2/22に 音楽と美術のあいだ/大友良英@ICC 最終日を見に行った。
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2014/Between_Music_and_Art/index_j.html
あまちゃんの前から知ってはいるけど、大友良英の音楽をよく聞いているとか、注意して活動を見ているとか、そういうことではなかったので、平日疲れていてICCまで行くのは正直ちょっとしんどかったのだけれど、ニシカワ君の
「でも、大友さんいい人だよ」
に押されて、行ったのだった。
展示は2つあった。
・guitar solos 1
ICCの階段の両サイドに8対、計16個のスピーカーが設置されていて、それぞれからギターの音がする。メロディーではない。タイミングや場所で聴こえる音が違う。ずっとうろうろしていたい階段。
・quartets
真っ暗な大きい部屋の真ん中に白いキューブ。キューブには部屋の各側面から影が投影されていて、楽器をさわったり声を出すアーティストの影が映る。それぞれが出した音も流れる。ただし、それは一緒に録ったものではないし、それらを投影する時間的配置はコンピュータが制御していて、常に違う組み合わせの音が、アーティスト本人たちはそこにいないのに即興演奏が生まれているという展示。
そして最後にいろいろなアーティストや評論家の、「音楽と美術のあいだ」についてのショートエッセイが壁に書かれた部屋。
そしてクロージングのトークイベント。
大友さんは、いい人だった。
下記まあだいたいこんなこと言ってたな、っていう文字起こし。全然正確じゃないけど多分だいたいこんなこと。
「音遊びの会、ってやってるんだけど、トロンボーンの藤本君なんかもうめちゃくちゃなんだけど彼にしか出せない音でぶわっと吹くの。」
(※音遊びの会:即興表現を得意とするアーティスト、知的に障害のある人、音楽療法家たちが集まった音遊びの会。)
「チャーリー・パーカーとかやんないとフリージャズやっちゃだめだって言う人とかいるんだけど、そういうのって絶対嘘だよね。できるもんね。そうやって縛るのって良くないと思うんだよね。」
「下手でも何か習ってなくても、音楽やっていいんですよ」
「高校生の時にレコード屋行って、クリスチャン・マークレーの『レコード・ウィズアウト・ア・カバー』っていうレコード買ったんだけど、名前の通りカバーが無いの。それでどんどん傷ができていくんだけど、レコードに針落とした時に聴こえるノイズが、元々入ってたものなのか後でついた傷によるものなのかがわかんなくて最高にカッコいいって思ったんだよね」
「もうジョン・ケージがこう言ってたとかで話すのやめようよ。ジョン・ケージ禁止!もっと自分の頭で考えようよ。」
あとはいろいろ、場から音楽が生まれる話とか、ライブハウスの端っこにそれぞれ演奏者を離して即興やると、おもしろいとか。
音楽家だから音楽の話を中心にしていたけれど、もっと根本的に、人間がやりたいこと、楽しむこと、何かをする(またはしない)自由について、ものすごく真剣というか、それを制限したり縛ろうとするものに対する強い反発が感じられて。
それを自由にしたいのにいろいろなものに縛られて躊躇したりしてる弱い立場の人達にとことんやさしいというか。
ほんと大友さんいい人だなー、と思ったことを書いとかないと、と思った。
書いたー。
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March 7, 2015
January 11, 2015
2015
2015という数字は好きだ。自分の誕生日がそうだからか、1とか5とかが好きなのだ。
そうして私は誕生日が1月なので、年が明けるとまもなく年齢もひとつ繰り上がる。
自分の歳を鑑みて、いまだにこういう文章を書いて、かつてaccelerateとか言っていたのがうそみたいに停滞していて、どこからこんな風にシフトしたのだろうかと考える。
職場の有志で2014年のマイ・ベストな曲を持ち寄って匿名で聴き、投票するという催しをやったのだけれど、自分の2014年を象徴する曲があまりにも思い浮かばないくらい、2014年は散漫な年だった。
いろいろなことがあったのだろうけれど、すべてが日常に組み込まれてしまって均されてしまって、主観的には本当に、バラバラでまとまりがなくただ流れていった年だった。
一応客観的には転職をしたので、それに基づいて、坂本慎太郎の「君はそう決めた」を選んだけれど。
今日、というかもう日付変わったけれど、2001年から髪を切ってもらっている美容師の人に髪を切ってもらって、その帰りに2007年頃に行っていた中野新橋のジャズ喫茶に行って、2003年頃から読み始めた村上春樹の短編を読んで過ごして、すっかり遅くなって家に帰り着いた。
いずれも最初に触れた状況とは少しずつ変わっている(たとえば美容師さんは2回支店を移動したし、中野新橋の駅舎は若干新しくなっていたし、ジャズ喫茶はマスターのほかに若い男性店員が増えていたし、村上春樹については作風が少し大人っぽくなっている)けれど、いずれも本質的には変わらない人や場所やものであり、東京で過ごすうちに得てしまったこの感覚、つまり自分の見知った(信頼できる)ところが家の他にあるという感覚をくっきり意識することになった。
それは確かに私にとって東京で生きるうえで必要な感覚だったし、それを多分半ば意識的に収集していた。
そしてそれはすべて2013年より前に収集した人や場所やものだった。
2008年頃から急に減速して、ほぼ停止して、それは多分エンストで、焦ってエンジンをふかそうとして2年経って。
実際に2010年の終わり頃にエンジンはかかったのだけれど、そこから加速することはなかなか体力的にしんどくて、そうやってしんどいことを認めてゆっくり速度に乗ったところで、2013年、今まで助手席または後部座席に乗ってくれていた母がいなくなった。
そのあとはどういう風に運転しているのかよくわからない。なんとなく自分ひとりで適当に運転しているけれど、ただただ流れに乗っているだけで速度もわからない。ただ全部同じような景色にみえるから停滞しているように見える。
やたら時間だけが過ぎる。2015年になっても感慨も無いし、無論おめでたいとも思わない。
自分が何も考えなくなった、バカになったと思う。あらゆることへの対応は、反射と今までのストックの焼き直しを出しているだけだと知っている。
今書くまでわからなかったけれど、母がいなくなってから、多分私は思考することを止めている。
思考することは自分の内側をスキャンすることで、それは必然的に母の不在が私にどう影響しているかということに向き合うことだったからで、私にはそれが重すぎた。それをしながら仕事や生活をすることは不可能だった。
でも、このまま停滞していることを強く自覚しながら過ごすのも苦しくなってきた。
つっかえていることを少しずつ片付けなければならないだろうと思う。
書き始めた時は、こういう文章になるとは思っていなかった。
書かないと出てこなかった。
2015年は書こう。
そうして私は誕生日が1月なので、年が明けるとまもなく年齢もひとつ繰り上がる。
自分の歳を鑑みて、いまだにこういう文章を書いて、かつてaccelerateとか言っていたのがうそみたいに停滞していて、どこからこんな風にシフトしたのだろうかと考える。
職場の有志で2014年のマイ・ベストな曲を持ち寄って匿名で聴き、投票するという催しをやったのだけれど、自分の2014年を象徴する曲があまりにも思い浮かばないくらい、2014年は散漫な年だった。
いろいろなことがあったのだろうけれど、すべてが日常に組み込まれてしまって均されてしまって、主観的には本当に、バラバラでまとまりがなくただ流れていった年だった。
一応客観的には転職をしたので、それに基づいて、坂本慎太郎の「君はそう決めた」を選んだけれど。
今日、というかもう日付変わったけれど、2001年から髪を切ってもらっている美容師の人に髪を切ってもらって、その帰りに2007年頃に行っていた中野新橋のジャズ喫茶に行って、2003年頃から読み始めた村上春樹の短編を読んで過ごして、すっかり遅くなって家に帰り着いた。
いずれも最初に触れた状況とは少しずつ変わっている(たとえば美容師さんは2回支店を移動したし、中野新橋の駅舎は若干新しくなっていたし、ジャズ喫茶はマスターのほかに若い男性店員が増えていたし、村上春樹については作風が少し大人っぽくなっている)けれど、いずれも本質的には変わらない人や場所やものであり、東京で過ごすうちに得てしまったこの感覚、つまり自分の見知った(信頼できる)ところが家の他にあるという感覚をくっきり意識することになった。
それは確かに私にとって東京で生きるうえで必要な感覚だったし、それを多分半ば意識的に収集していた。
そしてそれはすべて2013年より前に収集した人や場所やものだった。
2008年頃から急に減速して、ほぼ停止して、それは多分エンストで、焦ってエンジンをふかそうとして2年経って。
実際に2010年の終わり頃にエンジンはかかったのだけれど、そこから加速することはなかなか体力的にしんどくて、そうやってしんどいことを認めてゆっくり速度に乗ったところで、2013年、今まで助手席または後部座席に乗ってくれていた母がいなくなった。
そのあとはどういう風に運転しているのかよくわからない。なんとなく自分ひとりで適当に運転しているけれど、ただただ流れに乗っているだけで速度もわからない。ただ全部同じような景色にみえるから停滞しているように見える。
やたら時間だけが過ぎる。2015年になっても感慨も無いし、無論おめでたいとも思わない。
自分が何も考えなくなった、バカになったと思う。あらゆることへの対応は、反射と今までのストックの焼き直しを出しているだけだと知っている。
今書くまでわからなかったけれど、母がいなくなってから、多分私は思考することを止めている。
思考することは自分の内側をスキャンすることで、それは必然的に母の不在が私にどう影響しているかということに向き合うことだったからで、私にはそれが重すぎた。それをしながら仕事や生活をすることは不可能だった。
でも、このまま停滞していることを強く自覚しながら過ごすのも苦しくなってきた。
つっかえていることを少しずつ片付けなければならないだろうと思う。
書き始めた時は、こういう文章になるとは思っていなかった。
書かないと出てこなかった。
2015年は書こう。
December 20, 2014
じっと手を見る
できることとできないことがあるのはその通りだとして、でもそれを分ける線はいつも流動的だと覚えていたいと、思った。
できないことは今できないけど、いつかできるかもしれない。ひとりではできないかもしれないけど、二人や三人やあるいは十人ならできるかもしれない。
自分がどういう風に生きていきたいのか、最近よく考える。
今の生活がしあわせだと思う。でも、少し停滞している。そして、自分だけしあわせでいいのかとも思う。
ただ、今自分の体力的リソースを割とギリギリで回しているとも思う。
(タイムリーにも最近2人の別々の女性の先輩から、体力をつけることの大事さを示されたところだ。)
自分が立っている場所は、多分今立っていていい場所なのだと思うけど、立っているべき場所なのかはよくわからない。
人はひとところにずっと立っていられるわけではないし、最近手相を見られた結果、波瀾万丈な運命線が濃いとの指摘なのだし、誰しもいずれは歩かざるを得ないわけだけど。
