをたくさんしている。写真にはもしかすると隠し撮りされたりすれば自然な表情が写っているかもしれないが、「写真写りがいい・悪い」という言葉があるように、実際と写真とではどうも違うということがあるらしい。そして、どちらも結局見ているのは平面的に写し取られた「鏡」「写真」であって、自分の「顔」ではない。自分の顔の質感だとか人に与える印象だとか、そういったものは人の反応から推察するしかない。


で、自分の声というのも聞けない。逆に言うと自分の声は自分だけしか知らないとも言える。というのは、人が聞いている自分の声と自分が聞いている自分の声が違うということ。自分の声をどちらと置くかという話。
自分がしゃべっている、コントロールしているはずの声は、実は全然違っていたりする。俳優や声優は、その誤差をきちんと把握した上で誤差を計算に入れながら声を操っているので、すごいなと思う次第。


で、更に、自分の身幅というのもわからない。身長を測ったり、腕の長さを測ったり、というのはできるのだけど、それが実感としてわからない。私は166センチ身長があるのだが、そんな数値を言われてもぴんとこない。自分より高いのか低いのか、それがどれくらいなのかで普段は判断しているのだと思う。多分長さとかいうものは、見ることや触ることができて初めて意味を持つというか、そういう類のものだろうと思う。
一旦自分の体の大きさがわからなくなると、結構混乱する。真っ暗な中で寝る前にそんなことを考えてしまったら、もう明かりをつけて自分の体を確認せずにはおれない。よろしければ是非お試しください。


あと、自分が見ているこの景色は、他者と全く同じだろうかという疑問もある。色弱の先輩は、水色とピンクが同じに見えるし、赤と緑も同じに見えるのだと言っていた。それは想像しがたい世界である。私の見ている水色と、あなたの見ている水色は果たして。


自分の感情も結構わからない。苛々がすっと静まったり、誰かに対する感情が変化していったりというのが、何かのきっかけが思い当たるわけでもなしに、ものすごく流動的なときというのがある。感情とは嵐のようなものだ、という文句があった。



そうして、自分が見ているこの視界というものや感覚や感情なんかは、一身専属的に自分だけのもので、他者が決して体験できない超排他的なものだということが、ある日不思議だった。そんなある日は度々ある。
そして、そういう不思議な「自分」を有する人間がこの地球上にものすごい数いるという事実。いくつもの「自分」。


客観てのは一体何なんだろうな、と思う。
「自分」以外の「自分」たちが見たもの。その見え方。それはそのそれぞれの「自分」たちにとったら主観以外の何物でもなくて、それぞれには主観しか存在しえない。主観だらけである。
他者から見た何かは客観である。その者にとっては主観でも、自分にとっては客観である。そうすると客観というのは相対的な話なのだな。ある見え方が、主観にも客観にもなりうる。しかも厳密に言うと、客観というのは主観の入った客観である。こう見えてるんだろうな、という主観の入った。

ややこしい話をしたかっただけである。

客観なんて存在せえへんよ、と言ったのは院の友人で、それに対して猛反発した他の友人と論争するのをもうすこしちゃんと聞いておけばよかった。その発言の清々しさだけを覚えている。


自分のことばっかり考えるのって、いかにも自己中だと言って非難轟々な感じだけれど、自分をないがしろにしてはいかんと思う。
他者のことを考えるのもいいけど、他者に働きかけようにも自分がコントロールできるのは自分だし、自分が失われれば自分も失われるのだし(あれ?)、つまり自分が資本なのであって、これが欠けていくと民事再生か破産かといった話に、なる。何にせよ、自分をないがしろにするなんて、本末転倒だと思う。

というselfishのすすめ。

June 13, 2009

雨にはじまり沖縄の女の子について

沖縄は最近、空梅雨から脱して、雨がざあざあと降っている。

スコールのように、東京のゲリラ豪雨のように、激しく、しかもそれが断続的に降る。
ゲリラ豪雨は実際に経験したけれど、スコールは実際には見たことがないのに、スコールのようにって使うのは不可思議なことである。そしてそういうことって多分たくさんある。

