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June 10, 2010

偽善について

深夜はいけない。つい書きすぎてしまう。

あと、深夜は言葉の選択がいい加減でだめだ。善など説明無しにつかうものではない。

独善、偽善、善という言葉を私は使ったのだけど。

善とは何ぞや。
これは以前書いたと思うのだが、見当たらないので一応書くと、最大多数の最大幸福である(私見)。何が善で何が悪かというのは、文化とか時代とかもはや個人レベルでそれぞれ違う。ある程度の共通性はあるのだけど。そうして、ある文化圏で善悪の基準とされているのが、最大多数の最大幸福なんじゃないかと思ったわけで。つまり多数決だな。
ただし、内心の自由がある以上は、何を善で悪だと思っていようと自由なわけである。
つまり多分主観的な善悪と、一般的な善悪があるのだろうと。思っている。

そして前のエントリで私は全くそれらに触れることなくあっさりと不用意に善という言葉を使ってしまったので反省しているということ。


で、善。
善が以上のようなものである以上、偽善も独善も大して問題は無いじゃないの、という私見。

「それは独善的である」と言ったときに、つまりそれは、君だけが善だと思ってて周りはそう思ってないよ、という意味である。まあ確かに行動が伴っていたら、小さな親切大きなお世話で、他の人には迷惑になるのかもしれないが、本人にしてみれば心から善!と思ってやってるのだからまあいいじゃないの、と個人的には思う。ちょっとした注意はすれど、そんなに糾弾しなくてもいいと思う。
これは内心=善、外形=善ではない、のパターンだ。

で、「それは偽善である」と言ったときには、君は善行をしているように見えるが内心は打算で動いていて心からの善ではないだろう、という意味である。でもこれは特に周りは迷惑していない。一応善っぽい行動で、誰かは助かっているのだから、迷惑にすらならない。周りによく思われようと善行を積んでいても、別にいいじゃないの、助かってるんだし、と個人的には思う。大体こういうことを言うのって、それによって出し抜かれようとしている人の嫉妬とかなんじゃないかしら。そうでなければ人の内面にまで干渉するおせっかいな人で、それこそ独善的なのかもしれない
これは内心=善ではない、外形=善、のパターン。


「思ったことをすべて口に出すのが義務だとでも思ってるの?」
-------------------江國香織「ホリー・ガーデン」より

きれてるなぁと思う。



で、個人的には偽善であろうが独善であろうが、別にいいじゃん、と思うということ。
自分を内省する分には勿論構わない。あれは善から出た行動ではなかったのではないか、とか、あれは大きなお世話だったかもしれない、とか。最近気づいたけれど、苦悩する人間というのは一種セクシーだ。多分。
で、一方、他人のことは結局わからないのである。偽善かどうかなんてわかりはしない。でも「なんかいいことっぽいことをしようと思って、した」、と。寧ろそれだけでその人をちょっと好きになるくらいでいいんじゃないかしら。
だいたい、よいことをしようと思えばほぼ不可避的によい人に思われるのである。それを意識したからといって偽善と呼ぶのは狭量だし、全然意識してなかったとしてそれは別に殊更にほめられるべきこととも思わない。

といいつつ私も「そんな独善的な」とテレビやなんかの報道を見て思ったりする。まあその場合は、もしかすると独善的ですらないかもしれないと思っているんだけど(つまり、内心も外形も善ではないということ)。


真理を知らないものはただの馬鹿者です。だが、真理を知っていながらそれを虚偽というものは犯罪人だ!
----------------------ブレヒト


というか、独善も偽善も、もしかしたらこの意味で言われているのかもしれない。

余談だけれど、テレビに出ている人って、すごいなあと思う。特にここでは報道番組のキャスターとか。つまり、そういう顔をして、その場にいて、そういうコメントをするということを全国に放送されるのに耐えられるということ。そういうことをやっていたということが沢山の人に目撃されてしまうということ。しかしそう信じてやっているのだろうし、信じることができるというのは一種神々しい。信じてやっているのでなければ破廉恥、まあそれもすごいに入るんだけど。



それにしても、wikipediaの偽善の項目が、編集者の主観が入り込んでいて、「思慮の浅さを反省すべきである」とか書いてあるんだけど、なんか文章全体的に思慮が浅い感じがして、ある意味ほほえましい。とか上から目線で書いてみる。

May 16, 2010

「すこやか」ということ

書くといったんだから書いてしまう。

江國香織の「ホリー・ガーデン」という作品がある。私はこの作品が好きで、もしかすると一番好きな作品かもしれない。最近の江國作品は実は読んでいない(がらくたとか。)。
「ホリー・ガーデン」を読んだのは確か大学1年の時で、その当時はそんなに好きじゃあなかった。それはいろんなことが理解できなかったからだ。つまり話の筋は追えるとしても実感を伴う「腑に落ちる感じ」がなかった。それは江國作品では理解できないのとおんなじことだ。

で、その作品の中に、こういう下りが出てくる。

「『あやしい』というのがどういうことなのか、誰も知らないなんて不健全だ、と思った。不健全。そうだ、ほんとうに世の中は不健全だ。」

それから、こういうのも。

「『忘れっぽいっていうのはすこやかなことだよ。』」

私はどっちも共感するわけだけど。


「すこやか」というのは江國さんがまあまあ使う表現で、必ずひらがなで書かれている。そのセンスを私は好きである。それで私もたまに使わせてもらう。
単純さ、のびやかさ、凝り固まっていない感じ。自然体。割といいイメージだ。正の方向。すこし、小ばかにしているかもしれない。単純だなあ、という風に。
で、すこやかってどういうことだろうと思う。

あることが「すこやか」であるとしたら、そのあることを突き詰めることが尚「すこやか」か、というとそれは「すこやか」ではない、と思う。突き詰めるということがすなわち病的であるからだ。
たとえば、「忘れっぽい」ということが「すこやか」であるとして、「忘れようとすること」は「すこやか」じゃないと思うということ。そこに人為的な当為的な、つまり「~すべきだ」というような意志が加わったところで、自然体ではない。「すこやか」であろうとすればするほどに、遠ざかってしまう。「すこやかさ」というのは志向できないと思う。
自分が自分に素直に生きやすくしようとすればするほどに、また、自分の善の意識に忠実になろうと思うほどに、ぎくしゃくしてしまう。病的になってしまう。考えれば考えるほど「すこやかさ」から遠ざかる。もしかするとそれを一番に求めているかもしれないのに。


関連して「健全」ということ。
どのくらいの人が共感してくれるのかはわからないけど、健全という言葉自体がもう不健全な感じがする。
健全というのはいわゆる「社会一般から見て」健全、という文脈で使われている気がして、それはつまり「偏見」とか「常識」とかそういった固定されて押し付けられた、小さい頃から学校やテレビで刷り込まれた概念に従順に従っているようで、それは不自然だと思うわけで。
という考え方すらも今まで読んできた文章が「健全」という言葉を皮肉る文脈で使っていたから、という刷り込みなのかもしれないと思うと堂々巡りだけど、この際措く。

そういう私の理解からすると、「健全」という言葉は「不健全」という使われ方をする限りにおいて肯定される。


この作品は数ある共感できる作品の中でも、一番共感できるような気がする。できてしまう。それは嬉しさでもないし悲嘆でもない。でもどちらかといえば後者に近い。

「いったん所有したものは失う危険があるけれど(果歩はそれを、身をもって学んだ)、所有していないものを失うはずがないではないか。だからこそ一切所有しないで暮してきたのだし、ともかく自分がいま中野を失うはずはない、と、できる限りの理屈をかきあつめて果歩は思った。」

この所有しないというのは(言い方の是非はともかく)、多分今の私のスタンスであるし、そしてそのスタンスがこういう事態を処理しきれないだろうということもまた、この文章で明らかにされる。
大学1年でこんなのわかるわけない。でも、同じ大学1年のときにすでにこれを一番好きな江國作品だと挙げていた同じサークルだった子と、今ならもっと語れるかもしれないのにと思う(この子は1年でサークルからフェードアウトしてしまった)。江國作品のどれどれを好き、というのは(他の作者でもありうるけれど)、ある種の告白・暴露であると思う。
と、大学1年の頃を思い返す。あの頃はもっと「すこやか」だったのにな、と思う。キャンバスは塗られたら白には戻せない。

May 11, 2010

PDCA

今に始まったことではないが、私には定期的に振り返りをする癖というかそういうのがある。ある一定の時期は目の前のことで精一杯だけど、人生そんな時ばかりではない(サンプル数:1(私))。
そういうわけで、何かしらひと段落ついたときとか、ひまーなときとかに、引いて見てみるということをする。俯瞰。鳥瞰。あ、飛んだ。

そうしてこの癖にしたがい、最近の自分を見てみたというわけである。

で、時間が経つにつれて、引く距離(飛ぶ高さ)というのが長くなるなあということ。
それは生きた長さが長くなるのだから当然なんだけれども、イメージ的にはGoogle mapで広域になっていくようなイメージ。
かつ、最初は直線なのに、少し経つと平面になり、更に立体になるという感じで。


最初は混沌の海の中にある。乳幼児期。時間の流れとか、これから先とかをあんまり考えなかった時代。光景、音、匂い、そういう刹那的なものの混ざり合いでできている時代。

気がつくと、ある直線が見えてくる。直線上を生きている。というかそこまでしか見えない。そこまでしかカメラが引けない(カメラ?)。段々その直線が長くのびていく。よく比喩的に使われるのは線路であるが、まあそんなもの。