そういう風が吹くときは、そういうふうになるんだろう。
昨日ある人の肩に右手を置いて、その人の人生を思って、神様のことを考えた。
帰る道々、何度か右手を見た。
肩に手を置くことしかできなかったし、もしかしたら手を置くことすらできなかったかもしれない。
でも沖縄にいた頃より、私の手は割としっかりした手になっていると思った。
できないことは今できないけど、いつかできるかもしれない。ひとりではできないかもしれないけど、二人や三人やあるいは十人ならできるかもしれない。
自分がどういう風に生きていきたいのか、最近よく考える。
今の生活がしあわせだと思う。でも、少し停滞している。そして、自分だけしあわせでいいのかとも思う。
ただ、今自分の体力的リソースを割とギリギリで回しているとも思う。
(タイムリーにも最近2人の別々の女性の先輩から、体力をつけることの大事さを示されたところだ。)
自分が立っている場所は、多分今立っていていい場所なのだと思うけど、立っているべき場所なのかはよくわからない。
人はひとところにずっと立っていられるわけではないし、最近手相を見られた結果、波瀾万丈な運命線が濃いとの指摘なのだし、誰しもいずれは歩かざるを得ないわけだけど。
そういう風が吹くときは、そういうふうになるんだろう。
昨日ある人の肩に右手を置いて、その人の人生を思って、神様のことを考えた。
帰る道々、何度か右手を見た。
肩に手を置くことしかできなかったし、もしかしたら手を置くことすらできなかったかもしれない。
でも沖縄にいた頃より、私の手は割としっかりした手になっていると思った。
September 29, 2014
南風を待ってる
最近、というか結構前だけど(もうおとなになったから、ここ2,3年以内のことは最近と言っていいのだろうと思う)、いいともが終わった。生きていれば、いろいろなものが終わるのだ。
で、その終わり間際のテレフォンショッキングで、オザケンが出ていた回というのは某tubeとかに上がっていて、SNSでも結構シェアされたりしていて、案の定私も見て。
いくつかの曲を弾き語って、やっぱり年取った分声はふらふらしていたのだけど、「さよならなんて云えないよ」の「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる」っていうくだりを、タモリが「やっぱりいいねぇ」って言うわけで。
この後に続く歌詞は、「僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」である。
でも、そう思うのは、「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」、だからなのであり、本当にその美しい日の只中にいてそれを理解しているという事態は、私には(少なくとも大学時代には)無かった。だから私は多分しあわせだったのだろうと思う。
この曲はとても好きだ。その美しい日への、美しい日に一緒にいた人々への愛おしさがきらきらしている。
そう考えて、東京事変の「閃光少女」を思い出す。
「今日現在を最高値で通過していこうよ」
日々成長しているとか、そういうことではないのだけれど、私は多分毎日割と楽しくて、今に基本的にはいつも満足していて、そして昨日のことを思い出さない。
過去にあった何かの事柄をポイントで思い出すことはあったとしても(例えば昨日のご飯とか、昨日もらったメールとか)、昨日という日一日全体を思い出したりはしない。し、一日を総括したりもしない。だから家族の年始の挨拶の際、どんな一年だったかを一生懸命思い出す。
多分私は単純(「単純」と書いて「しあわせ」と読む)なのだろうと思う。
でも、それでも「さよならなんて云えないよ」を聴くと、人並みに切なくはなるのである。
高校時代、全校でのワックスがけの日に、3階の外にある渡り廊下の柵の上で足をブラブラさせながら数人でアイスを頬張っていた時だとか、ジャージを着てテニスラケットを持って運動場へ出て行く時だとか、放課後CHARAを聴きながらチャート式を枕に教室の窓辺で木の葉っぱの揺れるのを見ている時だとか、そういう時には確かに、二度と戻らない美しい日にいるのではないかと思っていた。
もう10年以上も前のことだ。
「私は今、二度とは戻れない美しい日にいるのではないか」と思えるほどの、日々に対する、もしくは人生に対する丁寧さというのは加速度的に失われていっているのかもしれない。
で、その終わり間際のテレフォンショッキングで、オザケンが出ていた回というのは某tubeとかに上がっていて、SNSでも結構シェアされたりしていて、案の定私も見て。
いくつかの曲を弾き語って、やっぱり年取った分声はふらふらしていたのだけど、「さよならなんて云えないよ」の「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる」っていうくだりを、タモリが「やっぱりいいねぇ」って言うわけで。
この後に続く歌詞は、「僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」である。
でも、そう思うのは、「本当はわかってる 二度と戻らない美しい日にいると」、だからなのであり、本当にその美しい日の只中にいてそれを理解しているという事態は、私には(少なくとも大学時代には)無かった。だから私は多分しあわせだったのだろうと思う。
この曲はとても好きだ。その美しい日への、美しい日に一緒にいた人々への愛おしさがきらきらしている。
そう考えて、東京事変の「閃光少女」を思い出す。
「今日現在を最高値で通過していこうよ」
日々成長しているとか、そういうことではないのだけれど、私は多分毎日割と楽しくて、今に基本的にはいつも満足していて、そして昨日のことを思い出さない。
過去にあった何かの事柄をポイントで思い出すことはあったとしても(例えば昨日のご飯とか、昨日もらったメールとか)、昨日という日一日全体を思い出したりはしない。し、一日を総括したりもしない。だから家族の年始の挨拶の際、どんな一年だったかを一生懸命思い出す。
多分私は単純(「単純」と書いて「しあわせ」と読む)なのだろうと思う。
でも、それでも「さよならなんて云えないよ」を聴くと、人並みに切なくはなるのである。
高校時代、全校でのワックスがけの日に、3階の外にある渡り廊下の柵の上で足をブラブラさせながら数人でアイスを頬張っていた時だとか、ジャージを着てテニスラケットを持って運動場へ出て行く時だとか、放課後CHARAを聴きながらチャート式を枕に教室の窓辺で木の葉っぱの揺れるのを見ている時だとか、そういう時には確かに、二度と戻らない美しい日にいるのではないかと思っていた。
もう10年以上も前のことだ。
「私は今、二度とは戻れない美しい日にいるのではないか」と思えるほどの、日々に対する、もしくは人生に対する丁寧さというのは加速度的に失われていっているのかもしれない。
October 12, 2013
3 years old
また久しぶりのpost。
母のこととかを書いてしまったためにその記事を見るのがつらくて自分で書いたのに足が遠のいてしまう。
なんだか誰の人生もそうなのか知らないけど、いろいろある。
先日、互いに面識のない人同士を引き合わせるという自分にしてはめずらしいことをやった。大学時代は何の考えも無しに友達とファミレスだのラウンジだのにいるとき他の友達を呼んで引き合わせるとかよくやっていたのだけど、それは単に私が面倒くさがりだっただけで、友人コミュニティを一元化したかっただけなんだろうと思う。
で、僕らも分別もついて年を取り、むしろ引き合わせることのほうが面倒くさくなっている昨今なのになぜそんな企画にのったのかというとよくわからなくて、まあでも面倒くささより興味の方が勝ったということなんだろうと思う。
しかし割と好きな人同士を会わせるとなると、それなりに緊張もしたりして。
結果的にはとても楽しかったし、大いに飲み、喋り、笑っている2人を添え物的立ち位置でにやにや見ていたような気がする。へんな達成感。
その場で、3年という期間の話がでて、 学校の大体の区切りは3年で終わるのと似て、3年ってひとつの変わり目だよね、という話になって。その場ではそこから話が発展したわけではないけど、私にはなんだか小さく引っかかっていた。
いや本当に、今まで、自分の3年前は今と違う場所にいるんだよなと、もうさすがに30という而立の年を迎えたのに安定して苔を生やし始めてもいい頃なのにでも3年たつ間には違う場所にいるんだよなと、思う。
3年前は2010年10月で、ニシカワ君とかろうじて出会ってはいるものの沖縄住まいだし勿論今の職場を知りもしない。
その3年前は2007年10月でこれはコンサルの就活中だな。さすがに中野新橋のゲストハウスに住み続けるのもどうかと思っている頃。
その3年前は2004年10月で院に入った年、無為に学部時代の知識の貯金だけを食いつぶしていた頃。このあたりでネトウヨ的な人にひっかかったりしていた(結果的には自分の中の比較軸ができてよかったと思う)。
で、これから3年後の2016年10月に何をしているのか、私には本当に想像できない。
よく就活の時に、10年後何をしていると思いますか、何をしていたいですか、と対策本とかに書いてあったけど、これが本当に全くわからなくて、本気で想像つかないし想像しなきゃとも思わない。
それが1年後ならなんとなくリアリティ持って何かしら言えるのかもしれないけど、3年後すら私は未だに見えない。もしかしたら見たくないのかもしれない。真っ白にしておきたいのかもしれない。
AOHARU YOUTH。
君に足りないのは覚悟だ、と言われた日のことを渋い気持ちと一緒に思い出す。
さてどうしようかな。
母のこととかを書いてしまったためにその記事を見るのがつらくて自分で書いたのに足が遠のいてしまう。
なんだか誰の人生もそうなのか知らないけど、いろいろある。
先日、互いに面識のない人同士を引き合わせるという自分にしてはめずらしいことをやった。大学時代は何の考えも無しに友達とファミレスだのラウンジだのにいるとき他の友達を呼んで引き合わせるとかよくやっていたのだけど、それは単に私が面倒くさがりだっただけで、友人コミュニティを一元化したかっただけなんだろうと思う。
で、僕らも分別もついて年を取り、むしろ引き合わせることのほうが面倒くさくなっている昨今なのになぜそんな企画にのったのかというとよくわからなくて、まあでも面倒くささより興味の方が勝ったということなんだろうと思う。
しかし割と好きな人同士を会わせるとなると、それなりに緊張もしたりして。
結果的にはとても楽しかったし、大いに飲み、喋り、笑っている2人を添え物的立ち位置でにやにや見ていたような気がする。へんな達成感。
その場で、3年という期間の話がでて、 学校の大体の区切りは3年で終わるのと似て、3年ってひとつの変わり目だよね、という話になって。その場ではそこから話が発展したわけではないけど、私にはなんだか小さく引っかかっていた。
いや本当に、今まで、自分の3年前は今と違う場所にいるんだよなと、もうさすがに30という而立の年を迎えたのに安定して苔を生やし始めてもいい頃なのにでも3年たつ間には違う場所にいるんだよなと、思う。
3年前は2010年10月で、ニシカワ君とかろうじて出会ってはいるものの沖縄住まいだし勿論今の職場を知りもしない。
その3年前は2007年10月でこれはコンサルの就活中だな。さすがに中野新橋のゲストハウスに住み続けるのもどうかと思っている頃。
