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December 20, 2014

じっと手を見る

できることとできないことがあるのはその通りだとして、でもそれを分ける線はいつも流動的だと覚えていたいと、思った。

できないことは今できないけど、いつかできるかもしれない。ひとりではできないかもしれないけど、二人や三人やあるいは十人ならできるかもしれない。

自分がどういう風に生きていきたいのか、最近よく考える。
今の生活がしあわせだと思う。でも、少し停滞している。そして、自分だけしあわせでいいのかとも思う。
ただ、今自分の体力的リソースを割とギリギリで回しているとも思う。
(タイムリーにも最近2人の別々の女性の先輩から、体力をつけることの大事さを示されたところだ。)

自分が立っている場所は、多分今立っていていい場所なのだと思うけど、立っているべき場所なのかはよくわからない。
人はひとところにずっと立っていられるわけではないし、最近手相を見られた結果、波瀾万丈な運命線が濃いとの指摘なのだし、誰しもいずれは歩かざるを得ないわけだけど。
そういう風が吹くときは、そういうふうになるんだろう。

昨日ある人の肩に右手を置いて、その人の人生を思って、神様のことを考えた。
帰る道々、何度か右手を見た。
肩に手を置くことしかできなかったし、もしかしたら手を置くことすらできなかったかもしれない。
でも沖縄にいた頃より、私の手は割としっかりした手になっていると思った。

September 11, 2011

原っぱに神様

気がつけばニヶ月更新無しであった。
何かとタフな2ヶ月でした。

ついったーなりFBなりで近況などは少しずつ書いていたものの。

一つ大きかったのは、レイ・ハラカミの逝去であった。
これまで有名人の誰かが死んで泣いたことなど無かったのに、ハラカミおじさんの逝去はこたえた。彼の音楽がやさしすぎて、なつかしすぎて、素直に泣けてしまった。ハラカミおじさんのつくる音が好きだった。とても。

最初に聴いたのは、くるりの「ばらの花」リミックス。これは「ワールズエンド・スーパーノヴァ」のB面に収録されていて、くるりもハラカミおじさんも初めて聴いたというごく個人的にエポックメイキングな一枚なのだけど、あたたかな電子音があることを初めて知った曲で。
以下は聴きながらどうぞ。


その後何かの拍子で出かけた未来館のドームシアターガイア、プラネタリウムプログラムの「暗やみの色」が、ハラカミおじさんの曲に触れた二度目の体験で、ああこれは宇宙の音だったのかと思った。
聴いてるだけでわだかまりが溶けて小さくなっていくような、かなしいようなあたたかいような、独りだけど、独りじゃないような、なんかもう全部わかっちゃったような音楽だと思った。
Ustなんかでゆるーい番組を一度だけやって、タブラ奏者のユザーンとのやりとりが面白くて。
これからもたくさん音を作って、誰かの音と絡ませて、たくさんの心を喜ばせるのだと思っていた。

二度と流さないはずだったUstが流れた。未来館ではハラカミおじさんを偲んで「暗やみの色」再上映が9月の間中行われることになった。それで、観に行った。
原田郁子の朗読に、ハラカミおじさんの音に、谷川俊太郎の詩という。
もう諳んじることができそうなくらい、その詩を聴いていたけれど(CDを持っているので)、ハラカミおじさんの逝去にあたってこの詩を聴いていたら涙が出てきた。



  『闇は光の母』    作・谷川俊太郎

  闇がなければ光はなかった
  闇は光の母

  光がなければ眼はなかった
  眼は光の子ども

  眼に見えるものが隠している
  眼に見えぬもの

  人間は母の胎内の闇から生まれ
  ふるさとの闇へと帰ってゆく

  つかの間の光によって
  世界の限りない美しさを知り

  こころとからだにひそむ宇宙を
  眼が休む夜に夢見る

  いつ始まったのか私たちは
  誰が始めたのかすべてを

  その謎に迫ろうとして眼は
  見えぬものを見るすべてを探る

  ダークマター
  眼に見えず耳に聞こえず

  しかもずっしりと伝わってくる
  重々しい気配のようなもの

  そこから今もなお
  生まれ続けているものがある

  闇は無ではない
  闇は私たちを愛している

  光を孕み光を育む闇の
  その愛を恐れてはならない


つかの間の光のなかに、おそらくは闇の中から掴みとったあたたかな音を広げてくれ、そうして闇の元へ還っていったのかしらと。
かなしいというより、さびしい。
この音を作った人が、この音の中へ入り込んでしまって戻ってこなくなった。でもその音を聞けばその人を感じられる。この音がもっと特別になった。
そういう感じ。