あるところで、岐路というものがあることに気づく。そこで平面での認識になる。自分がどのあたりに位置しているかというのが平面上のある一点で認識されるようになる。一緒にいた人が平面上の別の場所に位置しているのが見える。

そのうち、平面ですらなくなって。他の軸が見えてくる。立体的に自分の位置を把握する。年齢的に分野的に内面的に、遠くの人も見えるようになる。

で、最近。
私は凡人なので4次元以上のイメージはできないわけだけれど、立体以上に複雑化してきて、軸だらけというか、むしろ軸がなくなるというか、そういう感じになって。

最初は沖縄に引っ込んだとき、ある座標軸からぽつねんと離れたような感覚でいた。東京あるいは大阪、本州の都市圏がメインストリームで、そこから離れたところで静養する、というような。で、いずれはまたそこへ戻るものだと思っていた。支流が本流に合流するように。
で、私の進むべき道は法曹であるべきだという思いがあったので、法曹になるという軸から今どのくらいの距離にいるのかというような感覚で自分の位置を認識していた。それが遠ければ焦ったし、寂しかった。
だけれど、ここ最近そういう位置把握が、違うなと感じるようになって。勿論その法曹軸からの距離を測ることは可能で(まあ大雑把でも)、それに意味が無いわけではないけれど、それ以外の軸が自分のすぐ脇を通っているような気がしたりする。し、もしくはその軸自体が錯覚で、軸なんて無いのかもしれないと思う。だだっ広い空間だけ。もしくはただの点。

なんか、最近、星みたいだなあなんて思ったりする。宇宙のこと考えすぎて。
木星も土星もアルタイルも競ったりしないしどっちが優れているということもない。どっちが先んじていてどっちが遅れているとか、上とか下とか、そういう軸は無い。爆発して死んだり、燃えたり、生まれたりする。ぶつかって互いの中身を分け合ったりとかね。

で、まあ、結局混沌の海に帰するのかもしれない。
ドラえもんのポケットって胎内回帰願望かしら、っていうセリフが、カンガルー日和/村上春樹、にあることを思い出す。


たとえ話をするようになるってのは、なんていうか10年早いと思うんだけど(たとえ話って大人がやる感じする)、やってしまうなあ。ジェンガ然り。多分そういうお年頃だろう。

そんなわけで振り返りおわり。

May 7, 2010

タスク考

小さい頃はよく遊んだ。
沖縄だけらしいが「昼か夜か電信か」という遊びとかだるまさんとかキックベースとかせみとりとか、いわゆる外で遊ぶ遊びもやったし、トランプとかUNOとかオセロとかドンジャラとかのカードやボードゲーム、ぷよぷよとかテトリスとかRPGとかのテレビゲームもやった。

で、いつしか、勉強ばっかりの生活になっていて(高校時)。
まあ毎朝6時に起きるのが辛いというのはあったけれど、勉強自体は苦ではなかった。面白かったから。


その時に気がついて愕然としたことは「遊びも勉強もタスクって意味では同じじゃん」ということ。

遊びというのは、暇で暇で仕方ない子どもとか、仕事と別のことがしたい大人とかが、新たにルールを定めてタスクをつくってそれを達成することで喜びを得たり暇をつぶしたりする行為なんだ、と。
つまり、あえて自分で進んでタスクを作ってこなしているのが、遊びなのだ、と。まあ言い方はどうあれ。

たしか、ぷよぷよか何かをやろうとして気がついたのだった。
クリアすることを目標に、クリアの先に何か実になること(お金になるとか受験で役立つとか)があるわけでもないのに、せっせとこなすんだよなあと。これって自分で設定して自分でこなしてわーいって言ってるってこと?と。


それ以来、あんまりゲームをしようと思わなくなった。こうやって省エネ人間ができあがっていく。
何にでも意味を見出そうとして、見いだせなくて、人生全体にそれが広がって、今や人生は壮大な暇つぶしだと結論するこの体たらく。

しかし、人生が壮大な暇つぶしだとしたらだよ、タスクというのは寧ろ重要で。これがなければ生きているのは暇で暇で、暇すぎて死んでしまう。


人間が生きるために食わなければならないことや寝なければならないことも、タスクで。
家の掃除や食器洗いや洗濯も、着替えも化粧も買い物も、友人とお茶することもメールを返すことも電話をとることも、電車に乗ることも書類を読むこともパワポでお絵かきすることも、ブログを更新することもついったーでつぶやくことも。


タスクという言い方がよくないなら、TTDでもいいし、ToDoでもいいし、お楽しみでもいいし、やりがいのあること、でもいい。うん、お楽しみっていうとポジティブなイメージだな、悲壮感がなくていい。

タスクとお楽しみの違いは、自分がそうしたいかどうかという点だけだ。で、それはかなり自分に依存してることで。いわゆる気の持ちよう(私はこの文句は好きではないけど。気の持ち方ってのはその人の聖域のような気がする。軽く言ってくれるなと思う)。

なんと、この世はお楽しみに満ちている!


そんなわけで最近はゲームもちゃんと楽しむことができる(ソリティアとかだけど)。
近頃死ぬほど暇な時間を過ごしたからだと思う。ここ数年焦がれていた状態だったけれど、暇は思ったより幸福ではなかった。タスクは、あるいはお楽しみは、存在すべくして存在しているのだ。

最近高校時代の勉強をしているけれど、高校時代勉強が楽しかった理由がわかった。単に面白いからだ。あ、同語反復。
少なくとも、あれは半分タスクであったかもしれないけど、半分はお楽しみであった。
勉強とか学問というのは人間の暇の産物だと思う。人間は暇には耐えられない。多分学問が生まれたての頃、あれは完璧なお楽しみだったに違いない。

March 24, 2010

俄か教育論 序論

多少の毒気にあてられて疲弊した。
喧嘩したい。

金なんて儲けるもんじゃないなと思う。教育のきょの字も出てきやしない。
私はもはや彼ら(60を超えたおじさん達)をそのゆえに自分の上に位置づけることができない。
金儲けのために教育をビジネスにするなんて、経営のために教育の質を落としたり講師に無理を強いたりするなんて、犯罪に近い。子どもたちの顔を見てそれをしようとするなんて、何かに魂を縛られているに違いない。教育をすることというのは、儲けることより重大で価値のある行為だと思う。
金儲けの経験や贅沢の経験や地位を得る優越の経験がそれをさせているのなら、そんなの経験しない方がいい。ばかみたいだ。

「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい」聖書

私は、教育をする人の役割は、第一次的に、その子に学問の楽しさを伝えることにあると思う。その学問で自分の知性を育て、表現力を増し、思考力を高めることに喜びを覚える体験を提供することにあると思う。
学ぶことは一生人がすることであって、学ぶことは人格を形作る。人生を豊かにする。学ぶということを人生から取ってしまったら、楽しさ8割減だと思う。恋愛だって楽しさ8割減だと思う。人生がひまつぶしならなおさら損だ。

教育の質の低下は、こどもを勉強嫌いにさせ、その楽しみを子どもたちからいくらか奪うことになる。
一人の人間の人生の豊かさを、儲けを増やすために犠牲にする価値判断が私とものすごく相容れない。
勿論財政的にまわっていないと存続できないから、利益は当然追求すべきだと思う。でもそれは手段であって目的ではない。

というようなことを言いたいけど、通じるかな、あの人に。今度言ってみよ。

February 23, 2010

最短距離

ついったーでもつぶやいたけれど、司馬遼太郎の本にこんなことが書いてあった。

「『大学者であろうが田舎のじじいであろうが死ぬのは同じや。それとも聖人がお念仏のほかに何ぞ学問のある人間にしかわからんような特別ええ事をいわれたと思うているのか』」
(「司馬遼太郎が考えたこと1」より)

これは、戦前大学生であった彼が、戦地に赴く前に、どうしても「死」ということがわからず、どう受け止めていいかわからずに、天台宗だったかに熱心であった中学の恩師を訪ねて問うた時にこう言われたというもの。の抜粋。
お前には最初から信じようという気持ちが無い、と一喝された後の言葉。念仏をただ唱えてみろと先生は言う。


学べば、考えれば、何か新しいことが分かるのではないか、より一層理解できるのではないか、ということを私も常日頃から思っていたけれど。
そしてそれは、「自分には分かるのではないか、悟りの高みを理解できるのではないか」という高慢でもあり。そしてそれは経験的に成功体験として持っているつもりでいて。


学のある人だけが到達できる何かというのはもしかしたら無いなと思い始めている(仮説)。

それはあれやこれやと考えて結局到達したのが「人生は壮大な暇つぶしである」という仮説であり、それをもとにすると「好きなことやったらいい」と言う結論になったという自身のふがいないや。いや。的経験からである。

そんなの、本能的に知っている。というか、やっている。

最短距離で答えに行き着くのが最も優れた方法だとすれば、考えないことが一番優れているのかもしれないなと、ゲーテが言ってたこと(ぐるぐる枯野を引き回されている家畜の件)はほんとだなと、思う次第。

でも、考えないと納得できなかったのだ。でも、それって単に頭が悪いというか頑固というか、つまり要領が悪いってことなんじゃないか。

しかし「あれこれ考えずにすきなことやったらいい」とはいえ、考えるのが好きなことだとすると、どうなるのだ。あれこれ考えずに考えればいいのか。なるほどねー。

February 19, 2010

メモ―価値観の吟味・殺生・貧困

ひとつ。
憤りや怒りが生じたら、それが何故かを考えた方がいいということ。
いつまでも憤っていてはならない、と聖書に書いてある通り、憤りは一時的にはいいけれど継続する価値はない。それよりは憤りの原因を解決する努力をした方が憤りは解消されていい気分になれる。でも憤りが趣味な人は憤っているといいと思う(少なからずいるはずだ)。