その3年前は2004年10月で院に入った年、無為に学部時代の知識の貯金だけを食いつぶしていた頃。このあたりでネトウヨ的な人にひっかかったりしていた(結果的には自分の中の比較軸ができてよかったと思う)。
で、これから3年後の2016年10月に何をしているのか、私には本当に想像できない。
よく就活の時に、10年後何をしていると思いますか、何をしていたいですか、と対策本とかに書いてあったけど、これが本当に全くわからなくて、本気で想像つかないし想像しなきゃとも思わない。
それが1年後ならなんとなくリアリティ持って何かしら言えるのかもしれないけど、3年後すら私は未だに見えない。もしかしたら見たくないのかもしれない。真っ白にしておきたいのかもしれない。
AOHARU YOUTH。
君に足りないのは覚悟だ、と言われた日のことを渋い気持ちと一緒に思い出す。
さてどうしようかな。
July 27, 2013
備忘録としての地球への礼儀
何かを考えていることはおもしろいことだ。
考えていないよりも人の目を引きやすいし、考えていることで安心もする。
それを人に話して感心されるのも気持ちの良い事だし、うまくいけば誰かに影響を与えられる。この世界で自分が誰かに影響を与える?それはすごいね。
例えがうまいのも、話が上手い人の特徴で、イエス・キリストはもちろん世界の多くの指導者はミニマルな的確な例えを用いて皆を説得する。
例えがうまいのは、本質を理解しているからだ。しかし、その例えは飾りなのだ。それはものごとをうまくまとめるツールなのだ。そういった飾り抜きにして、その本質が正しいのか、その本質は私にとって重要なのか、その本質は私の世界と親和性のあることなのか、それに呼応して生きようと思うのか、そういうのを検討しないと意味は無い。
感心することと納得することはまったく違う。
私はそういった、概念や真理を考える人間の所作が好きだ。 もがいている感じがするから。正常な感じがするから。
私自身そうなろうとしてきた過去があるし、今はこんなにそういった真理や概念やたとえ話や雰囲気に飢えている。枯渇している。それを与えられればぐんぐん吸い込んでしまう。引き込まれる。もがく者同士のシンパシイ。
でも、その一方で自分の中で培ってきたひとつの理解が主張する。
もうそういう話、いっぱいしたじゃん。
これからとか、成長とか、人生とか、生きるとか、力とか、向き不向きとか、価値とか、自分なりに考えたじゃん。
それで何かできたっけ。
でっかいこと考えたのにできないことばかりじゃなかったっけ。
考えるしかできないなんて、できないのと同じことだって、思わなかったっけ。
自分の無力さや、弱さを認めて、同じように別の人の無力さや弱さに寄り添おうって、思ったんじゃなかったっけ。
なのに首をもたげてくるプライド。私はわかっている。君はわかっていない。私は大人。君は子供。
ていうかお前が一番わかってないよ、と自分に言いたくなる。
人の数と同じだけある数の世界。価値観。
私たちは電車でも道でもこんなに近づいているのに、全く別の世界で生きている。 涙がでるほどの孤独。あなたの頭の中は誰にも侵害されない。そのかわり、誰とも共有できない。あなたは良くも悪くもひとりぼっちで。
信頼する人は少しでいい。1人でも見つかればついてる。ひとりぼっちがそうでなくなるわけだから。
汚れっちまったかなしみは
たとえば地球がためこんだ化石燃料
それを燃やして飛んだとして
次はどこの星の引力にからめとられるのか
そこでまた違う形のストレスと憤懣をためて
飛ぶのだろうか
飛んだらえらいんだろうか
私は一人で芝生に立っていたい
考えていないよりも人の目を引きやすいし、考えていることで安心もする。
それを人に話して感心されるのも気持ちの良い事だし、うまくいけば誰かに影響を与えられる。この世界で自分が誰かに影響を与える?それはすごいね。
例えがうまいのも、話が上手い人の特徴で、イエス・キリストはもちろん世界の多くの指導者はミニマルな的確な例えを用いて皆を説得する。
例えがうまいのは、本質を理解しているからだ。しかし、その例えは飾りなのだ。それはものごとをうまくまとめるツールなのだ。そういった飾り抜きにして、その本質が正しいのか、その本質は私にとって重要なのか、その本質は私の世界と親和性のあることなのか、それに呼応して生きようと思うのか、そういうのを検討しないと意味は無い。
感心することと納得することはまったく違う。
私はそういった、概念や真理を考える人間の所作が好きだ。 もがいている感じがするから。正常な感じがするから。
私自身そうなろうとしてきた過去があるし、今はこんなにそういった真理や概念やたとえ話や雰囲気に飢えている。枯渇している。それを与えられればぐんぐん吸い込んでしまう。引き込まれる。もがく者同士のシンパシイ。
でも、その一方で自分の中で培ってきたひとつの理解が主張する。
もうそういう話、いっぱいしたじゃん。
これからとか、成長とか、人生とか、生きるとか、力とか、向き不向きとか、価値とか、自分なりに考えたじゃん。
それで何かできたっけ。
でっかいこと考えたのにできないことばかりじゃなかったっけ。
考えるしかできないなんて、できないのと同じことだって、思わなかったっけ。
自分の無力さや、弱さを認めて、同じように別の人の無力さや弱さに寄り添おうって、思ったんじゃなかったっけ。
なのに首をもたげてくるプライド。私はわかっている。君はわかっていない。私は大人。君は子供。
ていうかお前が一番わかってないよ、と自分に言いたくなる。
人の数と同じだけある数の世界。価値観。
私たちは電車でも道でもこんなに近づいているのに、全く別の世界で生きている。 涙がでるほどの孤独。あなたの頭の中は誰にも侵害されない。そのかわり、誰とも共有できない。あなたは良くも悪くもひとりぼっちで。
信頼する人は少しでいい。1人でも見つかればついてる。ひとりぼっちがそうでなくなるわけだから。
汚れっちまったかなしみは
たとえば地球がためこんだ化石燃料
それを燃やして飛んだとして
次はどこの星の引力にからめとられるのか
そこでまた違う形のストレスと憤懣をためて
飛ぶのだろうか
飛んだらえらいんだろうか
私は一人で芝生に立っていたい
April 20, 2012
haru
押し黙る季節。
沈黙ということ。
適した言葉を見つけることが出来ない。
そもそも言葉を発するのが適当でないと感じる。
何か言葉にした瞬間に後悔してしまう気がする。
本当はそうではない、と次の瞬間に言ってしまいそうな気がする。
そうした態度を見せることが一切正しくない気がする。
確かなものだけが手の中にあり。
それを握り締めている限り大丈夫。
そんな風に思う。そして押し黙っている。
「絶対」の脆さを測りながら拒んでいたこと。
椎名林檎の「ギブス」という曲をはじめて聴いたのは高校生の頃、理解したのが大学生の頃、腹落ちして自分自身の思考となりかけたのが院の頃、開放されたのが社会人1年目、手のひらに載せることが出来てきたのがここ最近。
---------------------------------
あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば 其れすら嘘になるじゃない
---------------------------------
「絶対」を信じたが、実は「絶対」が無いことを悟り、しかしその「絶対」を求め、さる後に「絶対」を諦め、「絶対」という概念自体を厭い、「絶対」という概念を意識的に忘れ、「絶対」という概念を思いつくという事象の方へ興味が移り、「絶対」は一概念としてつまり「信念」とか「快楽」とかそういったものと同じレベルまで落ちてきて、やっと「絶対」の呪縛から解放される。
そうして得たとても大切なかたまりを、かけがえのない確信を、私は「絶対」と呼ばずにおこう。
沈黙ということ。
適した言葉を見つけることが出来ない。
そもそも言葉を発するのが適当でないと感じる。
何か言葉にした瞬間に後悔してしまう気がする。
本当はそうではない、と次の瞬間に言ってしまいそうな気がする。
そうした態度を見せることが一切正しくない気がする。
確かなものだけが手の中にあり。
それを握り締めている限り大丈夫。
そんな風に思う。そして押し黙っている。
「絶対」の脆さを測りながら拒んでいたこと。
椎名林檎の「ギブス」という曲をはじめて聴いたのは高校生の頃、理解したのが大学生の頃、腹落ちして自分自身の思考となりかけたのが院の頃、開放されたのが社会人1年目、手のひらに載せることが出来てきたのがここ最近。
---------------------------------
あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば 其れすら嘘になるじゃない
---------------------------------
「絶対」を信じたが、実は「絶対」が無いことを悟り、しかしその「絶対」を求め、さる後に「絶対」を諦め、「絶対」という概念自体を厭い、「絶対」という概念を意識的に忘れ、「絶対」という概念を思いつくという事象の方へ興味が移り、「絶対」は一概念としてつまり「信念」とか「快楽」とかそういったものと同じレベルまで落ちてきて、やっと「絶対」の呪縛から解放される。
そうして得たとても大切なかたまりを、かけがえのない確信を、私は「絶対」と呼ばずにおこう。
February 25, 2012
海の
今住んでいる場所は、風向きによって海の匂いがする日がある。
海が近いのだった。
その一点だけでも、私はこの場所が好きだと思う。(まだいろいろ好きな理由はあるのだ、徒歩5分圏内にスーパーが3つもあるとか、街灯が高速道路みたいでオレンジの水滴のようだとか、クリニックや薬局も至近だとか、バレンタインなんかに全然浮かれていないところとか。)
たとえば有楽町は、あんなに都会なのに、The GINZA!なのに海の匂いがすることがある。
全然海は見えないけれど、ここも海が近いのだなあと思っていた。
そのとき私は有楽町で乗り換えて通勤していた。ガード下の立ち飲み屋を横目に羨みながら電気の消えたヨドバシカメラの前を通って。電気の消えた本当は賑やかな場所を通るのはさびしいのと特別な感じと両方するけど、どちらにしても疲弊していて、海の匂いはとても物質的で本質的で地に足がついていて、虚業を忘れるのにとてもよかった。
海のあの有機的な匂いがすると、なぜだか、ああこれに飢えていた、という気がする。
沖縄にいたときに海の側に住んでいたわけでもないし、沖縄の海の匂いとはちょっと違っているのに。
有機的としかいいようのない、生き物の混在した匂い。そこに私たちのようにいきづくものものがいるという認識。私たちには侵食しえない別の世界。
土地がないからといって埋め立てはしても、水の中に住もうとはしなかったのだなと、人間の貪欲さからするとなんとなく不思議にも思う。
私の理解では、海は完全なるアウェーである。だからシュノーケリングもダイビングも、私はしかねる。あの中では何をされても文句は言えない。完全に違うルールで構築されている世界である。私は結構自然を畏怖しているな、そう考えると。だいたい、洗面器の水の量でも溺死できるという脆弱な人間ごときがさ。
でもその世界を眺めるのはとても好きだ。神は天の上にある水と下にある水とを分けられた。
全然中はフラットじゃないのにフラットみたいに見える水面。
週に一度、横浜地裁へおつかいにいくのだけれど、その度に海の方へ歩き出したい衝動をおさえる。横浜地裁から5分と歩かずに海があるのだ。もちろん海の匂いもする。曇りの日は冴え冴えする。