泣くのに理由など無いのだ。空の雲を見ていても、風に吹かれていても、泣くことはある。そういう自分の感性を無視しなくたっていい。きっと根源的に、プリミティブな部分で反応しているだけなのだと思う。
泣こうとする必要も、また無い。

July 9, 2011

某都民

久々に、もうほぼ更新されてないと思って行っていなかったところのリンクを誤ってクリックしてしまい、そしたらあら、久々に見たら更新されていた。
うちみたいだけど。

私が多大なる影響を受けたブログ、「いけいけどんどん」である。
もうほんと、この人の思考の飛躍がつらつらと綴られる文章にはグッとくる。ひらりひらり。
ああ、こんな文章を書ける人がいるんだなあ、よかったなあ、と思う。

この手の文章は小説では読めない。新書でもない。つまり本では読めない。近いのはエッセイや評論だけれど、それでも体裁を整えてしまうのが商品。
テーマやストーリーの縛りが、その生きた思考をそのままに読み手には伝えてくれない。作りこまれたものも勿論素敵だけれど、いわゆる即興に溢れた、落としどころの特に決まっていない、まったく自由な、生の、有機的な、言葉たち。
わくわくする。ぼんやり思ったことがどんどんつながってその人の中にしか無い思考回路でふくらんでいく様。

例えば私の中の「有機的な」という言い回しは、どうしても会社法の時間にやった「事業」の意味ででてくる「有機的一体としての財産」から来ている。あと、江國香織の「海」の認識であるところの「有機的なにごり水」。
だから、私が「有機的に」とつかうときは、会社と海がイメージされている。
そんなの読み手には全くわからない。それを開示することもない。でもそういうのを整えず、赴くままに言い訳もせずにどんどんつなげていくのを見るのが、楽しい。まあ、私は。
そんなわけで、久々の原田氏節
「議論のセクシーさ」

色気は大事である。
私はいつか友人に、職務経歴書をレビューしてもらった際、「いいんだけどさ、色気がないね」と言われたことがある。ほんと、大人ってうまいこというわ。

June 10, 2010

地の塩、世の光

私はクリスチャンホームで育ったので(厳密にはそうではないけどほぼ)、聖書の言葉がふっと浮かぶ瞬間というのがある。

「世の光、地の塩」

それがどこの箇所かというのはわからないのだけど、断片的に覚えているのだ。

前にも書いただろうか、そういうのを御言葉(みことば)とか聖句とか呼んでいて、そういった言葉がカレンダーの下の方とか、お手洗いの壁とか、階段の壁とか、いろんなところにかかっている環境で育ち、かつ毎週日曜は教会学校(子供用のお話会)へ行って聖書の中の話を紙芝居で知ったりした。
学校でいやな目に会った時には、母と一緒にその子のためにお祈りをしたし、また私が嘘をついてしまって苦しげに打ち明けた時も、母と一緒にお祈りをした。私は最初、なんで自分に意地悪をした子のためにお祈りするのかわからなかったけれど、じきに理解するようになった。
母曰く、つまり、イエスキリストは、自分には何の罪もなかったのに十字架につけられ、周囲の人に唾棄され、罵倒されて尚、「父よ、彼らをお許しください。彼らには何をしているのかがわからないのです」と天の父に祈った。そのおともだちが意地悪をすることは罪ゆえに、彼らがそれを許してもらえるように、祈るのだ、と(喧嘩ではなく、意地悪の類だ、念のため)。

そういう風に、私は育てられていて。

だから魂の部分で、私は人を許せるようにしたいし、どうせ生きるならいい感じに生きようと思っている。勿論私もまた大勢の人に許されながら生きている。
私に何かできるのならできるぶんしたいと思う。もしキリスト教の教義とか何かしらに納得がいかなくて決別ということになったとしても、そういう姿勢でいることは多分変わらなくて。しかしそれはもしかすると、本質的にはキリスト教が染み付いているということなのかもしれない。もしそうなのだとしたら、キリスト教は見事に私をそのような人間にすることに成功したということになる。
これは万が一独善であっても偽善ではない。そして大概は善だと思う。


生き方という面で好きな言葉がある。

「あなたの手に善を行う力があるとき、求めるものにそれを拒むな」箴言
「世の光、地の塩」マタイ福音書

後者は実際の記述は以下の通りである。
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味を取りもどせようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつれられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを升の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。」

どのような中であっても、あなたによいことができるのならそれをしなさい、ということ。
それはあなたにとってよいだけでなく、地の塩のように皆の舌を喜ばす。世が世であれば、ろうそくの灯りのように世界を照らす。