で、人間関係での憤りや怒りは意外と自分由来だったりもする。自意識過剰だとか、過剰な期待だとか。誰かが何をしたとか、しないとかいうことに無性に腹が立つという類の。
憤りや怒りの結果、他者に何らかの作為か不作為を強要するという行動はとられがちだけれど、そういうのは対症療法的で、結局それに憤っているとそれと似た状況になる度に憤らなければならなくなる。そういう時効果的なのは「ゆるし」である。あ、また聖書だ。それか「諦め」である。そういう感情の起伏を楽しめるようにすらなるのもいいかもね。

何かを「おかしい」と指摘できる度胸は必要だけど、何かを「おかしい」と思う感覚を今一度疑ってみることは必要だと思う。もしかしたらそれは「そう教えられたから」「皆がそう言ってるから」おかしいと思っているのかもしれなくて、それは自分の意見でもなんでもないからだ。それで検討しても尚おかしいと思うのなら「おかしいだろ!」って言えばいいんじゃないかなー。


ひとつ。
特定の生き物に限って保護保護というのはどうなのかということ。
その一方で無益な殺生も無益よなと思うということ。

希少だと保護しなきゃいけないのか。個体数が多かったら保護しなくていいのか。
食用以外は殺しちゃいけないのか。食用であれば保護しなくていいのか。食用にしている地域とそうでない地域がある場合にはどうか。
質素ならよくて贅沢であればだめなのか。どこからが贅沢なのか。
必要ならよくて不要ならだめなのか。どこまで必要といえるのか。
動物はだめで植物はいいのか。昆虫はどうなのか。
愛らしかったらだめで醜かったらいいのか。
それとも全生物平等に扱えばいいのか。

生活してる中でどこかに線があるはずで。



ひとつ。
絶対的貧困と相対的貧困について。
内田樹の研究室:相対的貧困は解決できるか
以下引用。

---------------------------

「貧困」とは、私の私的な定義によれば、「どのような個人的努力によっても社会的に向上できる可能性が閉ざされているような欠乏状態」のことである。
定期的な就業機会、教育授産機会を持たないことがその条件となる。
定期的に就業していれば、その人はなんらかの「考課」の対象となる。
考課とはプロモーション機会のことである。
教育授産機会があれば、自己教育によって有用な知識や技能を身につけることができる。
他者から考課される機会を持たす、自己教育の可能性もないような種類の欠乏を「絶対的貧困」と呼びたいと思う。
それに対して、「相対的貧困」とは私が「貧乏」と呼ぶものである。
それは数値的には表示できないし、何か決定的条件の欠如としても記述できない。
それは「隣の人はプール付き豪邸に住んでいるが、私は四畳半一間に住んでいる」「隣の人はベンツに乗っているが、私はカローラに乗っている」「隣の人はスコッチを飲んでいるが、私は焼酎を飲んでいる」「隣の人はパテック・フィリップをはめているが、私はカシオをはめている」というかたちで、どちらも同一カテゴリーの財を所有しているのだが、その格差を通じて欠落感を覚えるということである。
相対的貧困は、物資の絶対的な多寡とかかわりなく、隣人があるかぎり、つねに示差的に機能する。

(中略)

私の経験知は「相対的貧困には手を出すな」と教えている。
「そんなものを政策的に解決しようとしたら、身体を壊すよ」と私の身体がアナウンスしている。
「自分の身体を壊さない範囲で、出会う若い人たちにこまめにプロモーション機会を提供する」というのが、私が思いつく「落としどころ」である。
どのように幻想的なアイディアであっても、個人が固有名で請け負う事業にはおのずと身体的限界がある。
その「限界」が「正解」のもたらすリスクをコントロールしてくれる。
私はそういうふうに考えているけれど、この消息を経済学や社会政策の語法で語ることはきわめて困難なのである。

------------------------

以上引用。
先の客観的物資的に補完することと、主観的に補完することについて書いたエントリとリンクした。
dioramic:満足度
私は相対的貧困の方をどうにかすべき、という方に寄っていた気がする。厳密に言うと違うんだけど。
絶対的相対的の話はどちらも物質的なことで分けている、つまりとにかく食べるのに困るくらい貧しいということと誰かに比べて貧しいということ、なのだけどこれはどちらとも貧しいのは「経済的に」である。
私がいっていたのは、「主観的に」貧しい、欠落感のある人をなんとかすることに目を向けるべき、ということで。でもまあ内田氏の論によれば相対的貧困は脳の問題、とのことなので、かぶることになる。

手を出すな、かー。政策じゃなくてそれは文化なり任意のコミュニティでやることなのかもしれん。
経済的に云々というのはやっぱり賃金で家賃で物価で。とにかく地方に仕事がない。都市は家賃も物価も高い。農業の求人とかないのかな。
追記:農業求人ありました。

February 16, 2010

大人

下の2つのエントリは、先のながーいエントリを2分割して軽く手を加えたものです。しかしあんまり変わってなくて、だめだめ感満載。

大人になるってどういうことかなーと考えた。

いろんな意味で使うけど、「大人になろうよ」とか「大人な対応」というのは、我慢すること、な気がする。我慢すること、もしくは我慢するそのエネルギーを諦めに変えて放出すること。
で、最近友人に、結婚するよという報告をメールで受けたのだけど、その時に私は、「大人になったんだなー」って送った。これはなんというか、身を固めるなんて社会的だね、っていう意味だ。別の意味。社会的だね、はちょっとアバウトすぎるけれど、もう少しかみくだくと、なんだろう、社会的法的拘束に身を委ねるんだねというか。皮肉ではなくて、覚悟するところがえらいというか、覚悟するだけの相手を見つけられたことがすごいというか。

もう27なのに(最近愕然とした)、何を言っているんだか、て感じではある。
このままでは30になってしまう。止めようがないのはわかっているけど、30になっちゃったらどうしようと思ってしまう。
未だ大人の自覚があまりないためだろうと思う。

安吾が青春論というのをぶっているのだけど、青春がいつであったかなどわからん、おれはずっと青春だぜ的なことを書いてて、ほんとに真面目だなこの人はとか思った次第。
大人になるということと、青春を振り返ることはなんだか似ている。

江國香織曰く、大人は楽しい、そうだ。多分彼女の「大人」は、拘束から解き放たれたものなのだと思う。
子どもは確かに支配下に置かれている。きまりだから、というので押さえつけられる。


関連。
最近自分が小さいころから叩きこまれてきた価値観のことを思う。
わからんことはたくさんある。
時事ネタだけれど、スノボの国母選手の服装の話、マスコミが叩き、ホリエモンとか河野太郎とかがブログやらついったーで擁護している。
ホリエモンが服装原理主義というそれだけれど、服装原理主義者と、それ全く必要ないよむしろ服装の自由の侵害だろという彼自身の立場が多分対極で、多くはその中をとる感じになると思う。河野氏はルールと価値観で分けて考えようとしているが、個人的にはちょっと腹落ちするところまではいかない。ルールと価値観の狭間のようなケースだと思う。
なんというか、けしからんという人と、別にいいじゃんという人の両方の声が聞こえる世界が、健全な感じがする。

まあでも、拘束から解き放たれてかつまだ社会的に拘束されていない、モラトリアム的位置が一番自由だ。
自由に安住するのがよしかというとそれはあなたのフリーダム、である。

ちなみに東京事変の「大人」というアルバムのジャケットと香りはよかった。

満足度

最近、ちっとも結婚できる気配が無いなと思っていて。
結婚できないんじゃなくしないんだ、と思っても、その理由は「結婚とか興味ない」とか「結婚なんてそら恐ろしくていや」とか「相手を厳選しないと無理」とかなわけで、それってとても「結婚なんかできない」ってことじゃんと思った。
「したいけどできない」とは違って「したくないからできない」なんだけれど、こういう違いって例えば小学校の鉄棒のさかあがりなんかとかでは区別しないよなとか思う。さかあがりは「彼はできないんじゃなくてしないんだ」とかいう言い方はしなくて「彼はさかあがりができない」と言う。まあそれはいつか深掘るかもしれない。

で、関連で、最近NHKの「無縁社会」(全部は観てない)で、孤独死などが取り上げられていて。結婚せずに独身でいるとこうなるのか、とか思って我がことのように思っていた。
誰にも看取られないとか誰にも死んだことに気づいてもらえないとかいうことが結構悲劇的に描かれていて。部屋は荒れ放題、業者が入って遺品を片付ける。そういうのを観ると、確かにその人が死後「かわいそうに」とか「汚い部屋だ」とか思われるということはあんまり本人にもよくはないと思うけれど。
それより先日日経ビジネスWeb版で読んだ記事の方に共感できた。
日経ビジネス:「孤独死」はそんなに大きな問題か

誰にもその人の人生がある。誰かの人生を犠牲にして皆介護をさせるのが善か。という問いかけ。その人は介護で働けなくなるしその分生活もきつくなる。家でいつも看ていなければならない。
昔付き合っていた人は、それを普通に言っていた。結婚したら親の面倒を見てもらわなきゃ困る。今は女性が仕事を続けるのが認められてきたけど、昔は家にいるのが当たり前で、人間というのはそれが当たり前だと思っていれば何の不満もなく過ごせるものなんだ、と。だからそれが当たり前だと思えばいいじゃん、と。まあ私は私で自分の親もいるんだけど、と思っていて。