その気持ちは、前の会社で働いていた時にいつも有楽町で乗り換えるときに見える皇居の緑へ、地下鉄のボロくて狭い階段なんか降りずにずんずん歩いてしまいたい気持ちと似ている。
明日も海の匂いがしたら、会社帰りに寄ろうかな。
海が近いのだった。
その一点だけでも、私はこの場所が好きだと思う。(まだいろいろ好きな理由はあるのだ、徒歩5分圏内にスーパーが3つもあるとか、街灯が高速道路みたいでオレンジの水滴のようだとか、クリニックや薬局も至近だとか、バレンタインなんかに全然浮かれていないところとか。)
たとえば有楽町は、あんなに都会なのに、The GINZA!なのに海の匂いがすることがある。
全然海は見えないけれど、ここも海が近いのだなあと思っていた。
そのとき私は有楽町で乗り換えて通勤していた。ガード下の立ち飲み屋を横目に羨みながら電気の消えたヨドバシカメラの前を通って。電気の消えた本当は賑やかな場所を通るのはさびしいのと特別な感じと両方するけど、どちらにしても疲弊していて、海の匂いはとても物質的で本質的で地に足がついていて、虚業を忘れるのにとてもよかった。
海のあの有機的な匂いがすると、なぜだか、ああこれに飢えていた、という気がする。
沖縄にいたときに海の側に住んでいたわけでもないし、沖縄の海の匂いとはちょっと違っているのに。
有機的としかいいようのない、生き物の混在した匂い。そこに私たちのようにいきづくものものがいるという認識。私たちには侵食しえない別の世界。
土地がないからといって埋め立てはしても、水の中に住もうとはしなかったのだなと、人間の貪欲さからするとなんとなく不思議にも思う。
私の理解では、海は完全なるアウェーである。だからシュノーケリングもダイビングも、私はしかねる。あの中では何をされても文句は言えない。完全に違うルールで構築されている世界である。私は結構自然を畏怖しているな、そう考えると。だいたい、洗面器の水の量でも溺死できるという脆弱な人間ごときがさ。
でもその世界を眺めるのはとても好きだ。神は天の上にある水と下にある水とを分けられた。
全然中はフラットじゃないのにフラットみたいに見える水面。
週に一度、横浜地裁へおつかいにいくのだけれど、その度に海の方へ歩き出したい衝動をおさえる。横浜地裁から5分と歩かずに海があるのだ。もちろん海の匂いもする。曇りの日は冴え冴えする。
その気持ちは、前の会社で働いていた時にいつも有楽町で乗り換えるときに見える皇居の緑へ、地下鉄のボロくて狭い階段なんか降りずにずんずん歩いてしまいたい気持ちと似ている。
明日も海の匂いがしたら、会社帰りに寄ろうかな。
February 19, 2012
まる
ちょっと前に、院の面々の集まる新年会に顔を出し、そこである人の言った「一周回ってる」という概念を結構気に入ってしまっている。なんだか言い得て妙な感じがして。
曰く、人間にはいろんなタイプがいて、ある種の人々は、「回る」という部類に属するとのこと。お遍路のように。そうして、私やその他友人の一人は1周もう回っているとのこと。俺はまだ序盤とのこと。一周まわってるやつはなんかすげえとのこと。コンテンポラリーとモダンをひたすら間違えながらお話しになる。
そういう抽象レベルのイメージベースの話し方って結構好きだなあと思う。
誰々は~的だ、という文脈の中で、ある人は終末的だと評され、かつ宇宙飛行士だと評される、そのことがなんとなく共通認識として納得感ある、っていうのは面白いことだと思う。
例えば自分の今の状態を、そういうふうに、絵にできたら、問題の大半は片付いているのだろうと思う。何が問題なのかを説明できた時点でその問題はほぼ解決しているとの先達の言の如く。
でも実は問題を明らかにした所でどうしようもないこともたくさんある。

Then,don't worry about it.Life goes on.である。兎にも角にも知に働けば角が立ち、その角が削るのは自身であったり。
でも誰が何を言っても、隣に緑の草原が見えていても、枯野を引き回される牛の如く、枯野の中にひたすらほおずきの実を探す秋もある。
あたらしい二人があたらしい場所にあたたかな心であたたかな場所をつくれますように。
曰く、人間にはいろんなタイプがいて、ある種の人々は、「回る」という部類に属するとのこと。お遍路のように。そうして、私やその他友人の一人は1周もう回っているとのこと。俺はまだ序盤とのこと。一周まわってるやつはなんかすげえとのこと。コンテンポラリーとモダンをひたすら間違えながらお話しになる。
そういう抽象レベルのイメージベースの話し方って結構好きだなあと思う。
誰々は~的だ、という文脈の中で、ある人は終末的だと評され、かつ宇宙飛行士だと評される、そのことがなんとなく共通認識として納得感ある、っていうのは面白いことだと思う。
例えば自分の今の状態を、そういうふうに、絵にできたら、問題の大半は片付いているのだろうと思う。何が問題なのかを説明できた時点でその問題はほぼ解決しているとの先達の言の如く。
でも実は問題を明らかにした所でどうしようもないこともたくさんある。

Then,don't worry about it.Life goes on.である。兎にも角にも知に働けば角が立ち、その角が削るのは自身であったり。
でも誰が何を言っても、隣に緑の草原が見えていても、枯野を引き回される牛の如く、枯野の中にひたすらほおずきの実を探す秋もある。
あたらしい二人があたらしい場所にあたたかな心であたたかな場所をつくれますように。
January 9, 2012
2012
2012になった。
0が一つ、1が一つ、2が二つ。いい字面。2で始まって2で終わる。私は2が好きである。
数字は0、1、2までがいい。落ち着いている。3が出てくると急にポップさが出てくる。動きが。
年末年始を沖縄で過ごした。実際は結構タイトな日程だったと思うのだけれど、こちらで過ごす時間の2倍くらい時間がゆっくり進んでいるようで、18時を過ぎても明るく、陽射しがあたたかく、風がゆっくり吹いていて、思わず誰もが目を細めて。
こんな時間の中で過ごしていたらだめになる、と思っていた数年前を思い出し、しかし今では、せめて家の中では時間をゆっくり進めたいと思っていたりもする。
身の丈にあった生活とは、別にお金のことだけじゃない。
時間の使い方だっていくらでも効率よくスピーディにやればいいってわけじゃあない。そりゃあ効率のいい人のほうが仕事では重宝されるしかっこ良くも見える。でも人それぞれの体内に適した時間を把握してコントロール出来る方が高度な能力のような気がする。
体力も、能力も、家庭の経済も然り。持続可能な生活、なんていつか流行ったLOHASかぶれな感じだけれど。
こんなこと言ってるけど、昔acceralateというブログをやっていましたすいません。
タイムマネジメント、というのはきゅうきゅうに詰め込むことではないのだ。
我余白を愛す。
いろいろ先のことを考えることはできるけれど、ここは元旦礼拝で示された言葉に依ろうと思う。
「だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイの福音書6章34節
0が一つ、1が一つ、2が二つ。いい字面。2で始まって2で終わる。私は2が好きである。
数字は0、1、2までがいい。落ち着いている。3が出てくると急にポップさが出てくる。動きが。
年末年始を沖縄で過ごした。実際は結構タイトな日程だったと思うのだけれど、こちらで過ごす時間の2倍くらい時間がゆっくり進んでいるようで、18時を過ぎても明るく、陽射しがあたたかく、風がゆっくり吹いていて、思わず誰もが目を細めて。
こんな時間の中で過ごしていたらだめになる、と思っていた数年前を思い出し、しかし今では、せめて家の中では時間をゆっくり進めたいと思っていたりもする。
身の丈にあった生活とは、別にお金のことだけじゃない。
時間の使い方だっていくらでも効率よくスピーディにやればいいってわけじゃあない。そりゃあ効率のいい人のほうが仕事では重宝されるしかっこ良くも見える。でも人それぞれの体内に適した時間を把握してコントロール出来る方が高度な能力のような気がする。
体力も、能力も、家庭の経済も然り。持続可能な生活、なんていつか流行ったLOHASかぶれな感じだけれど。
こんなこと言ってるけど、昔acceralateというブログをやっていましたすいません。
タイムマネジメント、というのはきゅうきゅうに詰め込むことではないのだ。
我余白を愛す。
いろいろ先のことを考えることはできるけれど、ここは元旦礼拝で示された言葉に依ろうと思う。
「だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイの福音書6章34節
December 20, 2011
熱いお茶が必要だ
行き詰まる時、無常観を覚える時というのはいつだって視点がマクロな時で、そりゃマクロな方が見えてる範囲が大きい(見えていなくとも見る準備はしている)わけだから、安全といえば安全で、ちまちまやってたことはばからしいし、そういう見方はぜんたい楽だ。
それは割と物理的な感覚で、たとえばGoogle mapなりGoogle Earthなりでぐんぐん遠ざかって、そうして地球の全体が見えるときなんか、ストリートビューを見ているときと全然気分が違う。一瞬前の気分。
安心。安全。達観。俯瞰。余裕。
しかしながら、我々は実に実に、物理的かつ実在的な存在である。まさに等身大との言葉通り一定の大きさの物体にはめこまれており、そういうものである以上物質界の法則に従わねばならぬ。拘束。いつまでもマクロな気分ではいられない。仕事はしなければならず、混んだ電車にも果敢に乗り込み、身を切る寒さの中にも飛び出さねばならぬ。電話をとり、キーを叩き、ダンボールを抱え、そこにもなぜか楽しみを見出す。ああ、そういうふうにできている。これが被造物ということかしらなどと思う。
空はどこまでいってもぶつからなくて、宇宙は人の手の(ないしは目の)届かないところが果てで、しかし逆にミクロにミクロに小さい世界もまた人の目の届かないところが果てなのかもしれず、そうしてそこは奇妙にリンクしているのかもしれなくて、端っこと端っこが認識できない線は終わっているのかいないのかわからなくて、それは時間だってそうかもしれないし色だってそうかもしれないし気持ちだってそうかもしれない。
かつて一度も「今」であったことのない過去。というフレーズがひっかかっていて、内田樹が懇切丁寧に書いてくれたレヴィナスを読もうとしている。内田樹はとても親切だ。どんどん稼いでほしい。
書いていてうんざりするほどのこの当たり前で同語反復で浅薄な文章を、いつしか誰かにひっかかる文章にできるかしらと思う。
価値。
俯瞰で生きるのは楽だ。いつもそんなスタンスでいれば、多少のいやなことは吹いて飛ばせる。でも俯瞰で人間は見えない。いつもそこには一人で行かなくてはならない。
それは割と物理的な感覚で、たとえばGoogle mapなりGoogle Earthなりでぐんぐん遠ざかって、そうして地球の全体が見えるときなんか、ストリートビューを見ているときと全然気分が違う。一瞬前の気分。
安心。安全。達観。俯瞰。余裕。