私たちはたまに、そういう光を見る。
雑踏の中で。電車の中で。帰り道で。お店で。

太宰の
「私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い。」
少し茶化しているけれど、芸術に光を感じているってことじゃないだろうか。彼が芸術で光を発したいということじゃなかろうか。まあ、おしること言ってはいるけれど。彼の理想とする芸術は、この意味でおしるこのようなものであったはずで、しかしそうではない現実を嘆じたものであると思う、この文章は。「弱者の糧」とタイトルがついている。

さて弱者とはなんじゃいな。


最近そんな言葉が浮かんだという話。
たまに母ともこういう話をする。
世の光となるような生き方をしたいものだねと。そういう意味では同士、というか、兄弟姉妹なわけだ。
キリスト教徒の中でも一応慎み深い教派だから、説教以外ではおおっぴらにはみんな言わないけれど。

最近になって、家のあちこちに御言葉があるという環境が、他ではないんだなと思うに至った。
一人暮らしの部屋にも私が英語で書かれた御言葉が添えられた浅井力也のポストカードを貼っていたのは無意識ではない。無いと落ち着かなかったのかもしれない。

最近、教会へ行っていない(気疲れするから)。それで、20数年来お世話になっている牧師先生から贈り物が届いて。
主の祈りのポストカードの裏に、先生のメッセージがあった。祈っていますと。
机に立てかける窓のような見開きの飾りのようなものの片面には鷲が2羽描かれており、もう一面には
「主を待ち望むものは新たに力を得 鷲のように翼をかって上ることができる。」(イザヤ40:31)
という言葉が英語で綴られていた。姉妹で素敵だねと言い合った。

受験のときも、いつのときも、こうやってそっと贈り物をくださる。御言葉を添えて。その言葉が一番力になると知っている。

こういう人を、地の塩、世の光と言うんだと思う。私はその方に光をみるわけだから。

December 23, 2009

ワセダ三畳青春期

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)/高野 秀行
読中。

面白い。早稲田に住んでなくともわからなくない。
三畳一間のアパートとはよく言ったものだけど、それだけじゃなくて、起こってるエピソードが面白い。
そして11年間そこに居つづけ、世界を旅し、7年間大学生をしていた筆者になんだか励まされる。

その本の話を少しすると、いつもの永い人は(なんかやたら沖縄にいるのだ)似たようなエピソードを語ってくれて。無断転載。


彼は、「衣食足りて礼節を知る」という言葉から、「住はもしやいらないんじゃねーの」的なことを思い、「俺は住を放棄する」と高らかに宣言し、賃貸借契約を解消してしまった。多分22歳くらいの時だ。
そしてしばらく公園とかファミレスで夜を明かしていたが、季節は冬、風邪を引き、さすがに「住は必要だ」と思うに至り、大学近くの不動産屋に入って「安いやつから順番に見せてくれ」と言った。
最初に連れて行かれたのは一階に老夫婦のいる下宿。一階部分は6畳。至近距離にねぎを刻むおばあさんがいて、不動産屋さんが「こんにちは」と言うも何故か完無視。二度言うも完無視。「今日はダメみたいです」という不動産屋さんをせきたて、二階に上がると、6部屋ある。つまり1部屋1畳。「1万6千円です」。それで、やめたらしい。
結局彼は4畳半の部屋に住んでいたが、風呂もなし、寒さが厳しいので暖房に光熱費がかかり、ある日銭湯代と光熱費を計算してみたら6万を超えており、それでなぜ世の人々が6万も7万もする部屋に住むのか実感をもって納得がいった、という話。
でも結局そこに2年住んでたという話。

それ本とかにできますね、と言うと、早稲田なんてそんな人いっぱいいるんだよ、との答え。確かにそんな気もする。私の周りにいなかっただけか。


あとはひどい先輩の話も聞いたがそれも面白かった。ひどかった。
麻雀やってて彼女を2時間待たせて、待ち合わせ場所に行ったが、もうパチンコの時間だったので彼女に「5千円貸して」と言ってすぐに立ち去ったとか、彼女の実家に住みついてぷらぷらしていたので彼女の父親が心配して職をあてがったところ、就職してすぐに彼女と別れるなど、あまりに自由すぎる。
それで私が嫌だと思っていたまちがって付き合ってしまった人も、そんなにひどくなかったのかなと思える次第。上を知るのはいいことだ。