私も、本人が本当に「それが当たり前」だと思っているのなら別にいいと思う。し、「そうしたい」と思ってそうしているのなら尚更いいと思う。その人が選んだ人生だからだ。
親をちゃんと介護したくてしている人だって多分沢山いる。最期までしっかり恩返しをしたいという気持ちだってあるだろう。
その一方で、介護される側にも多分そういう気持ちがあるはずで。「子供にも家族や仕事があるから仕方ない」とか「自分ひとりでいたい」とか「迷惑をかけたくない」とか。選んだ孤独死も、あると思う。
看取られるというのは介護を受ける者が皆そうというわけではない。タイミングの問題もある。祖母が先々月亡くなった。認知症と老衰で病院に入っていて、子供たちが皆いないときに、眠るようにして亡くなった。離島だから、子供たちが皆すぐに駆けつけることもできなかった。私たちが行ったときはもう通夜が終わって棺に寝かされていた。人形みたいだった。


大切なのは、多分、その人がその人生に満足していたか、だと思う。
それは本人以外にはちゃんとはわからないけれど。
どんな問題でも、それを物質的に補完するということが重要なんじゃなくて、その人の主観を補うことが必要なのだと思う。
もし無縁社会が問題なのなら、孤独死(一人で死ぬこと)が問題なのではなくて、孤独なのが問題なのだと思う。私たちは時間と費用をかけずにコミュニケートする手段をこんなに発明している。シンガポールだってニュージーランドだって瞬時につながる。いっぺんにたくさんの人に言葉を送れる。多分その意味で無縁社会(というか孤独)は改善される、と思う。
経済的な問題は経済的な問題としてやるとして。
でも、体が動かなくてごみだらけの部屋に住んでいるお年寄りというのは、見ている側としてなんとかしなきゃ的な光景ではある。うーん。どうなのだろう。実感として、働いている時はそういう隣近所とお付き合いできる時間と体力って無かった。いろいろ足りなくなっちゃったのはなんでだろう。
まあいいたいことは、主観的な満足度というのをもう少し重視したらどうだろうということ。


ちょっと違う話だけれど、基地の問題もそうだと思う。
これはもはやこじれてしまっているので難しいけれど、基地問題は基地があるということ以上に、沖縄県民の被差別感情が重要なのだと思う。防衛上の問題も、日米関係の問題も頭ではわかる。日本国民という立場レベルでは、どっかに置かなきゃ収拾がつかないというのも地の利的に沖縄がいいのもわかる。日米安保はもしかしたら軍事費的にも防衛的にも国益に資しているかもとも思う。多分そういう説得をしたって問題はなくならない。そこじゃない、と思う。

まあどの問題でも。物質的に補完するということは際限がない。カスタマーサティスファクション。結果より過程というか。
でも結局結論でないので、これは継続で。

February 13, 2010

人生はひまつぶし的な

とにかく人の役に立ちたいと思っていた先般の自分。
なぜなら、それが自分の価値だと思っていたからで、なぜ価値がなくてはならないのかというと、価値がなくては人に必要としてもらえない(つまり好かれたい)からであり価値を提供することが自分にとっても相手にとってもハッピーだから、であった。ハッピー=善というのは一応前提としておく。ハッピーの内容は措く。

そうして、価値とは何かを考えた末に、直近100年くらいのスパンで考えると、「問題解決に寄与すること」かなと思いついたわけで、そのメソッドを学びたいのもあってコンサルに志望した。

で、コンサルを辞めた今(今でもコンサルは楽しいと思うし、役に立つ職業であるとも思うし、思考の自由度とか、かつていた会社の取り扱う分野とかはわくわくするから好きだとも思う)、さて価値とは何ぞやとまた思い返す。

というよりは、価値ある生き方をするべきなのだろうか、ということ。いかに生きるべきかということ。これは言うまでもなく安吾の「堕落論」の影響である。

私には前にも書いたが恋を極力したくないという傾向があった。恋なるものを差し引いて考えたいと思っていた。それは事後的に消えてしまうものだから、先に消却しておきたかった。
でも安吾は恋こそ人生の花であって、これ以外に花は無いとまで言うのである。なんてことだ。じゃあ恋を自重するということは、私の人生から花を摘み取ってしまうということになろう。芝生と木々は目に優しく、花の散るのを悲しまずに心穏やかに変わり映えのしない生活をおくる。それはひとつの生き方だけれど、私は花が好きだし元来変化も好きだよそういえば。

そんなことで、もう少し考えてみようと思うに至った。
私という人間が生きてていいことってなんも無いんじゃないのと、思うのは人の常。誰しも誰しも、芥川や太宰もそうやって文学やってたんだろう。改めて河童を読んで、娑婆を逃れる河童を描いた芥川を思うのである。
安吾は、生きろ、という。いや、俺は生きる、だな。もはや本能のままにというか、恋に落ちてしまうもんは仕方ないだろと言う(私にしてみると安吾は色恋にウェイト置きすぎな気もする)。


私のロジックは、「恋はいずれ終わる→だからしても仕方ない」であった。

それがダウナーな気分になると、「人はいずれ死ぬ→だから誰かの命を救ったり自分や家族を一生懸命養っても仕方ない」となる。
「私はいずれ死ぬし周りの人も死ぬ→だから誰かの役に立とうと頑張っても仕方ない」
「人類は滅びる→だから何をしても仕方ない」
的な方向へ行くので(いや本気で)、自分が生きるモチベーションがどんどん下がってゆくのである。ここまで来ると、100年のスパンとかじゃなくもっと長いスパンで、ということになるのだけど、そこまで飛びすぎても別にいい。
で、この健康な体とありあまった時間をもてあましている気分になっていくのである。もしかして暇?とか思っちゃうのである。
ほんとに人生って意味とか無くて、壮大な暇つぶしなのか?そういう言い回しきいたことあるけど、自分の結論としてそれが出てしまっていいのか?
そういうときに、くるりの「陽気なピーナッツ」が流れてきて、「そうだろ 僕の人生は 結局 暇つぶしみたいだから」とかいってるもんだから、岸田さんがそういうこと言うならほんとかもとか思ってしまう。


で、「人の役に立つため」というのを人生の理由というか言い訳にできない(無くなってしまうから役に立つ意味が無い)となったとき、結局人生の目的は設定できないことになる。
というか、誰にとって意味があればいいのか、ということで、つまり自分でも他人でもだめで(いずれ無くなるから)、永久に、物質的に、世界として何かが変わるのでなければ意味がないと考えているのか。私は何を求めているのかしら。

自分で設定すればいいんだけど、これがまだ私にはできない。クリスチャンはこういう迷いとかが無くなるからいいのだけれど、私にはまだ懐疑心があって純粋にそれを設定することができない。
そうなると、have fanということになる。何をなすべきか、の答えは、やりたいことをするべきだ、になる。

結局それかい、となったわけだけど、人生が壮大なひまつぶしであると仮定できたので結構すっきりした。
答えがあると思っていたし、それを探さなきゃならない、それが見つからないのは私の不勉強のせいであり不徳のせいである、と思っていたのに、元々ありませんでした、というオチがありうるというのは、なーんだ、って感じで楽になる。
会社とかで、「あの紙どこだっけ」「え(やばいシュレッダーしたかも)」とかいって探してて、「あーそういえばあれ先方にあげちゃったわ」とか言われて「(なーんだ)」ってなるみたいな感じ。


結論としては、自分がより楽しくなるのがベスト、ということになった。
つまり、世界視点でなく、単に自分という人間の満足度をとにかく上げればいいのではないかなということ。というか、自分にとっての世界なんて自分自身なわけで。

それで、自分自身の満足度というものを各人が高めていけばよいのではないだろうか。客観的に「きっと満足していないだろう」という場合でも本人は満足している場合があって、それはそれでいいのではなかろうかということ。

そんな結論を抱えて、次。

December 29, 2009

クオリア追記

追記(2009.12.29)

考えに言葉が追いついてなくてひどい文章になってしまったので直そうと思っていたけど、時間をとれないままにコメントつけてもらったので、コメントとエントリとの齟齬が生じないように追記にした。
先のエントリはここ:クオリアって

前エントリで、私は「感情」と「クオリア」を大体同じ意味合いで使っていた。
で、物理主義の人々はその「感情」「クオリア」を、単なる脳の化学反応やらなにやらの作用のため生ずる現象であると前提していると、私は思っていたのに、
先のリンク先の書き方からすると、そういった作用とは別に、精神的なといいますか物理世界とは別に、「感情」や「クオリア」というものを観念しているように見えたから、それって矛盾してないのかなと、思ったってことだ。

同じサイトに、誰かが質問をしていて、その人は、
「エンジンをどんなに分解しても、『走る』という現象がでてくるわけではない、ということと同じで、脳をどんなに分解しても『クオリア』が出てこないってことじゃないでしょうか」
と言っていたのだけど、私もそんな気がする。
で、別に「走る」が出てこなくても、みんなあんまり不思議だって思ってないんでしょ。
しかも、エンジンを分解しても「走る」の起源がわからないから解明できてないとは言わないだろう、と。

つまりその「感情に意味なんて無い」と言った人は、我々は電気信号とかによって動いていて感情もそうで単なる現象にすぎない、ということを言ったのだと思う。ある意味、我々はゾンビである、と言っているように聞こえたということ。だからその感情が残ったりもしないし、死んだら無かったも同然になるのだと冷め切った感じで言い放った、ために私と口論になったりしたわけである。耐久性の無いSDカードみたいだ。
それで私は、たとえそうであっても、他人がそう思っていても、自分が感情に意味を与えて意味があると思って生きていればいいや、と思うようになっていった気がする。私の個人主義である。