しかしながら、我々は実に実に、物理的かつ実在的な存在である。まさに等身大との言葉通り一定の大きさの物体にはめこまれており、そういうものである以上物質界の法則に従わねばならぬ。拘束。いつまでもマクロな気分ではいられない。仕事はしなければならず、混んだ電車にも果敢に乗り込み、身を切る寒さの中にも飛び出さねばならぬ。電話をとり、キーを叩き、ダンボールを抱え、そこにもなぜか楽しみを見出す。ああ、そういうふうにできている。これが被造物ということかしらなどと思う。
空はどこまでいってもぶつからなくて、宇宙は人の手の(ないしは目の)届かないところが果てで、しかし逆にミクロにミクロに小さい世界もまた人の目の届かないところが果てなのかもしれず、そうしてそこは奇妙にリンクしているのかもしれなくて、端っこと端っこが認識できない線は終わっているのかいないのかわからなくて、それは時間だってそうかもしれないし色だってそうかもしれないし気持ちだってそうかもしれない。
かつて一度も「今」であったことのない過去。というフレーズがひっかかっていて、内田樹が懇切丁寧に書いてくれたレヴィナスを読もうとしている。内田樹はとても親切だ。どんどん稼いでほしい。
書いていてうんざりするほどのこの当たり前で同語反復で浅薄な文章を、いつしか誰かにひっかかる文章にできるかしらと思う。
価値。
俯瞰で生きるのは楽だ。いつもそんなスタンスでいれば、多少のいやなことは吹いて飛ばせる。でも俯瞰で人間は見えない。いつもそこには一人で行かなくてはならない。
November 22, 2011
まるとおんがく
ウーハンの女を聴きながらブログでも更新しようか。
ウーハンって武漢なのな。最近中国語やってます。中国語の先生の発音かわいいです。あるです、って言います。
今一番見るべきテレビ番組は、NHK教育の「2355」と「デザインあ」なのは皆様におかれましても周知の通りと存じますが、「デザインあ」の「まるとしかく」という歌がとてもよくて。
自然のもので、直線がないという話はよく聞くけれど、まるとしかくを比較すると断然、まるってすごいなと思う。ひっかかりがありません。
かたちとしてとても美しく完成されていて一番バランスがいい。まあ星がことごとくまるいのもその証左。シャボン玉然り。水滴然り。
で、ぼんやり、まるとしかく、って思ってて、なんで「まる」は、コレクトの意味をもってるんだろうなと。
なんで「さんかく」や「バツ」や「しかく」ではなく、「まる」なんだろう。
そしてなんで、文章の締めは「まる」なんだろう。
しかし、脱線するけど、日本語の「まる」っていうのはほんとあの○ってかたちをよく捉えた単語で日本語のセンスほんと素晴らしいなと日本人の私は思います。サークルじゃないよ、まるだよあれは。
まず前者の疑問ですけど、コレクトの意味がなぜ「まる」という記号によって表されるか。
おそらく、まるというかたちがそれを保護するようにみえる、またはそれを遮らないようにみえる、ということなのじゃないかしら。逆に「バツ」はそれを遮り、切り捨てているように見える。だから、あってるよ、その答えを大事にしてね、という意味でコレクトの意味はまるが担っている。多分。
で、後者の疑問、文章の最後はなぜ「まる」か。
やっぱり、「まる」って完成形なんだと思うんですよね。完結。どこにもいけない感じ。
まあ黒い点でもいいんだけど、あの、欧米の、ピリオドっていうやつ、あれだと、汚れかなー?って思っちゃうもんね。だからわざわざその次の文頭を大文字にして、そこで終わってるよ!って強調しないといけないんだよね。(あの作法は特に意味がある気がしない。)
なんだか妹みたいなエントリになってきた。
最近の音楽状況は、
・ソニーくんからいつかもらったTycho新譜出ました
・Efterklang
・坂本慎太郎(ゆら帝の人)新譜
・ASA-CHANG&巡礼
・lycoriscoris(moph)のアルバム・・・聴きやすいノイズ系。Shuta Hasunumaより聴きやすい。
気になっているのはAudi A1のCMとその曲。
曲は Lobegrinder/Boreta とのこと。
ウーハンって武漢なのな。最近中国語やってます。中国語の先生の発音かわいいです。あるです、って言います。
今一番見るべきテレビ番組は、NHK教育の「2355」と「デザインあ」なのは皆様におかれましても周知の通りと存じますが、「デザインあ」の「まるとしかく」という歌がとてもよくて。
自然のもので、直線がないという話はよく聞くけれど、まるとしかくを比較すると断然、まるってすごいなと思う。ひっかかりがありません。
かたちとしてとても美しく完成されていて一番バランスがいい。まあ星がことごとくまるいのもその証左。シャボン玉然り。水滴然り。
で、ぼんやり、まるとしかく、って思ってて、なんで「まる」は、コレクトの意味をもってるんだろうなと。
なんで「さんかく」や「バツ」や「しかく」ではなく、「まる」なんだろう。
そしてなんで、文章の締めは「まる」なんだろう。
しかし、脱線するけど、日本語の「まる」っていうのはほんとあの○ってかたちをよく捉えた単語で日本語のセンスほんと素晴らしいなと日本人の私は思います。サークルじゃないよ、まるだよあれは。
まず前者の疑問ですけど、コレクトの意味がなぜ「まる」という記号によって表されるか。
おそらく、まるというかたちがそれを保護するようにみえる、またはそれを遮らないようにみえる、ということなのじゃないかしら。逆に「バツ」はそれを遮り、切り捨てているように見える。だから、あってるよ、その答えを大事にしてね、という意味でコレクトの意味はまるが担っている。多分。
で、後者の疑問、文章の最後はなぜ「まる」か。
やっぱり、「まる」って完成形なんだと思うんですよね。完結。どこにもいけない感じ。
まあ黒い点でもいいんだけど、あの、欧米の、ピリオドっていうやつ、あれだと、汚れかなー?って思っちゃうもんね。だからわざわざその次の文頭を大文字にして、そこで終わってるよ!って強調しないといけないんだよね。(あの作法は特に意味がある気がしない。)
なんだか妹みたいなエントリになってきた。
最近の音楽状況は、
・ソニーくんからいつかもらったTycho新譜出ました
・Efterklang
・坂本慎太郎(ゆら帝の人)新譜
・ASA-CHANG&巡礼
・lycoriscoris(moph)のアルバム・・・聴きやすいノイズ系。Shuta Hasunumaより聴きやすい。
気になっているのはAudi A1のCMとその曲。
曲は Lobegrinder/Boreta とのこと。
November 3, 2011
flatspin
先日おーん宅人さんことちあこさん、とお会いした。
とても落ち着いていてやわらかくてしっとりした知的な話し方をする方で。
笑顔がきらきらしていた。お姉さんのはずなのに私の方がどぎまぎしていたような。
緑色のサイトの時に、LARKがあったから、実は結構ロックというか、ハスキーな感じの雰囲気を想像していた。
というか、もしかしたら中身はロックでハスキーなのかもしれないけれど、しっとりしてるところが大人だなーと思ったり。うっとりするような声です。
Web上での知り合いと会うことに、いくら私とはいえある程度のハードルはあるのだけれど、年々それがフラットになってきたような気がする。学校の友だち、会社の人、地元の人、Webの人、みたいな一つの括りではあれど、それらの間の差異は別に無いというか。どの括りでも、そこでの顔ってちょっとずつ違うと思うのだ、そこでのポジションってあるし。そういうのを他のコミュニティの人に見られるのがちょっとはずかしいのはどれも同じで。もし顔が見えてないっていう違いがあるなら、会っちゃえば解消されてしまうわけで。
そうやってどんどんフラットになって、重力も無くなって、どっちが上か下かわかんなくなればいい。
あ、Twitterにつぶやこ。
この土日、本棚が来て、やっとダンボールから諸々の本を詰め込んでいたのだけれど、旦那さんの買った「思想地図β」の冒頭で、東浩紀が書いていた。
これだけの格差社会になってなお「新しい連帯」を創りだすということが、ネットカルチャーでできるのではないか、できつつあるのではないか、という思想、試み。
ただ、彼はこの震災が、現実の格差というものを見せつけ、我々を再びばらばらにしてしまった、又は既にばらばらであったことを震災が明らかにしてしまったと語る。逃げることができる人とできない人。
Webとはいえ広い海で。荒波のところもあれば澄んで凪いだ場所もあるし、あたたかくて暮らしやすい場所もあれば寒くて荒んだところもあろう。縄張りみたいなものもあるかもしれない。ネットに絡み取られるのを振りきって泳ぎ出す人もいよう。
Web上のすべての場所が呼吸のしやすい場所だとは言わないけれど。
それでも私たちをフラットに無重力に、その気になればどんどんふわふわ飛びまわれる気分にさせてくれる。少なくとも物理的なこのフィールドよりは。
私はそのフラットさを良しとしたい。
人間ひとりひとり、その人をまっすぐ見て、大切にする土壌。
とても落ち着いていてやわらかくてしっとりした知的な話し方をする方で。
笑顔がきらきらしていた。お姉さんのはずなのに私の方がどぎまぎしていたような。
緑色のサイトの時に、LARKがあったから、実は結構ロックというか、ハスキーな感じの雰囲気を想像していた。
というか、もしかしたら中身はロックでハスキーなのかもしれないけれど、しっとりしてるところが大人だなーと思ったり。うっとりするような声です。
Web上での知り合いと会うことに、いくら私とはいえある程度のハードルはあるのだけれど、年々それがフラットになってきたような気がする。学校の友だち、会社の人、地元の人、Webの人、みたいな一つの括りではあれど、それらの間の差異は別に無いというか。どの括りでも、そこでの顔ってちょっとずつ違うと思うのだ、そこでのポジションってあるし。そういうのを他のコミュニティの人に見られるのがちょっとはずかしいのはどれも同じで。もし顔が見えてないっていう違いがあるなら、会っちゃえば解消されてしまうわけで。
そうやってどんどんフラットになって、重力も無くなって、どっちが上か下かわかんなくなればいい。
あ、Twitterにつぶやこ。
この土日、本棚が来て、やっとダンボールから諸々の本を詰め込んでいたのだけれど、旦那さんの買った「思想地図β」の冒頭で、東浩紀が書いていた。
これだけの格差社会になってなお「新しい連帯」を創りだすということが、ネットカルチャーでできるのではないか、できつつあるのではないか、という思想、試み。
ただ、彼はこの震災が、現実の格差というものを見せつけ、我々を再びばらばらにしてしまった、又は既にばらばらであったことを震災が明らかにしてしまったと語る。逃げることができる人とできない人。
Webとはいえ広い海で。荒波のところもあれば澄んで凪いだ場所もあるし、あたたかくて暮らしやすい場所もあれば寒くて荒んだところもあろう。縄張りみたいなものもあるかもしれない。ネットに絡み取られるのを振りきって泳ぎ出す人もいよう。
Web上のすべての場所が呼吸のしやすい場所だとは言わないけれど。
それでも私たちをフラットに無重力に、その気になればどんどんふわふわ飛びまわれる気分にさせてくれる。少なくとも物理的なこのフィールドよりは。
私はそのフラットさを良しとしたい。
人間ひとりひとり、その人をまっすぐ見て、大切にする土壌。
November 1, 2011
0
「2001年宇宙の旅」を観た。
一度後半部分だけ観ていたのだけれど、途中のすっ飛び方がすごくて別の映画の記憶だと思っていた。
まあとにかく衝撃的で、あらゆる場面で何かを連想するのは、逆にこれを起点にしていろんな作品へあちらこちらでふくらんでいったということなんだろう。