それでなんだか楽しくなった。いい本です。

July 3, 2009

比嘉先生の覚書

小学校の頃、比嘉先生という先生がいた。

5年生の時の担任で、男の先生で、メガネをかけ、ずんぐりむっくりした体格で、字が汚く(書き順をたまに間違って生徒から指摘を受けた)、算数とサッカーが好きだった。
私はそれまで算数がそんなに好きじゃなかったのだけど、先生に出会ってから好きになった。先生のことが好きで、算数を好きになった部分も大きかったと思う。

先生は、少し粗雑な人だったけれどものすごく情に厚かった。


自分たちで計画を立てたらキャンプに連れてってやる、と、本当に休日返上で5人くらいの生徒をキャンプに連れて行ってくれた。2,3グループは行ったと思う。私たちは先生自慢の三菱パジェロに乗って、北部の芝生の生い茂ったキャンプ場で、テントを張り、薪をくべ、料理をし(たしか串焼き)、夜は懐中電灯片手にハブに気をつけながらおそるおそるトイレに行き、キャンプを楽しんだ。

放課後は学校の花壇の手入れをよくやっていた。男の先生は少ないので、小学校ではどうしても男の先生が力仕事を担うことになる。彼はこれを「作業」と言った。この「作業」、つまり土を運んだり、鉢やプランターを運んだりするのを手伝うと、たまに先生がジュースをおごってくれたり、食べ放題の焼肉に連れて行ってくれたりするのだった。

先生はまた、生徒を使うのがとても上手だった。生徒が自然に集まってくる人で、だんだん先生のマッサージ大会が毎日のように放課後開催されることになった。ある子は先生の腰を踏み(たまに日頃の恨みを込めて踏み)、ある子は肩を揉み、ある子は足の裏を踏む、といった具合に。
今考えると、よかったのかしらって思うけど(今だったら問題視されるかもしれない)、昔はゆるかったので、そういう具合だった。それに、子どもたちは先生が好きだったので、自然とそうしていたのだった。で、私はそこで指圧が得意になった(今もそのスキルは生きていて、家族に活用されている)。


たまに、学活の時間だろうか、箱の中身を当てるゲーム、的なものをやった。
クッキーか何かの空き箱の中に、いつも違うものが入っている。2,300円の安いものが多かった。
最初に先生が箱を振ってみる。その音が第1ヒントだ。「家にあるもの?」とか、「台所にあるもの?」とか、生徒が質問していって、最終的に分かった人が手を挙げて答えを言う。正解するとそれをもらえる。私も赤いチェックのなべつかみと、けろけろけろっぴの(!)ドアノブカバーをもらった覚えがある。なべつかみはまだ家にある。
これがやけに楽しくって、当てた日なんかは軽くヒーローで、もらったのはなべつかみなのにもうルンルンなのである。母に報告すると、喜んでくれたけど、なべつかみなのにそんなに嬉しいのかしら、という不思議そうな顔もしていた。


また、日記を書いて一人ずつ発表させる、というのがあった。
文才のある子や、面白い子なんかがこの時はヒーローだった。落とし方がうまい!っていう子がいて、その子の日記は評判だった。「あとはご想像にお任せします」とかいうのが少し流行った。


今思えばだけど、先生はいろんな子が活躍できるように、いろんな場を作ってくれていたんだなと思う。それと同時に、そのとき出来ない子へのフォローも忘れなかった。どこかの場面では必ず褒めた。それは子どもを一人ひとりじっくり見ていなければできないことだし、情熱がなければ出来ないことだろうと思う。子どもの目から見る限り、先生は心から楽しんで私たちに接してくれていたし、信頼してくれていた。こういうのを天職というのだろうなと思う。
もしかしたら、今まで出会ってきた先生たちの中で、一番影響を受けた、一番好きだった先生かもしれない。15年も前のことなのにこんなに覚えているなんて、結構驚きである。

そういえば、先生はグッピーが好きだった。家でたくさん水槽に飼っていて、ペット屋からかけあわせを頼まれるほどだったと言っていた。うちには水槽が沢山あって、母親がよくにやにや水槽を見ている俺を見て心配してるんだ、と言っていた。
また、先生は涙もろかった。ほたるの墓を観たときは誰より先に泣いた。冷やかすと、あれは悲しいだろ!と頭をはたかれたのを覚えている。

先生は、私たちのクラスを持ったあと、急に離島に転勤してしまった。先生が希望したらしく(それは先生らしい理由だったのだけど)、私たちはとても悲しかった。

卒業後も少し交流はあって、自分がその島で釣ったマグロのブロックを送ってくれたこともあった。ワイルド。
いつからか、連絡は途絶えてしまったのだけど。

今どこにいるのだろうな、と思っていたら、ちょっと前に新聞のwebサイトで名前を見かけた。まだ離島で教員をやっているみたいだ。いつか会いに行きたい。