確かに、私の周りにいる誰かは「感情」なしで動いているのかもしれない。というかある程度違う「感情」で動いてるとは思う。その差異って、程度問題であろうと思う。出た。程度問題。
あと、外見ではそれがわかんないけども別段支障ない、ということ。でも結局、感情というかそうしようという気持ちが無ければ行動が難しいようになっている(少なくとも私という脳の構造はそうなっている)のでやっぱりそれを「感情」と呼ぶかどうかは別にして、そういう作用が脳内で起こってなければなかなか難しいのではなかろうか(「感情」の定義問題)。
この、外見でわかんなければいいじゃない関連はここで書いた。
dioramic:内心と行動の一致・不一致について思うこと


でもこう考えると他の人って、ある程度ゾンビっぽい気がする。得体が知れない、理解できないという意味で。

もしかして他の人に自分の脳内の声が聞こえてるんじゃないかって思ったことはあるな。サトラレ。
トゥルーマン・ショーもそんな感じだよな。

将来的に、脳の仕組みとか結構わかって、考えてることとか思ったこととかを取り出せるようになったら、献体みたいに脳を差し出したりして、その人の考えたことをいろいろわかるようになったりするのだろうか。
今ここで書いてる文章も、脳内の開示なんだろうけど、都合のいいことしか開示しないからな。よく知らない人に告白されたことが昔むかしあったのだが、そういう時って、デューディリしなくていいんですか、と言いたくなる。まあ対価は時間とプライドくらいだからそんなに調査しなくてもいいんだけど、って、結婚相手を親が調査するとかいうあのドラマに出てくる風の話ってまさに軽いデューディリだけど、そういうのじゃなくて人格的にというか。

December 28, 2009

クオリアって

ご近所のサイトで出ていた、「哲学的ゾンビ」なるものの話。
そこにわかりやすい説明のサイトとして挙げられていたのでリンクしておく。

哲学的な何か、あと科学とか:ゾンビ問題

ここでいう「哲学的ゾンビ」とは、
見た目人間だけど、脳という機械である反応をしているだけで、クオリア(体験とか質感を感じること)なしに行動している者
のこと、らしい。わかりにくかったら上記リンクへどぞ。

なぜこれが「哲学的」なのか、よくわからないのだけど。
それってなんというか、当たり前じゃない?って思った。いや自分はそうは思ってないのだけど、ある一定数の人々、つまり物理主義というか科学教というか、そういう人々はそう思っているのだと思っていた。


というか、私は数年前、
「感情に意味なんて無いよ。全ては化学反応と電気信号だから」
的なことを言われたのだけど、そう思っている人々は皆、「我々は皆、このいわゆる『哲学的ゾンビ』なんだよ。だから感情とか、脳が作ってるだけで、意味とか無いよ」って言っているのだと思っていた。そういう言葉があること自体は知らなかったけど。

大体この、クオリアってのは何だ。それこそ脳の作っているものではないのか。
その「意識とか主体的体験」とかいうものそれ自体が、脳の作ってるものだという立場ではないのか君たちは。と。わざわざクオリアというものを観念すること自体が、その物理主義と相反しているのではないか?それ物理以外の何かを認めてるでしょう。

と、その上記のリンク先に対しては思う。


で、関連してクオリアというものが脳の働きの分析によっては解明し得ないという点(と同じサイトに書いてあったので。ここ。)。
これ茂木さんが言ってるなあとは思ってたけど敢えては読んでいなくて、よく知らないのだけど、この人は、脳の分析をしても、クオリアを感じた時にどういう化学反応が起きていたということはわかっても、そのクオリアの起源がわからないから「解明できない」、と言っている。
それって、その化学反応なのか電気信号なのか部位なのかわからんけど、それがわかったということが解明な気がする。
これ前のブログで書いた、「なぜ」には2つの違う意味がある、っていう話だと思う。「なぜ」には「原理」を問うているときと、「目的」を問うているときがある。つまり、「どのように」というときと、「なんのために」ということ。で、先の脳の反応を解明するのは前者にあたるわけである。
後者の「なんのために」は、これはわからないとしかいえない。なんのために生まれてきたのか、とかと同じレベルでわからんことである。というかそもそもその「目的」が存在すると言う前提自体が、「目的」をもった者の存在を肯定していて、物理主義と反している気もする。や、わからんけど。


関連して、最近私は物理とどう関係しているのかはわからないけど、脳の中だけではないなと感じるようになっている。心的なもの、魂的なものがあると思う。それが巡ってるのか一回こっきりなのかはわからないけど、あるっぽいなーと思う。

この前「くるりくるり」とかいうエントリで書いたけど、植物とか虫とか、脳無いけど生きてるし、しかも死ぬし、その生きてる時と死んでる時っていうのの差が魂的なものの内在か否かのような気がしている。
そんなの信じないぞ、というのが流行りだったし、逆に思いっきりスピリチュアルなのも流行ってるけど(そしてそれを食い物にするのは本当にどうかと思うけど)。


かつ、「違うけど同じ」というエントリにもつながる。脳とか体とかの差が今の我々の差であって、それが違い、なのだけど、根本的に体を取り去った後に残る魂的なもののレベルでは多分優劣ほとんどないのではないだろうかと思うに至っている。
そうすると、環境や体のレベルでは生まれつきという自分ではどうしようもないけど、魂レベルでは平等なのかもしれないなどと思うのである。やっと境遇の違う人たちと同じフィールドに立てそうな気がしてきたのである。


で、クオリアってなんだ。何か読もうかな。

December 16, 2009

お金持ちになるということ

お金を稼ぐって、お金を他の人から奪うってことなんじゃないのと急に思い立つ。何かと引き換えにせよ、一応。
お金持ちになりたいという願望は、他の人々からお金を巻き上げたいってことなんじゃないのと。


でもなぜお金持ちになりたいのかと聞かれて、お金をつかってより良い生活をしたいからだと答えるならば、それはお金をつかいたいからってことだから、それすなわちお金を他の人に渡したいからだってことになるな、と。それなら奪って渡すってことで、とんとんなのかしらと。

つまりは「たくさんのお金が自分を通っていくようにしたい」と思っているのか、と。1得て1渡すよりも、10得て10渡したいというか。それが100なり1000なりになればbetterというか。

たくさんお金を稼ぐ方法は数あるけれど、大抵何かしらの価値を相手に提示してその対価としてお金をもらう(株とか為替とか遺産相続とか、なんか違うのもあるけど)。そしてお金を使うのもまた価値に対して今度は自分が対価として払うのである。
そうしたら、「たくさんのお金が自分を通っていく」ということは、自分にも周りにも多くの価値を生むことを要求しているということになる。自分が大きな価値を出し、別の大きな価値を買う。そして世の中はカチに溢れる。勝ち。


カチカチ言い過ぎだよと思っているし(自分含め)、みんな厳しすぎるよねと思っているので、せめて私は「人に甘く自分に甘く」を座右の銘として掲げているわけで。人に厳しく自分に厳しくなんて、なんだか不幸な気がするのです(なので着信拒否などという厳しい沙汰は取り消さなければならないのかもしれません)。
価値の亡霊。価値観の違い、なんてさらっと違うのが当たり前のように言う一方で、価値が普遍固定のもののように扱われたりする。かなりアバウトに使われてる言葉だと思ったり。


余談。
カネ、カネというけれど、カネは道具だから。
金本位制ってあったけど、つまり貨幣は金に交換できるという保証があるから安定するって話だけど、でもよくよく考えてみれば、金に交換できるよって言われても交換したくないよなあと思って。金持ってても何も楽しくないもの。金、食えないし。金の価値ってどれだけなのか?普遍的なものっぽく設定してたみたいだけどそうでもなくないか。まだ米とか小麦とかマイケルの音楽とかの方が汎用性ありそうじゃないか。まあ昔の話だけど。
今って紙幣自体に価値があるって考え方なんだね。銀行券は、株券や手形みたいな有価証券とは違う扱いなのだね。でもどう考えてもあの紙自体に価値があるというよりは、何らかの価値を表章していると考えた方が自然な気がする。米1キロ引き換え権分とか。


今日はこんなところです。

November 26, 2009

問題提起

で、この前問題提起に終始するのってどうなの的なことを書いた。
というか、批判だけするのはどうかと書いた。
でも、基本的に問題提起することというか、気づくことは大事だと思っていて。それをどれだけブレークダウンしていけるか、というところも大事だと言いたかったのだが。これを考えていて、なんで問題提起することがいいことだと思っているのだろうと、思った。

問題を探すことというのは、実はあんまり幸せなことではないかもしれない。まあ何を幸せとするかはあるけど、安らかに穏便に生きることが幸せと仮に措くならば、それとは相容れない。
気づいてしまうこと、疑問に思ってしまうこと、それは順応に抵抗することな気がする。順応というのは生きるために環境に適応するということで、それに疑問を抱くことは精神的に順応に抵抗しているのだと思う。
ランプで生活していた頃に、ランプに問題があると意識した人がどれくらいいたのだろうと思う。ランプ便利だなー、暗くても字が読めるし、いい時代になったよなーくらい思ってたんじゃないかと思う。それが順応するということ。
これに対して、煤の掃除が面倒だとか、いろいろ問題を見つけていた人というのは、このままではよくないのではないかという疑問を持っているから、精神的に充足した気分ではないと思う。でもこれが問題意識を持つということで。
そこから生れ出るものというのは時に、よりよいものである。問題意識を持つことで、その問題をクリアするという目的が生まれ、それを達成することによりその問題をクリアした新たな段階へ進むことができるのである。
これが、私の脳内での、「問題意識を持つこと=いいこと」の構図な気がする。