シュルレアリスムであり、オールドファッションであり、新しく、普遍であり、アンビエントであり、クラシックであり、光であり、有であった。
リヒャルト・シュトラウスであり、ドナウであった。
そうして連綿と続く人類の、というか世界の様子を見ていて、つながっているという法則についてふと思った。
私たちは、経験的に、無から有は生まれないと思っている。
何かすごいものがあったら、何から作られているのだろうと考える。元々はどうだったのか、どう加工してこれができたのか。
私達もぽっと出たわけではなくて、別の人間からつながっていろんな加工をされて今ここにある。そういうの、結構忘れているけれど。
よく宇宙の起源という話になって、ビッグバンとかなんとかで誕生したよ、って言うけれど、そもそも最初は無だったっていうアイディアはどこから来るのだろう。というか、そういう批判なしにこのアイディアは割とすんなり容認されているように思う。
無は、実際にはイメージできない。というか、有しか認識できず、有という状態と相対して無があるというような観念が生まれるわけで、本当の無というのを体験はおろか想像もできないはずなのに、一番はじめは無だったのだ、と思うのは何故だろう。
そして、仏教や他の宗教でも、無へ向かうのはなんなんだろう。頭をからっぽにする、とか、無我の境地に達するとか。そしてそれは起源に戻るという意味を持つ気がする。
座標軸でも起点は0だしな。
0を中心にすると収まりがいいのかもしれない。
プラスとマイナス、陰と陽、ネガティブとポジティブ、オフェンシブとディフェンシブ、両極があり、けれど「両極」とは言うもののそれに限界はなくて、いくらでも振れ幅が大きくなってしまう。膨張してしまう。
つまり、ニュートラルな意味としての0。
そしたら、宇宙の反対の極に別の同じだけの宇宙があるのかもしれない。宇宙と呼びうるのかどうかは知らないけれど。∞こういう形っていうもんね、宇宙。
それにしても、始まりが無であるというアイディア。
この世界は、経験則で動いている。いつか新書に「99%は仮説」みたいな本があったけれど。
物から手を離したら下に落ちる、とか、物体を早く動かすと空気抵抗が生まれて浮力が生じる、とか。これは、「なんでそうなるか」ということではなくて、「そういうもんだから」という理由しかない。引力があるから、地球の核に質量の大きいものがあるから、とかいう理由はあれど、なぜ質量が大きいと重力が生じるのか、とか、つきつめていけば「そういうもんだから」としか言いようがないし、それ以上言う必要もそんなにない。
なぜ私はここに在るのか、とか、そういった話もまた同じで。
なぜ今此処にこの細胞の集合体であるところの私が存在するのか、どのような法則でここにこうして組織化されて一個体としての活動を営めているのか。
詳しいやり方は知らないけれど、なんかお腹すいたら食べて、眠くなったら寝て、起きてる時は動いてたら、何年間もこの細胞の集合体を維持できたなぁ、そういうもんなんだなぁ、っていう。
宮沢賢治が、「疾中」という詩の中でこう書いている。
-----------------
われやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則の外の何でもない
からだは骨や血や肉や
それらは結局さまざまの分子で
幾十種かの原子の結合
原子は結局真空の一体
外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたゝびわれと感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則のみ
-----------------
法則というものが確かにあるのである。それを経験によって知った場合に経験則というのである。
伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」では、登場人物の息子が自閉症で、それについて語られるシーンがちょいちょいある。
曰く、その子(タカシ君という)は、法則をうまく理解できないのだ、と。それで、人が覚えないような数字とか犬の種類とか、そういうものだけを抽出し、その中から法則をなんとか見つけて安心しようとしているのではないかと。
ふうん、と思う。
また散らかして。
一度後半部分だけ観ていたのだけれど、途中のすっ飛び方がすごくて別の映画の記憶だと思っていた。
まあとにかく衝撃的で、あらゆる場面で何かを連想するのは、逆にこれを起点にしていろんな作品へあちらこちらでふくらんでいったということなんだろう。
シュルレアリスムであり、オールドファッションであり、新しく、普遍であり、アンビエントであり、クラシックであり、光であり、有であった。
リヒャルト・シュトラウスであり、ドナウであった。
そうして連綿と続く人類の、というか世界の様子を見ていて、つながっているという法則についてふと思った。
私たちは、経験的に、無から有は生まれないと思っている。
何かすごいものがあったら、何から作られているのだろうと考える。元々はどうだったのか、どう加工してこれができたのか。
私達もぽっと出たわけではなくて、別の人間からつながっていろんな加工をされて今ここにある。そういうの、結構忘れているけれど。
よく宇宙の起源という話になって、ビッグバンとかなんとかで誕生したよ、って言うけれど、そもそも最初は無だったっていうアイディアはどこから来るのだろう。というか、そういう批判なしにこのアイディアは割とすんなり容認されているように思う。
無は、実際にはイメージできない。というか、有しか認識できず、有という状態と相対して無があるというような観念が生まれるわけで、本当の無というのを体験はおろか想像もできないはずなのに、一番はじめは無だったのだ、と思うのは何故だろう。
そして、仏教や他の宗教でも、無へ向かうのはなんなんだろう。頭をからっぽにする、とか、無我の境地に達するとか。そしてそれは起源に戻るという意味を持つ気がする。
座標軸でも起点は0だしな。
0を中心にすると収まりがいいのかもしれない。
プラスとマイナス、陰と陽、ネガティブとポジティブ、オフェンシブとディフェンシブ、両極があり、けれど「両極」とは言うもののそれに限界はなくて、いくらでも振れ幅が大きくなってしまう。膨張してしまう。
つまり、ニュートラルな意味としての0。
そしたら、宇宙の反対の極に別の同じだけの宇宙があるのかもしれない。宇宙と呼びうるのかどうかは知らないけれど。∞こういう形っていうもんね、宇宙。
それにしても、始まりが無であるというアイディア。
この世界は、経験則で動いている。いつか新書に「99%は仮説」みたいな本があったけれど。
物から手を離したら下に落ちる、とか、物体を早く動かすと空気抵抗が生まれて浮力が生じる、とか。これは、「なんでそうなるか」ということではなくて、「そういうもんだから」という理由しかない。引力があるから、地球の核に質量の大きいものがあるから、とかいう理由はあれど、なぜ質量が大きいと重力が生じるのか、とか、つきつめていけば「そういうもんだから」としか言いようがないし、それ以上言う必要もそんなにない。
なぜ私はここに在るのか、とか、そういった話もまた同じで。
なぜ今此処にこの細胞の集合体であるところの私が存在するのか、どのような法則でここにこうして組織化されて一個体としての活動を営めているのか。
詳しいやり方は知らないけれど、なんかお腹すいたら食べて、眠くなったら寝て、起きてる時は動いてたら、何年間もこの細胞の集合体を維持できたなぁ、そういうもんなんだなぁ、っていう。
宮沢賢治が、「疾中」という詩の中でこう書いている。
-----------------
われやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則の外の何でもない
からだは骨や血や肉や
それらは結局さまざまの分子で
幾十種かの原子の結合
原子は結局真空の一体
外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたゝびわれと感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則のみ
-----------------
法則というものが確かにあるのである。それを経験によって知った場合に経験則というのである。
伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」では、登場人物の息子が自閉症で、それについて語られるシーンがちょいちょいある。
曰く、その子(タカシ君という)は、法則をうまく理解できないのだ、と。それで、人が覚えないような数字とか犬の種類とか、そういうものだけを抽出し、その中から法則をなんとか見つけて安心しようとしているのではないかと。
ふうん、と思う。
また散らかして。
July 9, 2011
某都民
久々に、もうほぼ更新されてないと思って行っていなかったところのリンクを誤ってクリックしてしまい、そしたらあら、久々に見たら更新されていた。
うちみたいだけど。
私が多大なる影響を受けたブログ、「いけいけどんどん」である。
もうほんと、この人の思考の飛躍がつらつらと綴られる文章にはグッとくる。ひらりひらり。
ああ、こんな文章を書ける人がいるんだなあ、よかったなあ、と思う。
この手の文章は小説では読めない。新書でもない。つまり本では読めない。近いのはエッセイや評論だけれど、それでも体裁を整えてしまうのが商品。
テーマやストーリーの縛りが、その生きた思考をそのままに読み手には伝えてくれない。作りこまれたものも勿論素敵だけれど、いわゆる即興に溢れた、落としどころの特に決まっていない、まったく自由な、生の、有機的な、言葉たち。
わくわくする。ぼんやり思ったことがどんどんつながってその人の中にしか無い思考回路でふくらんでいく様。
例えば私の中の「有機的な」という言い回しは、どうしても会社法の時間にやった「事業」の意味ででてくる「有機的一体としての財産」から来ている。あと、江國香織の「海」の認識であるところの「有機的なにごり水」。
だから、私が「有機的に」とつかうときは、会社と海がイメージされている。
そんなの読み手には全くわからない。それを開示することもない。でもそういうのを整えず、赴くままに言い訳もせずにどんどんつなげていくのを見るのが、楽しい。まあ、私は。
そんなわけで、久々の原田氏節
「議論のセクシーさ」
色気は大事である。
私はいつか友人に、職務経歴書をレビューしてもらった際、「いいんだけどさ、色気がないね」と言われたことがある。ほんと、大人ってうまいこというわ。
うちみたいだけど。
私が多大なる影響を受けたブログ、「いけいけどんどん」である。
もうほんと、この人の思考の飛躍がつらつらと綴られる文章にはグッとくる。ひらりひらり。
ああ、こんな文章を書ける人がいるんだなあ、よかったなあ、と思う。
この手の文章は小説では読めない。新書でもない。つまり本では読めない。近いのはエッセイや評論だけれど、それでも体裁を整えてしまうのが商品。
テーマやストーリーの縛りが、その生きた思考をそのままに読み手には伝えてくれない。作りこまれたものも勿論素敵だけれど、いわゆる即興に溢れた、落としどころの特に決まっていない、まったく自由な、生の、有機的な、言葉たち。
わくわくする。ぼんやり思ったことがどんどんつながってその人の中にしか無い思考回路でふくらんでいく様。
