June 23, 2009

言葉のこと

何かのテレビ番組でナレーターが言った。
「・・・は、語学教育に力を入れました。彼の作った大学と学園都市は、その時代の知的世界に大きな影響を与えました。」

多分その時代に重んじられていたものは、哲学だの神学だの法学だのそんな感じだったのじゃないかと想像していたのだが、語学が重んじられていたということに少し驚いた記憶がある。
そしてその次にナレーターが放った「知的世界」と言う言葉が妙にひっかかった。
世界の中でも「知的」世界とそうでない世界があるということ。世界の中でも「知」に関するものだけを取り出した、1つの層のようなもののイメージ。


それで、単語というのはすべて概念だな、と思い至った。
実体とリンクしているかしていないかの違いはあるにせよ。つまり、概念だけの単語と、概念+実体の単語があるように思う。
たとえば、iPhoneは一つの概念であると同時に一つの実体(iPhone本体)を指し示す機能も包含している。林檎、もそうである。
一方、apple社というのは一つの概念であるが指し示す実体それ自体というのはない。ということ(建物、とか、人、とか、書類、とか、そういったものの総体が実体だということはまあできるかもしれないが、それだけが「会社」ではない)。愛とか忍耐とかの方がわかりやすいか。
そしてiPhoneという概念自体は実体である「物」に縛られずに一人歩き可能であるということ。
人の名前とかも、そうだなと思う。私は今mogという名前でエントリを書いているけれど、これだって概念なわけだ。そして一人歩きしている。


で、それすなわち、語彙の量というのは、知っている概念の量というのと相関があるということ。
まあ、等しいとはいわない。言葉を知っていても概念をちゃんと理解していないということはありうるから(ドイツ語のLiebeという文字列を知っていても意味を知らない場合、概念を知っているとはいえない)。
語彙が豊富だというのはそれだけで結構すごいことだと思う。


余談。
いま「言葉を知っていても概念をちゃんと理解していない」って言っちゃったけど、ここでいった「言葉」は「文字・音」に置き換えられるべきである。「文字・音」と、「言葉」は区別するべきであって、文字や音は概念を想起させるトリガーのようなもので、言葉っていうのは多分文字や音及びそれらによって表わされる概念の総体を示すことが多いのではないか。


前のブログでは、言葉の非力さというものを何度か書いていた。
それは、何かを表現しようとした時に、自分の語彙があまりに足りないのもあったし、表現力があまりに陳腐なのもあったけれど、なんにしたって、見た方が早い、と思っちゃうからだった。百聞は一見にしかず、然り然り、と思っていたのだ。
いくら言葉でその見た目の美しさを表現したり、音の美しさを表現したりしても、直接見たり聞いたり方が早いし正確、というのがあったのだ。で、まあ、まず見ろ、まず聞け、ということだ。それで昨今写真や動画をブログに埋め込むのが流行ったりしている(流行るというのは正しくないな。当然の成り行きだ。)のだと思う。


で、私はこれまで、上述のように、「直接見たり聞いたり方が早いし正確」、と思っていた。
でもこれは、いつもいつもそういうわけではないのではないか、と今は思っている。

例えば、おんなじ音楽を聴いたのでも、聴く耳を持っている人とそうでもない人というのは残念ながらいて(聴く耳が欲しいといつも思う)、音に乗った繊細な感情や情景を感じ取れる人もいればそうでない人もいるのだ。見ていてもそう。絵でも書でも女の子でもいいのだけど、人によって感じ方が変わったり、感じとることができたりできなかったりする。過去の自分と今の自分を比較することでもこれはわかる。


でも、言葉で表現することによって、ある程度の正確さをもってその感情なり感覚なりを伝えることができることがあると思う。たとえば。

ある人が、女の人が微笑んでいるのを見たとする。
それを見た人は、「ああ、笑ってるな。にこやかだな。」と思うかもしれない。

違う人が、その微笑みを、文字で表現したのを見る。
「彼女は影のように淡い微笑みを口元に浮かべている。どことなく完結した感じのする微笑みだ。それは僕に小さな日溜まりを思い起こさせる。ある種の奥まった場所にしか生まれるはずのない、とくべつなかたちをした日溜まりのようなものを。」


多分、文字を読んだ人は、日溜まりを思い浮かべるだろう。ぽかぽかした、ひんやりとした陰に囲まれ、そこだけ特別にあたたかな場所を。そうしてそれを女性の微笑みと重ね合わせるだろう。きっとその想像した微笑みは、とても豊かだと思う。

その微笑みを直に見た人には、その印象や重みがてんでばらばらだけれど、文字を読んだ人には、大体同様な印象と重みが平等に伝えられる、と思う。

言葉の輪郭はそれぞれ、一様ではない。想像する日溜まりも、女性も、微笑みも、ある核の部分が同じではあるが幅がある。
その解釈の幅を含めて、その幅を許容して、もしくはそれにさらに表現を重ねることでベン図のように想起するものの範囲を狭めていって、読者のまたは聴き手の想像をかためていく。もしかすると、それは実際に見るよりある意味正確で、豊かで、幸福であるかもしれない。

そういったことをも各所で思わされたから、春樹は偉大だ、ということ。
引用は「海辺のカフカ」より。

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