でも、先の例に見たような商品の話では、これが発明になって先駆者利益で物理的に金銭的に儲かるんだけど、商品ではなくて、ある考え方(制度とか、生きる姿勢とか)に対して問題意識を持ってしまった場合、特に儲かったりしないよなと。逆にその分精神的には順応に抵抗してるわけだから平和じゃないよなと。考え損だなと。
問題を発見すればするほど、安穏とはしていられない。
それがもし自分の内側にこんこんとわき出るような問題意識なら、有無を言わせず自分を突き動かすのだろうけれど、そしてそれは仕方ないのだが、そういう真剣な問題意識であればある程、苦しい。損な気がする。クリアできればいい。けどできないことも沢山ある。


で、そもそも、なぜ考えるのだろうと。気づいて、それに答えを得ようとするのだろうと。

一つには、考えるのが好きだからだなと思う。気づくのが好きで、誰かの気づきを聞くのも好きで、それを自分なりに解答するのが好きなのかもしれない。それぞれの段階での、「ああなるほど」とか「ああそうか」が多分好きなのだろう。つまりは自分にとって新しいものに、感動したいのだろう。

また、一つには、暇なのもある。時間がある。

で、一つには、必要だからというのもある。何かを決めるときに、関所みたいに問題が寝転んでいてその一つずつを道を選択していかねばならず、そのために考えている。
これは、世界と自分の間の折り合いをつける行為だと思っている。
何かの問題が身に迫ったときに、私はこういう姿勢で行く、こういう考え方で行く、ということを理屈をつけて(もしくはろくにつけずに)決めるということ。
たとえば私は人には特に期待しないことにしているけれど、それも、「人は信用できないものではなかろうか。人に期待をするべきか。」という問題があった上で採った方向性で。それはもしかするとある人にとっては考えなくていい問題なのかもしれない。けど、私にとっては考えなければならない問題だったので、それに答えを一応出してそういう風に生きている。
ここでは考えることは処世の手段である。これに答えを暫定でも出していないと、その度悩むことになる。


という、問題提起についての問題提起。を考えてみた。

November 20, 2009

言葉と実体の乖離

また夢の話で恐縮なのだけど、先日夢の中で、「『嘘』という言葉自体は嘘じゃないということ」について考えていた。経緯は知らない。
夢の中で考えるとろくな判断をできないのだけど、このトピックだけ覚えていた。で、起きてからちゃんとした頭で考えたら、あ、ほんとだ、と思った。
「嘘」という言葉自体は嘘ではないなあ、と。「嘘」という言葉自体は本当だなと、つまり、本当に「嘘」だということ。

同じように、「怒る」という言葉は怒ってないし、「悲しみ」という言葉は悲しんでいない。「林檎」という言葉は林檎ではない。あたりまえのことだけど、言葉とそれの指す何かとの乖離というか。


そのことと。


人間には共感という機能がある。連想でもいいかもしれない。
「怒る」という言葉で本当に人が怒っている状態を想起したり、自分が怒っているのと同じような感情を覚えたりすることができたりする。
「林檎」という言葉で、赤く実る林檎の実を想起したり、齧ったときのみずみずしさや欠片の食感や香りを思い出すこともできたりする。


隣の隣のブログ(「朝凪に似た音」)くらいで、「詩のボクシング」という番組の話が出ていた。詩を朗読して、より伝わった方が勝ち進むというものらしく、この優勝者の女の子が話したという文章

言葉というのはとても不思議で、よく物語に思い浮かべた物をかたちにする
魔法がありますが、言葉はすべて、この具現化の呪文だと思います。
色、お菓子、うれしい。
かなしいという言葉を心に浮かべた時、無意識に「かなしい」を
再現している一瞬がある。言葉はそういった気持ちや、いろいろな物の小さな缶詰めみたいなもので
耳や目から受け取ることで、心の中でぱちんとふたを開けるのだと思います。
けれど、疲れている時などにおしゃべりの中で
あ、いま空っぽで出してしまった、とはっとする時があります。
言葉の中に何も入れないまま缶詰めの缶だけ渡してしまった感覚。
それは言葉ではなくてただの音で、「なんとなく」しか入っていない。
わたしはそういう時とても悲しくなってしまって落ち込むのですが、それでも
いつか「風」ということばに風を感じられるような
「やさしい」という言葉に本当にやさしくなれるような
そんなふうに言葉を話せるようになれたらいいなと思っています。



これはつまりは、同じことを言ってるのだなと思った。
私はこの言葉と実体の乖離を、そのままに受け止めていて、彼女はこの言葉と実体の乖離をうめたいと思っているのだという違い。
言葉の可能性を認めつつも自分は探求しない私と、言葉の可能性を信じてそれを探求する彼女。


小説家というものについても、関連して思う。
司馬遼太郎は、昭和について語っていた。番組全部を見たわけではないのだけど(しかもこれは当時に全9回くらいでやっていたらしい)、昭和を語らせれば語るべき本当にいろいろのことを彼は持っていた。自分なりの考えを持っていて、その骨組みを、本質を、自分の言葉で語ることが出来た。その最中に、彼は、「僕は小説家ですから」ということを言った。彼は端的にその本質を語ることが出来るけれども、その表現手段として、小説という形態を自らの方法として選んだのだということだと思う。自らの伝えたいことをより効果的に他者に伝えることが出来る方法として。

私はかねてから、なぜ小説家は小説家になったのだろうと思っていた。それこそよく読んでいる江國香織にしても、村上春樹にしても、遡って芥川や太宰や漱石にしても。
単に独自の世界が書きたいのか、言葉遊びがしたいのか、現実とは違う理想を表したいのか、自分の存在した爪あとを残したいのか、誰かを感動させたいのか。
彼らが小説を方法として使うという選択に、何故かしらと思っていたのである。
自分の考えや感じたことを書きたいのであれば、それを端的に書けばいいのではないかと思っていた。それこそ評論や随筆のように、特にフィクションにしなくても、ストーリー仕立てにしなくても、いいのではないかと。
多分、小説でしかできない伝え方がある。小説にすることによって、その伝えたい命題を具体的事例と結びつけることができる。感情を徐々に移入することで、深く伝えることが出来る。とかいろいろあるんだろうと思う。
なんというか、ある意味奥ゆかしい感じもする。芸術にそれを潜ませるということ。

つまり私は無粋な人間なのだ、残念だ。


要は表現の話なのだと思う。今は言葉にフォーカスして話を進めているが、言葉だけじゃなく、音楽、音、踊り、ジェスチャー、絵、建築、いろいろの表現方法がある。
才能のある人というのは、それらのいずれかを使って効果的に表現をすることができる。
先の言葉の例で言えば、言葉を普段の意思疎通として使う以上の効果をこめて発信するということ。
たとえば江國香織のエッセイ「都の子」なんかを読んでみるとその一語一語がいきいきしている。

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夏になると、だから私はいつも少し勇ましい気持ちになる。今年もまた新しい緑がこんなに溢れているのだから、それに対して心を閉ざすわけにはいかない、と思うのだ。
そういう緑は木ばかりじゃなく、実にそこここに顔を出す。カエルやかまきり、とかげなど、華奢で繊細な小動物の緑や、シャンプーやしゃぼん玉液の透明な緑、気泡の入った、あつぼったいガラスのコップのうす緑。鮎のたで酢のやわらかな緑や、お新香の胡瓜の緑(実際、お新香は夏の愉しみの一つだ。目にしみるほど鮮やかな、胡瓜のきみどり、茄子の紺。ぬかの風味が絶妙のきゃべつ)。それから、野球場の芝生の緑。

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効果的な漢字とカタカナとひらがなの使い分け。バランス。緑であったりみどりであったり。しゃぼん玉。きゃべつ。
私などは先に漢字で書いた単語を後でひらがなで書いたりしてはいけないのではないか、なんてつまらないことを思ったりするのだけど。
この人の文章を好きなのは、その単語を文を丁寧に扱うというのが大きい。丁寧すぎるくらいだ。まあ一方で雑にというか、端的に言葉を扱う文章もその確度さえ気に入れば好きなのだけど。勢いとか、誠実さとか、文章には実にいろいろなものが込められている。


それにしても、言葉にそのものをこめて送り出すということの難しさよ。
彼女の言葉を借りれば、私は空っぽの缶詰ばかりを放っているような気もする。適当なことばっかり言っている。丁寧に生きるという言葉をよく聞くが、多分こういうことなのだと思う。

ただでさえ言葉を使うのに難儀しているというのに。

October 27, 2009

手紙/沈まぬ太陽

これはちょっと今書かなければならないので、書いておく。

数日前から、苦しい。重苦しい。

妹二人の抱える問題のことが大きいが、重なって東野圭吾の「手紙」を読んでしまったことと、映画「沈まぬ太陽」を見てしまったことによる大きな衝撃及び突きつけられた生き方への疑問的なものによって、大きなダメージを被ったからである。

妹たちの件に関しては、その周囲の悪意ある人間たちに腹が立っていて。これは私が腹を立てても仕方のないことなので、解決法を一緒に模索することや感情を共有してあげることを主にしている。しかし彼女らは我慢する。私だったら何か投げつけていると思う。

で、「手紙」。
これはメディアマーカーとmixiでレビュー書いたが、いい意味で重い。苦しいけど、よかった。表現に凝る作家というのは、表現がその本質であったりするので、先を急いでしまうことがない。しかし表現でなくストーリーで読ませる作家というか、ドラマ性のある作品は、話の筋が気になってつい情景の描写を読み飛ばしてインパクトある単語や台詞を拾っていってしまい、フォトリーディングっぽくなってしまうことがある。この作品はその手のものだった。