例えば私の中の「有機的な」という言い回しは、どうしても会社法の時間にやった「事業」の意味ででてくる「有機的一体としての財産」から来ている。あと、江國香織の「海」の認識であるところの「有機的なにごり水」。
だから、私が「有機的に」とつかうときは、会社と海がイメージされている。
そんなの読み手には全くわからない。それを開示することもない。でもそういうのを整えず、赴くままに言い訳もせずにどんどんつなげていくのを見るのが、楽しい。まあ、私は。
そんなわけで、久々の原田氏節
「議論のセクシーさ」
色気は大事である。
私はいつか友人に、職務経歴書をレビューしてもらった際、「いいんだけどさ、色気がないね」と言われたことがある。ほんと、大人ってうまいこというわ。
July 7, 2011
書くということ
文章を書くということに飢えるという時期は確かにある。
その時はなにがなんでも書かなくては気がすまず、書くことがないときでさえ書くことがないということを書くのである。
その一方で、書くことに着地できない時というのもある。
そうだ、書くことはある意味着地なのだ。
でも、着地しないでいたい時もある。
書かなければ忘れてしまいそうなこと、しかし書いておき自分の軸に取り入れたいことを書き続けることによって、というかそういう行為それ自体を反復しているうちに、なんだかそういったことが身についてしまった。
身についたというのは、書いていることそのものというよりは書けなかったことも含め、行為とか時間とか思考することそれ自体とかが、血となり肉となったという感じ。だから、特に書かなくてもよくなってしまったのかもしれない。
同時に、あまり読まなくなった。読んでいるのは安吾の堕落論ばかり。
次のフェーズと言ってもいいのかもしれない。けれど、フェーズと言ってしまうことが今の自分にはしっくりこない。反発がある。反発があるようである。感情というより現象として。
名付けるということ、括るということ、軸で切るということ、それらが。今までそうやって世界をなんとかかんとか理解しようとしていたのに。発見をしては楽しくてそれを書きつけていたのに。
全てを放しておきたい、そうすることが自分を自由にするということな気がしている。
でも文章が好きなことに変わりはなくて。読んでいたいし書いていたい。それがアイデンティティのような気もしている。
その時はなにがなんでも書かなくては気がすまず、書くことがないときでさえ書くことがないということを書くのである。
その一方で、書くことに着地できない時というのもある。
そうだ、書くことはある意味着地なのだ。
でも、着地しないでいたい時もある。
書かなければ忘れてしまいそうなこと、しかし書いておき自分の軸に取り入れたいことを書き続けることによって、というかそういう行為それ自体を反復しているうちに、なんだかそういったことが身についてしまった。
身についたというのは、書いていることそのものというよりは書けなかったことも含め、行為とか時間とか思考することそれ自体とかが、血となり肉となったという感じ。だから、特に書かなくてもよくなってしまったのかもしれない。
同時に、あまり読まなくなった。読んでいるのは安吾の堕落論ばかり。
次のフェーズと言ってもいいのかもしれない。けれど、フェーズと言ってしまうことが今の自分にはしっくりこない。反発がある。反発があるようである。感情というより現象として。
名付けるということ、括るということ、軸で切るということ、それらが。今までそうやって世界をなんとかかんとか理解しようとしていたのに。発見をしては楽しくてそれを書きつけていたのに。
全てを放しておきたい、そうすることが自分を自由にするということな気がしている。
でも文章が好きなことに変わりはなくて。読んでいたいし書いていたい。それがアイデンティティのような気もしている。
July 6, 2011
近況など
今日はじめて、刀削麺というものを食した。
刀で削いだ麺である。はじめてなのに一人だったからきゃっきゃできなかったけど、すぐ前の卓に中国人、じょんぐおれん達がいたので、ちょっとときめいた。本場みたいじゃないか。どうして中国の人は坊主が伸びたみたいな髪型をしているのかしらと思いながら、パクチーと一緒に刀削麺をほおばった。
まあそんな感じですね、最近は。
晴れて試用期間が終了し正社員となり、まあ仕事内容などは変わらず、少しずつ別の範囲にもお呼ばれしつつルーティン。
先程テレビで、器の大きい、ということについて言っていた。
あなたは食事へ行ったときにメニューをすぐ決められますか、という質問で。
心理学者の人が、アメリカでいうキャパシティというのは、あることを決めずにずっと考えていられることなのだと言った。
だから即断即決したがるのは器が小さいと。即断即決をしたがる人は往々にして人にもそれを求めると。
だから決められないというのは、それを保留にしておける余裕がある人なのだという意味で器が大きいとか。まあ食事はあんまり関係ないと思うけど。
アメリカでは、というその話を鵜呑みにするとアメリカっていうのはほんとにわかりやすいなあと思う。日本では、たとえば「器が大きい」っていうのはこういうことだ、というのはすごくばくっとしている。それを決め打ちするというのはあんまりしない。どの単語に関してもそうな気がする。
九鬼周造という人が「いき」の構造という本を書いているけれど、それは「いき」つまり粋というのを詰めて分析し言葉を尽くし感覚に訴えなんとか一つの本で総体を捉えようとしたものである。3つの要素を挙げ、それについて説明を施し、できるだけその言葉の持つ空気を写し取ろうとしたものである。それでも一冊本書けちゃうのである。
端的な、というのを嫌うような気がする。それはつまり、取りこぼすのを嫌う、固まるのを嫌う、ということなのではないか、と思う。
誰かと何か仕事をしようとすれば、それは言葉をツールとして使わなければならないわけで、そのときには確定的に決めないと意思疎通をいう用をなさないわけだから、そりゃあちゃんと決めた方が効率はいいと思う。
けど日常的に、決めなければならないというのは、嫌がるような気がするのである。それこそ無粋というか。ばくっとしとけば対応できるじゃない、というような。
法律だって解釈でいろいろやるもんな。アメリカは判例でばしばしケースを要素化して決めていくけれど。
日本人は四角四面なんてイメージが少しあったりするけれど、全然フレキシブルだと思うよ。フレキシブルすぎて読めないのかもしれないよ。
全てを決める必要はないそしてどのみちそんなことできない
決めずに置いておくのはキャパシティが広いってことらしいし、いいんじゃないでしょうか。
しかしゆるいな。ぬるくゆるびもてゆけば、わろし。ってぬるいしゆるいし、って思ってた中学生の頃。
刀で削いだ麺である。はじめてなのに一人だったからきゃっきゃできなかったけど、すぐ前の卓に中国人、じょんぐおれん達がいたので、ちょっとときめいた。本場みたいじゃないか。どうして中国の人は坊主が伸びたみたいな髪型をしているのかしらと思いながら、パクチーと一緒に刀削麺をほおばった。
まあそんな感じですね、最近は。
晴れて試用期間が終了し正社員となり、まあ仕事内容などは変わらず、少しずつ別の範囲にもお呼ばれしつつルーティン。
先程テレビで、器の大きい、ということについて言っていた。
あなたは食事へ行ったときにメニューをすぐ決められますか、という質問で。
心理学者の人が、アメリカでいうキャパシティというのは、あることを決めずにずっと考えていられることなのだと言った。
だから即断即決したがるのは器が小さいと。即断即決をしたがる人は往々にして人にもそれを求めると。
だから決められないというのは、それを保留にしておける余裕がある人なのだという意味で器が大きいとか。まあ食事はあんまり関係ないと思うけど。
アメリカでは、というその話を鵜呑みにするとアメリカっていうのはほんとにわかりやすいなあと思う。日本では、たとえば「器が大きい」っていうのはこういうことだ、というのはすごくばくっとしている。それを決め打ちするというのはあんまりしない。どの単語に関してもそうな気がする。
九鬼周造という人が「いき」の構造という本を書いているけれど、それは「いき」つまり粋というのを詰めて分析し言葉を尽くし感覚に訴えなんとか一つの本で総体を捉えようとしたものである。3つの要素を挙げ、それについて説明を施し、できるだけその言葉の持つ空気を写し取ろうとしたものである。それでも一冊本書けちゃうのである。
端的な、というのを嫌うような気がする。それはつまり、取りこぼすのを嫌う、固まるのを嫌う、ということなのではないか、と思う。
誰かと何か仕事をしようとすれば、それは言葉をツールとして使わなければならないわけで、そのときには確定的に決めないと意思疎通をいう用をなさないわけだから、そりゃあちゃんと決めた方が効率はいいと思う。
けど日常的に、決めなければならないというのは、嫌がるような気がするのである。それこそ無粋というか。ばくっとしとけば対応できるじゃない、というような。
法律だって解釈でいろいろやるもんな。アメリカは判例でばしばしケースを要素化して決めていくけれど。
日本人は四角四面なんてイメージが少しあったりするけれど、全然フレキシブルだと思うよ。フレキシブルすぎて読めないのかもしれないよ。
全てを決める必要はないそしてどのみちそんなことできない
決めずに置いておくのはキャパシティが広いってことらしいし、いいんじゃないでしょうか。
しかしゆるいな。ぬるくゆるびもてゆけば、わろし。ってぬるいしゆるいし、って思ってた中学生の頃。
June 10, 2011
つつがなく
つつがなく日々は過ぎてゆきます。ただ、いっさいは。
新しい環境で、新しい生活で、周りにいる人は全て今までと違っていて、それでもまったく断絶を感じないのはやっぱりソーシャルなネットワークがワールドワイドで広がってくれているからであり、バングラにいる友人だって、京都にいる妹だって、東京にいる同期たちだって、フラットな世界に、オンタイムでコミュニケートできるこの世界。
流れに身をまかせるということに疑問を抱かず、でも任せているということは意識していて、それがなんだかメタで、「メタって何?」「メタって何って何?」っていうツイートを思い出し、出勤の時や一人お昼の時にはタワレコでめっちゃPushされているJames Blakeを聴き、俯瞰の視点を主体としての視点と併存させながら。曇の日のオープンカフェや、きっと夜の台場に合う。
この間、高校の友人に会った、9年ぶりくらいに。
あたりまえだけど大人になっていて、あたりまえだけど変わらなかった。
何もかもあたりまえだと片付けることの違和感を感じては巡り巡ってここまできたなー。
ロジックなんて全然正確ではないし、正確であることに意味なんて無い。意味の意味を議論することの意味もまた無い。でも、意味があると思うことにだって意味がある。
今、「意味」と「価値」を置き換えても大丈夫な気がして、意味と価値は等価なのかと、同義なのかと、これもまたループだ。全部つながってんだ。
友人は元気で、美味しいお店をいっぱい知っていて、違う世界の住人のようで、でも通じ合える何かも感じた。よかった。
最近、松本大洋の「日本の兄弟」という短編集を買った。あの人はほんとに。初期の作品なのか、ロック風味が強い。
世界が計り知れなくて、訳がわからなくて、雲をつかもうとしているってことがメタな視点でわかっている人をartな人と呼ぶのならば。松本大洋然り、ゆら帝然り。はて人間は?