雨は地面を叩き、道路の上を水が流れ、行き交う車は飛沫をあげて目的地へと進む。フロントガラスを覆う水も掻き分ける。

まあまあそんなに降って、と思うけれど、ダムの貯水率は上昇するので、水道部に勤めているさっちゃんは喜んでいるな、と思う(さっちゃんは、貯水量の減少を心配するあまり、トイレまで我慢している)。


さっちゃんの心意気というのは、こう、なんというか、さっちゃんに特有というよりは、沖縄の女の子に特有のような気がする。沖縄の女の子というのは、私が思うに、割にモラリストで、芯が強く、主張するところはするし、飾らない。
例外はあるし、私とかはちょっと外れているけど、大枠で。
すんなり直球をど真ん中に投げる。変化球があることは知っているけどそんなのめんどくさくて煩わしく潔くない、と、意識しない感じである。多分。
そしてそういう人達はすごく付き合いやすい。


私が東京へ出て初めて女の子の友人を作ろうと思った時に戸惑ったのはそこだった。
基本的に、「あたりさわりない」ことしかしゃべらない。ここまで、と線を引かれているのがわかるような、その線がもうありありと見えるような(ついでに言えばその線は結構本人から離れた所に引かれた、くっきりとした白線である)付き合い方だった(後日、ちゃんと気の置けない友人はできた)。


なぜ、そういう付き合い方になるのか。以下観察による推測。
自分の内面を見せることが、一大事というか、超重要機密というか、そういうものだと意識しているようである。
ありのままっていうのが難しいというか。ありのままを見せることが手の内を明かすようで、弱みを見せるようで、防衛戦略上ダメというか。
私はこう思っている、と言った途端にそれが固定されてしまう。その発言に責任をもたなきゃいけなくなる。そういう考え方の人なんだと思われてしまう。そしてそのように扱われてしまう。
かつ、相手に心の内を見せたとしても、相手が困惑するだけだ、ご迷惑だ、という常識というか、決めつけみたいなものがあるように思う。そして実際それが迷惑だと思っている人というのもいる、結構。


自分の内面と外面の、境をそんなに意識せずに生きていたから、結構困惑したのだけど、結局8年弱の東京生活で自身にもそれが染み付いてしまった。こういう意味でも東京に感化されたのだった。
宮崎出身のサークルの先輩はよく、こういうのを「東京ナイズされる」と言った。この言葉が市民権を得ているのかどうかは知らないけど、この先輩以外の人が使ってるのを耳にしたことはない。
良し悪しは各人の問題として、私はそんなに良く思っていない。全然良くない。


と、沖縄の友人たちと話していて思ったという話。
最近、友人とか、友人の友人とか、友人の配偶者とかと、土曜にバドミントンをしている。

June 12, 2009

はじまるまえのしずかなとき

by Polaris.

静かに心穏やかに、時々愉快に、雨にも負けず、風にも負けず、海底火山のような空腹にも負けない、丈夫な精神を持ち、続けていきたいと考える次第。

これは、心に移りゆくよしなしごとを、有機交流電燈の一つの青い照明の、明滅を留め置くスケッチブックとしての、メタファーとしてのdioramaになすべくweb上に浮上した何かしらである。

つまりは、前のと、同じだ。


エントリ達が旅に出た理由は、だいたい100個くらいあって、一つ目はここじゃどうも息も詰まりそうになった、というのはくるりの「ハイウェイ」なわけで、
まあ実際のところは、長すぎた滞在だったとか、4年も経ってラベルも何が何やらだったとか、ここには書きづらい何かだとか、まあいろいろあってたたむ準備だけはしていたところ、ある夜天啓があって、そうか今かと、深夜のひらめき、換言すると深夜のノリと気の迷い、によってエントリ達はweb上から姿を消したのである。
それでもhtml形式によって彼等の思い出はオフラインで残してある。trace of entriesである。red curb!
(あのエントリをもう少し読んで叩きたい、あの引用はどんなんだっけ等、ご希望があれば送付します。)


というアカウンタビリティを果たしたところではじまり。