少しずつ読んでいくごとに心が重苦しくなる。テーマを外れることなくずっと目の前に描き出している。最後の直樹の兄への呼びかけは、心の芯に問いを投げかける。私は、このまま終わらせてはいけないと直感する。

罪と罰である。
家族である。
社会である。
私はこれらを一旦総括して、どういう生き方をするか決めねばならないと思っている。これは今まで実は眼前にありながら咀嚼できず、見ないふりをしていたものであって、しかし恐らくは自分のコアに関わる、自分を突き動かすものに関わる話だと感じる。もしかしたら自分の中にはもう答えがあるかもしれない。それを見つけ出して意識しようと思う。
中学生や高校生の頃はできなかった。大学でも院でもできなかった。けど今なら結論を出すことができるはずだ、となんとなく思う。


「沈まぬ太陽」もまた、私にとっては衝撃だった。
私はこういういわゆる「熱い」映画については、まずは製作者たちの思いを受けとめることにしている。伝えたいことがある、と感じるものについては。
渾身の一撃を食らった感じである。

そしていろいろなものとタイミングよくリンクしたというのもある。
作品中には、日航機墜落事故が出てくる。クライマーズ・ハイ。「沈まぬ太陽」の作者もまた新聞記者であったことは興味深い。そしてその山崎豊子は「白い巨塔」の作者であり、構図としては二人の男のそれぞれに違う道を歩む様が、里見と財前と重なる。
労組側に偏った作品との見方もあろうが、事実懲罰人事や事故は起こっているし、まあそれは日航が悪いとか労組が悪いとかはあんまり関係ないことの方が私が考えたいことなので措く。

そしてこれもまた、犠牲となるのは家族である。「手紙」。家族を守るために、全てを捨てるべきなのか(妹曰くアメリカではそれが最も理想的な男のあり方なのだとか)、そうではなく家族を犠牲にしてでも信念を貫いたり、同志を裏切らないのがあるべき姿なのか(日本はどちらかというとこっちが理想とされがちに思う)。

これに加えて、会社とは何なのか、少し前に書いた、働くとはどういうことなのかということ。
やはり、父親と重なる。

俳優陣もいい。香川照之の役が凄絶である。
3時間半の長丁場だが、お薦めしたい。途中10分休憩がある。

October 21, 2009

男女間の友人関係の成否について

これ伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」にあったなあ、なんて懐かしく。
虚構新聞:「2と1は等しい」 数学界で論議

結局この問題、あの本の響野の解説でふうん、って終わってしまったんだけど、納得はしてないよなあと。

ああ、そういえば、全然話違うけど、男女間の友情は成立するかっていう話が出て。これもまた、古い議論ですが。
これは自分の中では結構前から答えが出ていて。というか処世術を身に付けたというか。
これ、また定義問題に行くなぁ。多分「全ての問題は定義問題に帰着する」っていうのはこういうことだろうと思う。

私は成立すると思う。というか成立している。現に。でないと男の子と友達になれないではないか。そうでなければ常に恋人もしくは恋人予備軍ということになろう。そんなことあるわけない。世の中に何人異性がいると思っているのだ。出会う男性片っ端から全員恋人か恋人予備軍なんてことはありえない。とか思うわけで。

屁理屈をこねれば、同性愛者の男女間は恋愛関係に陥ることはないはずだ、とか。
(これもまた男とは何か、女とは何か、という定義問題に帰着させることはできる。趣旨違うのでしない。)

で、定義問題になるというのは、その「恋愛感情」というものをどの程度のものからそう呼ぶかということ、がまずある。恋愛感情とは何か。

あと、友情と恋愛感情は互いに排除し合うのかというのもある(私はこれは互いの範囲がかぶると思う。というか限りなく、恋愛感情は友情に包摂されると思う。感覚では。)。
だから、排除し合わないということなら、恋愛に陥ったって友情は成立している。両立する。
まあ多分、この問題提起者は「友情かつ恋愛の場合は恋愛とみなす」、という主張なのだろうけど。


あと、友情というものの定義だ。
人間の関係性というものは、関係というくらいだから複数の人間が関わる。二人だとしたら、そこには2つの主観があり、友情を感じているかいないか、それがどういったものかという主観は2種類あることになる。
それらが両方「友情」だと合致したときのみ、友情は成立するのか。
つまり片方が「恋愛」で片方が「友情」の場合は友情は成立しないのか。ということ。

結論から言うと、私は片方で「友情」と思ってればそれは友情成立ということになる。結局「恋愛」というのは互いの主観が合致しないことには恋人になりえないわけで、なりえない以上、関係は友人なわけで(まあ他人になることもあろうけど)。そういう意味で、その関係性を「友人」にしておくことが可能だと思う。


でもまあ、多分、この問題は、両方が恋愛感情を持たないということがありうるのか、という意味だよね。わかってるよ。
これはまた恋愛感情の定義の問題にしとこう。
でも、友情、あると思うけどな。結局気持ちなんてものは自分にしかわからないわけだから、証明できない。


今思いついたけど、関係性と感情は分けて考えればよいのか。前者は2つ以上の主観が関わっていて、後者は1つだ。
だから、「恋愛関係」「友人」とかは、両者の合致が必要で、
「恋愛感情」「友情」なんかは一方的でも成立する。

上述までの部分を書きなおすのは面倒なので以下結論。


男女間の「友人関係」は成立し、継続することができる。
男女間で「友情」が各々に発生しそれが継続することもある。
男女間で「恋愛感情」が各々に発生することもある(継続するかどうかについては懐疑)。
男女間で「恋愛感情」が発生しないことがあるかについては、各々の主観の問題なのでわからんけど、私見は発生しないこともありうると思う。


というわけで、友情素晴らしい。友愛友愛。
ちなみに、更に上位概念として、愛情があると思う。愛情の中に友情があり、友情の中に恋愛感情がある(ちょっと外れる時もある)のではないかしら。絵が描ければな。


※追記
この問題を考えることの実益って何かしら。
異性と友達になれるかどうかわかるということか?
恋人に異性の友達がいるときに恋愛に発展する心配をするかしないか決めるのか?
よくわからないけど、これ成立しようがしまいが、どっちでもいいなーと、思った。のにこんなに書いてしまったことへの自分の悪い癖を自戒。

October 19, 2009

郵便につながってあれこれ

先日お手紙を頂戴して、嬉しく読んでいた。

一部では、というかちょっと前に堀江氏が郵便不要論をつぶやいていたのだけど(ブログエントリはまだ読んでない)、郵便が不要な人は不要だろうけど、必要な人は必要だ、と当たり前のことを思う。

なんというか、これ不要じゃん、とか、代替可能じゃん、とかって、それはそうなんだけど、制度を語る際には、全体にそれが適用されるんだってことを考えるべきだよなーと、自戒を込めて思った。大人も、子どもも、おねーさんも、だ。おじいさんもおばあさんもね。何かが変わる、というときに置いて行かれがちなのは、多分弱い人たちなんじゃないかと何となく思う。
同じことで、テレビ不要論もあるわけだけど、で、私も今の民放好きじゃないからよくわかるんだけど、テレビが必要な人の方が多いと思う。当り前か。特に、ネットを使えない世代とか人々にとっては、多分テレビは重要な情報源だということが言いたい。
今は、テレビのスイッチを押したら何かしら映って、あとはチャンネル変える、と、音量調整、くらいの操作しか必要無いわけで。その人たちがテレビを見られなくなるというのは、やっぱり駄目だよなあと思う。
糸井さんも前に、テレビ観ててわからなかったことがない、ということを言っていた。誰にでもある程度分かるように、編集して流しているのだと。そうだなーと思う。テレビの罪というのも勿論あるけれど。
あと、テレビは、無料だ(消費の過程で取られてるかもしれないけど一応)。

いや彼は彼のキャラクターで、政治家でも何でもない立ち位置で言ってるってわかるから、いいと思うんだ。影響力ありそうだけど。というか、彼すごく負けず嫌いだなーと思う。


で、郵便は、私には必要で。
紙に文字書いて、包んで、切手貼ってポストに入れたらOKっていう手軽なシステムがね、その間に生じるタイムラグがね、家のポストに入ってるのを見つけた時の嬉しさがね、葉書及びその紙包みの質量がね、必要なわけだ。
働いてるときなんか何度それに救われたかわからん。

貰う側だけでなく、書くときだって楽しい。
前も書いたけど、パソコンと違って修正がきかないところも、勢いにまかせて書いちゃったところも(ブログでも多々あるが)、汚い字も(ごめん)それぞれ味がある。そもそもレターセットを選ぶっていうのは小さい頃から心踊るものだった。近所にいい文具店がほしいといつも思う。沖縄に足りないものは、いい雑貨屋と文具店だ。

まあ実は、今となっては、手紙を書く相手は一人だ。年賀状を書く相手やメールをする相手はいても、手紙となると一人だ。なんで彼女とはメールでなく手紙なのかは、関係の形成過程に手紙というツールがあまりに多く利用されたからであろうと思う。一応メールをしていた時期もあったけどな。
同じ言葉でも、口に出すことと、紙に文字で書くことが異なっているということをわかってたなと思う。