ピンポンも、鉄コンも、名作だった。鉄コンに関しては、もうほとんど完璧に映像化していて、マイケル・アリアスの作品へのシンクロに感心しきりなので、見たほうがいいと思う。あと、読むのも良いと思う。アニメのくせに結構バイオレンスだけど。
松本大洋の絵は、瞬間瞬間を印象的に切り取っている。単なる絵なのではなく、映像の中で効果的に静止する画面、のイメージ。動的なもののはずなのに、何故かその時だけ時間が止まる、というような。
漫画を読んでいるのに、映画を観ているような。
それは映像にしてしまうと、生きないところではある。
で、アジカン聴いちゃっている今。アジカンは、いつ聴いてもどの曲聴いても青春の音がする。青春ってこんな音だったんだなあと思う。それもすごいし、いつまでも青春の曲をつくれるのもすごい。
まとまんないけど、自分の文章なんてこんなもんだな、多分。
新しい環境で、新しい生活で、周りにいる人は全て今までと違っていて、それでもまったく断絶を感じないのはやっぱりソーシャルなネットワークがワールドワイドで広がってくれているからであり、バングラにいる友人だって、京都にいる妹だって、東京にいる同期たちだって、フラットな世界に、オンタイムでコミュニケートできるこの世界。
流れに身をまかせるということに疑問を抱かず、でも任せているということは意識していて、それがなんだかメタで、「メタって何?」「メタって何って何?」っていうツイートを思い出し、出勤の時や一人お昼の時にはタワレコでめっちゃPushされているJames Blakeを聴き、俯瞰の視点を主体としての視点と併存させながら。曇の日のオープンカフェや、きっと夜の台場に合う。
この間、高校の友人に会った、9年ぶりくらいに。
あたりまえだけど大人になっていて、あたりまえだけど変わらなかった。
何もかもあたりまえだと片付けることの違和感を感じては巡り巡ってここまできたなー。
ロジックなんて全然正確ではないし、正確であることに意味なんて無い。意味の意味を議論することの意味もまた無い。でも、意味があると思うことにだって意味がある。
今、「意味」と「価値」を置き換えても大丈夫な気がして、意味と価値は等価なのかと、同義なのかと、これもまたループだ。全部つながってんだ。
友人は元気で、美味しいお店をいっぱい知っていて、違う世界の住人のようで、でも通じ合える何かも感じた。よかった。
最近、松本大洋の「日本の兄弟」という短編集を買った。あの人はほんとに。初期の作品なのか、ロック風味が強い。
世界が計り知れなくて、訳がわからなくて、雲をつかもうとしているってことがメタな視点でわかっている人をartな人と呼ぶのならば。松本大洋然り、ゆら帝然り。はて人間は?
ピンポンも、鉄コンも、名作だった。鉄コンに関しては、もうほとんど完璧に映像化していて、マイケル・アリアスの作品へのシンクロに感心しきりなので、見たほうがいいと思う。あと、読むのも良いと思う。アニメのくせに結構バイオレンスだけど。
松本大洋の絵は、瞬間瞬間を印象的に切り取っている。単なる絵なのではなく、映像の中で効果的に静止する画面、のイメージ。動的なもののはずなのに、何故かその時だけ時間が止まる、というような。
漫画を読んでいるのに、映画を観ているような。
それは映像にしてしまうと、生きないところではある。
で、アジカン聴いちゃっている今。アジカンは、いつ聴いてもどの曲聴いても青春の音がする。青春ってこんな音だったんだなあと思う。それもすごいし、いつまでも青春の曲をつくれるのもすごい。
まとまんないけど、自分の文章なんてこんなもんだな、多分。
May 12, 2011
近況
横浜の5連勝には驚かざるをえないわけだが、別に嫌なわけではない。巨人を負かしたとしても勿論。
むしろうれしい。横浜の監督が尾花だから(巨人の元ピッチングコーチ)とか、細山田(早稲田出身)がいるとか、まあそういうのはあるけれど、いやーいいね。
言葉が孤独から出てくるものだというのはわかっていたけれど。
孤独であることを埋めるように、バランスを取るために言葉を紡ぎ、繰り出していく。その糸を巻き取ることもせず、ただ並べていたのがこのブログやその前のものやいろいろなわけである。そうして、私はこういったweb上のスペース以外でこういう散文を書くことがないことを考え合わせると、なおのこと孤独であることとのバランスのためにここに書いていたのだということを思う。ひとつは。
誰かと完全に分かり合いたいのにできないフラストレーションは大人になると諦念になり、それをしかし押し殺すことはできずにここで自分をつむぐのである。もしかしたら断片でも共感する人がいてくれるかもしれないと。
そんなフラストレーションも今や。
今起きていることを分析するのは私のくせだったのに、今や混沌の中で自分の空間を確保できていればよしとするようになった。混沌の中に身を置き、混沌を混沌のまま受け容れること、整理しようとしたり分析しようとしたりせずにもやもや浮かぶこと。そういうのを今無意識にやっているところは子どもに戻ったみたいだなと思う。無為。
こうして記録をつけないのはつまり記録に空白をつくることで、それはいつかの自分にとっては勿体無いことに映るだろうし、何があったのかもどかしく思うかもしれないが、いつかの自分と共有することすら忘れていた。
そういった意味で、書かないということは、自由であるかもしれない。
まあ自分のことだから、分かってくれるんじゃないかしら。
むしろうれしい。横浜の監督が尾花だから(巨人の元ピッチングコーチ)とか、細山田(早稲田出身)がいるとか、まあそういうのはあるけれど、いやーいいね。
言葉が孤独から出てくるものだというのはわかっていたけれど。
孤独であることを埋めるように、バランスを取るために言葉を紡ぎ、繰り出していく。その糸を巻き取ることもせず、ただ並べていたのがこのブログやその前のものやいろいろなわけである。そうして、私はこういったweb上のスペース以外でこういう散文を書くことがないことを考え合わせると、なおのこと孤独であることとのバランスのためにここに書いていたのだということを思う。ひとつは。
誰かと完全に分かり合いたいのにできないフラストレーションは大人になると諦念になり、それをしかし押し殺すことはできずにここで自分をつむぐのである。もしかしたら断片でも共感する人がいてくれるかもしれないと。
そんなフラストレーションも今や。
今起きていることを分析するのは私のくせだったのに、今や混沌の中で自分の空間を確保できていればよしとするようになった。混沌の中に身を置き、混沌を混沌のまま受け容れること、整理しようとしたり分析しようとしたりせずにもやもや浮かぶこと。そういうのを今無意識にやっているところは子どもに戻ったみたいだなと思う。無為。
こうして記録をつけないのはつまり記録に空白をつくることで、それはいつかの自分にとっては勿体無いことに映るだろうし、何があったのかもどかしく思うかもしれないが、いつかの自分と共有することすら忘れていた。
そういった意味で、書かないということは、自由であるかもしれない。
まあ自分のことだから、分かってくれるんじゃないかしら。
April 24, 2011
WORK
ご無沙汰しております。
4月から横浜で事務の仕事をしています。
そういうわけで、なかなかブログを更新するというところまで手が回らない感じで。
新しい職場は出来る人ばっかりで、就業時間中ものすごく働いて定時でサクっと帰っていく、会社的にはすごくコスパいいんじゃないかなという人達。
やb超クール。
で、事務方ということも手伝ってか、主婦が多い。仕事に全てをかけていない感じがする。家に帰ったらやることがあって、大切なものもあって、この仕事が生きがいというわけではない、みたいな。仕事に生き方を規定されていないというか。とてもさっぱりしている。大人だなーと思う。お昼で出る話も、仕事のことより家庭の話。
飲食店バイトをやっていた時も思っていたけれど、いわゆる上流の高給取りではない、事務方や接客というか末端や現場の人達の中には、すごく有能な人というのが驚くほどいると思う。特にスピードや的確さが必要とされる部門で。
なんでそんな大量のもの一気に捌けてるの、とか、なんで同時に10個のテーブルの注文コースとその進み具合把握してるの、とか。
上部の方で経営とはなんぞや、戦略がどうだ、というのも勿論必要だし大事な仕事なのだけれど、結局それを形にするのは現場だし、顧客と接するのもその人達で。一番その会社とかお店への評価を左右してるのは現場の人達だよなあと思う。そういうのについて、どっちの仕事がすごいとか、どっちの仕事をやっているから偉いとかいうのはものすごくナンセンスだよなあと改めて思う次第。寧ろ薄給なのに現場でサクサクやってる人のほうが良心的だなとすら思う。
いや、でも上流の方の仕事はメンタルの部分を仕事に差し出している気もするので大変だよねと思ったり。
ほんと、一概には言えない。
「何者でもない」というのは、ある時点では心もとないことだった。情けないことだった。
けど、ある時点からそれは「自由」になった。
今みたいに会社に属してからも、やはり自分の意識の中では「何者でもない」んだろうと思う。ひとりの人間。一個のたましい。その範囲でやれることをやりたい。
でもあえて、「何者かである」ことを選択した人達も知っている。
社会的な何か事を成そうとするなら、その名を担保にしなければならない。のかもしれない。
何者かになるというのはそういうことであろうと思う。
4月から横浜で事務の仕事をしています。
そういうわけで、なかなかブログを更新するというところまで手が回らない感じで。
新しい職場は出来る人ばっかりで、就業時間中ものすごく働いて定時でサクっと帰っていく、会社的にはすごくコスパいいんじゃないかなという人達。
やb超クール。
で、事務方ということも手伝ってか、主婦が多い。仕事に全てをかけていない感じがする。家に帰ったらやることがあって、大切なものもあって、この仕事が生きがいというわけではない、みたいな。仕事に生き方を規定されていないというか。とてもさっぱりしている。大人だなーと思う。お昼で出る話も、仕事のことより家庭の話。
飲食店バイトをやっていた時も思っていたけれど、いわゆる上流の高給取りではない、事務方や接客というか末端や現場の人達の中には、すごく有能な人というのが驚くほどいると思う。特にスピードや的確さが必要とされる部門で。
なんでそんな大量のもの一気に捌けてるの、とか、なんで同時に10個のテーブルの注文コースとその進み具合把握してるの、とか。
上部の方で経営とはなんぞや、戦略がどうだ、というのも勿論必要だし大事な仕事なのだけれど、結局それを形にするのは現場だし、顧客と接するのもその人達で。一番その会社とかお店への評価を左右してるのは現場の人達だよなあと思う。そういうのについて、どっちの仕事がすごいとか、どっちの仕事をやっているから偉いとかいうのはものすごくナンセンスだよなあと改めて思う次第。寧ろ薄給なのに現場でサクサクやってる人のほうが良心的だなとすら思う。
いや、でも上流の方の仕事はメンタルの部分を仕事に差し出している気もするので大変だよねと思ったり。
ほんと、一概には言えない。
「何者でもない」というのは、ある時点では心もとないことだった。情けないことだった。
けど、ある時点からそれは「自由」になった。
今みたいに会社に属してからも、やはり自分の意識の中では「何者でもない」んだろうと思う。ひとりの人間。一個のたましい。その範囲でやれることをやりたい。
でもあえて、「何者かである」ことを選択した人達も知っている。
社会的な何か事を成そうとするなら、その名を担保にしなければならない。のかもしれない。
何者かになるというのはそういうことであろうと思う。
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