で、忙しくなっても、手紙を書く人でいたいなと思うという話。

文字は、書いた方がいいなと思う。なんとなく。
手紙をたくさん、本当にたくさん書いてきた。小さい頃から、宮古島に住む祖母だとか、転校する前の学校の友達や、同じ小学校の友達にすら。私は二回転校しているので、そのことも関係しているのかもしれないし、でも携帯が普及するまではみんな手紙をやりとりしていた、常に。手紙という手段は、私にとっては親しみ深い。
あと、文字が、特に自分の手で書いた文字の集合が、自分の分身みたいな気がするというのもある。自分の中を通ってきた言葉だし、文字だ。ものを作ってる感覚というか。パソコンで書いた文章をプリントアウトしてみたところで、自分じゃない気がする。ぱっと見自分のだとわからない。

余談だが、院時代も板書は手書きでとっていた(しかし理由の90%はワードを使いこなせないため。関係図とかで手間取る。今となればパワポでノートをとるかもしれん)。
法史学の時間にはA4の白紙に5枚くらい板書をとったので、いつも腱鞘炎になりかけた。
しかし、私はノートの取り方が壊滅的に下手らしい。後で見てもよくわからない。というか、授業というもの自体がほぼ議論中心なので、そうそう体系的に進むわけではなく。問いだけが羅列してあり、結論が出てないとか。直後に見ないと意味をなさないメモみたいなもので。
復習というか、まとめる時間が必要だってことだな。

で、結論としては、手書きとかかなり好きです、ということ。でいいのか。

October 15, 2009

労働について

労働って、権利なんだよなーと、今更ながらに思う。

しかも憲法で保障されている権利なんだよなと。

具体的に、A社は私に仕事させろ、とかいう権利はまあ無いわけだけれども、少なくとも国家が労働の機会を保障する政治的な義務はあるというのが、憲法学上の通説的見解ではあるらしい。

多分この労働の権利なるものを習ったのは小学生か中学生かの社会科の授業だったと思うのだが、労働が権利と言われても、ピンとこなかった。労働というか、お手伝いとか作業自体はやっていたけど、それによって対価をもらうという経験がないから当り前ではある。働くことが権利?って感じである。

初めて給料をもらったのは、高校生の頃だった。推薦で大学が決まったので、3月まで塾で中学生のチューターをやったのだった(校則で禁止されていたのかは知らない)。時給がたしか1400円で、結局月末に手渡しで5万円位もらえた(当時自分のコントロールしている口座は無かったから)。高校生に5万は結構大金である。というか、高校生の私に。
その時、ああ、働くってことは、お金がもらえるってことなんだなあとなんとなく実感した。その5万が何に消えたかは全く覚えてないのが無邪気なところである。

で、この、労働とお金が結びつくわけなんだけれども。
大学院を出て、いざ働いてみると、労働とお金は結びついていないような感覚を覚えたのだ。
いや、現実的には結びついているし、モチベーションのベースになっているのだと思うが、給料のため!と思って働いているわけではないというか、そんなこと経理の芳川さんが明細を各デスクに配る時に思い出す程度というか。
働くというそのこと自体がやりがいであり、自己実現であり、楽しい。何も対価がないのにパズルを解くとか、スポーツをするとか、そういうこととほぼ同列というか。いやそれよりも面白い。ずっと複雑だし、期待にこたえる、貢献している、という感覚がある。叱られるのは嫌だったけど、叱られることというのは大概、発展だった。

逆に、DS購入のための出費を補うために短期バイトをしたときなんかは、今日の1万のために、と何度思ったかしれない(いろいろあって、ノリで買ってしまったので予算に計上していなかったのだ)。あれは確実に給料のために労働していた。


最近ベーシックインカムという構想を知った。
これは、国民全員に一律で国から最低限生活できるお金を配る、というもので、年金制度とかは吸収されることになる、らしい。財源は税。だから、働かなくても生きていけるけど、その分のお金は働く人が税金で払う。働いた人は税金も取られるが、自分の自由になるお金は働いた分増える。つまり、最低限の生活は保障された上で、それ以上の生活がしたければ働く、という感じだ。
wikipediaも定義が数行、という段階なので、文芸春秋編 日本の論点PLUSでの記事をリンクしておく。

これが導入されたらどうなるんだろうなあと思ったのだが。みんな働かなくなるんだろうか。
共産主義の例はあれど(あの国々で何が起こっていたのかは勉強不足でよく知らない。今キューバとかで何が起こっているのかも。)、このベーシックインカムの場合は資産がとんとんと均されるのではないし、商品やサービスの多様性も無くならないからな。

で。働かなくていいよ、と言われても、働きたいと思うと思うなあ、ということ。その仕事が好きであればだけども。そのゲームやる必要ないよ、と言われてもやってしまうように。お金は関係なく。
というかお金の面でも、最低限の生活で満足しない人なんて沢山いるんじゃないかとも思う。
一方で病気とか怪我とかで働けないという人もいるわけで。


前に父とした会話を思い出す。
私はその時その仕事が気に入っていて、働くということが面白くて、働きたいから、社会に貢献できるから、働くのだと思っていた(今もかなりの割合でそう思っている)。
しかし彼は、「違う。食べるために働くんだよ。」と言った。
彼にとっての労働は、一次的には家族を養うためのものだった。彼は今までの過程で、そのためにいろいろなものを諦めたに違いなかった。
それが、成り立たなくなるとしたら。働かなくても食べていかれるとしたら。


まあ、実際どうなるのかはやってみなければわからない。面白みもない話だが、財源の問題もある。
そしてものすごく革新的で、推測するには社会、経済、教育、心理等々、影響が多岐に渡り過ぎる。全てのプレイヤーが利害関係を持つというか。
何にせよ、面白い構想だと思う。


余談。
昔のギリシャを連想した。
奴隷制を敷いたが故に、学問が発達したと。
最低限の生活が保障された時に、人々は何を生み出すのだろう。なんて。

October 11, 2009

イノベーションというのは、往々にして起こそうと思ってそうなったわけじゃないんだよ

暑い暑いと言いつつも、秋めいてきている今日この頃。沖縄はやっと、秋です。
沖縄の秋は短い。たまに夏に戻ったりしてると、すぐに冬になる。

長崎で見た影絵の話とか、本当は書きたいのだが、気分的に違うので、先のメモを消化してみたい。

「もし~」前提の話、というやつ。
これははてブで見つけた。面白い。

広告β:一方ロシアが鉛筆を使うには


無断で引用。(あとで断っておこうかな)

以下引用----------------------------------

ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!
一方ロシアは鉛筆を使った。
実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。

トヨタだったか、彼らは「なぜ?」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ?」から入っていって、最後は「もし~だったら」で出てくる。

冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ?」がはじまる。このまま「なぜ?」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ?」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。

以上引用----------------------------------


以前に、そのトヨタのWhy5回、というのの関連で、「なぜ」についてというのを書いた。
「なぜ」には複数の意味があって、かつ主体と客体で分かれるという話。
そういう整理をすれば、結構「なぜ」は使える、と個人的には思っている。


で。上記引用の、「なぜ」ではなく、「もし」が必要、という話だが、たとえば、「鉛筆で書けばいいじゃん」という発想は、「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」というのの次にくるもの、ではある。
しかし、「なぜ、ペンでは書けないのか」→「重力の力を受ける、インク(液体)だからだ」→「インク(液体)じゃなければいいのだ」→「固体、たとえば鉛筆で書けばいいじゃん」という解の出し方もある。というか、そうなるよね。

で、このジョークの話においては、この「なぜ」より「もし」論法は当てはまらないんじゃないかなという話。引用の後に続くコロンブスの卵の話もそうだ。
いや、「なぜ」から入って「もし」で出てくる、で合ってるんだけど、「もし~でなくてもよかったら」で出てくる、だ、厳密に言えば。
つまり、「なぜ」という原因をつきとめて、その原因というか制約自体を無くせるとしたら?という発想パターンか。


と、いう風にまあ結局のところ、この、なぜ?なぜ?を繰り返すというのは、ある程度有効である。カイゼンと言われるように、既存のものやシステムなんかの「改善」には有効だ。
ただ、仕事をしてた時に、なぜを5回繰り返しても、ある狭い点にしか辿りつけない、と思った。複数あったとしても、それは狭い範囲に過ぎない、と。
で、多分、その「なぜ」で行き着いた場所の制約を否定したりしてみても、やっぱり画期的なことは起こらないことが多い。それは外せない制約だったりすることがほとんどだし。

イノベーションというのは、「なぜ」とその制約の否定「もし~でなかったら」だけでは辿りつけないものなんじゃないか、と思う。かといって「もし~でなかったら」ではなく、「もし~だったら」で辿りつけるかといったら、そういう文法を使ったからといってイノベーションを起こせるわけではないと思う。というか、「なぜ」に続くのは、現状を表す言葉だけど(「なぜやせないのか」とか。)「もし」って思ってみたところで続く言葉が見当たらなくて、その先がまさに欲しているアイディアなわけで、それを思いつくためのハウツーが求められてるんだっつの、ていう話なのやもしれぬ。

妄想力、もしくは貯蔵力とリンク力な気がするな。

妄想力って、つまりイメージする力なんだけど、私はこれが欠落しているので、これ以上説明できない。つまりこう、すごいことしてる人達って、こういう服があればいいなとか、こういう音楽があればいいなとか、こういうシステムがあればいいなとか、こういう世界があればいいな、ってイメージできる人なんじゃないかと思うのだ。推測。

で。もう一つの貯蔵力とリンク力ってのは。
いろんな発想、とか、構造、とか、構図、なんていうのの粋というか、本質を知っていて、それを貯め込んでおけるということ。
そしてそれらを縦横無尽に組み合わせたりすることができるということ。まあここでもイメージ力必要なんだけれども。

後者の方がトライはできそうだなとか思う。まあ何にせよ、インプットがないと話にならないな、と思った次第。創り出すというのは、本当にすごい。