July 3, 2009

比嘉先生の覚書

小学校の頃、比嘉先生という先生がいた。

5年生の時の担任で、男の先生で、メガネをかけ、ずんぐりむっくりした体格で、字が汚く(書き順をたまに間違って生徒から指摘を受けた)、算数とサッカーが好きだった。
私はそれまで算数がそんなに好きじゃなかったのだけど、先生に出会ってから好きになった。先生のことが好きで、算数を好きになった部分も大きかったと思う。

先生は、少し粗雑な人だったけれどものすごく情に厚かった。


自分たちで計画を立てたらキャンプに連れてってやる、と、本当に休日返上で5人くらいの生徒をキャンプに連れて行ってくれた。2,3グループは行ったと思う。私たちは先生自慢の三菱パジェロに乗って、北部の芝生の生い茂ったキャンプ場で、テントを張り、薪をくべ、料理をし(たしか串焼き)、夜は懐中電灯片手にハブに気をつけながらおそるおそるトイレに行き、キャンプを楽しんだ。

放課後は学校の花壇の手入れをよくやっていた。男の先生は少ないので、小学校ではどうしても男の先生が力仕事を担うことになる。彼はこれを「作業」と言った。この「作業」、つまり土を運んだり、鉢やプランターを運んだりするのを手伝うと、たまに先生がジュースをおごってくれたり、食べ放題の焼肉に連れて行ってくれたりするのだった。

先生はまた、生徒を使うのがとても上手だった。生徒が自然に集まってくる人で、だんだん先生のマッサージ大会が毎日のように放課後開催されることになった。ある子は先生の腰を踏み(たまに日頃の恨みを込めて踏み)、ある子は肩を揉み、ある子は足の裏を踏む、といった具合に。
今考えると、よかったのかしらって思うけど(今だったら問題視されるかもしれない)、昔はゆるかったので、そういう具合だった。それに、子どもたちは先生が好きだったので、自然とそうしていたのだった。で、私はそこで指圧が得意になった(今もそのスキルは生きていて、家族に活用されている)。


たまに、学活の時間だろうか、箱の中身を当てるゲーム、的なものをやった。
クッキーか何かの空き箱の中に、いつも違うものが入っている。2,300円の安いものが多かった。
最初に先生が箱を振ってみる。その音が第1ヒントだ。「家にあるもの?」とか、「台所にあるもの?」とか、生徒が質問していって、最終的に分かった人が手を挙げて答えを言う。正解するとそれをもらえる。私も赤いチェックのなべつかみと、けろけろけろっぴの(!)ドアノブカバーをもらった覚えがある。なべつかみはまだ家にある。
これがやけに楽しくって、当てた日なんかは軽くヒーローで、もらったのはなべつかみなのにもうルンルンなのである。母に報告すると、喜んでくれたけど、なべつかみなのにそんなに嬉しいのかしら、という不思議そうな顔もしていた。


また、日記を書いて一人ずつ発表させる、というのがあった。
文才のある子や、面白い子なんかがこの時はヒーローだった。落とし方がうまい!っていう子がいて、その子の日記は評判だった。「あとはご想像にお任せします」とかいうのが少し流行った。


今思えばだけど、先生はいろんな子が活躍できるように、いろんな場を作ってくれていたんだなと思う。それと同時に、そのとき出来ない子へのフォローも忘れなかった。どこかの場面では必ず褒めた。それは子どもを一人ひとりじっくり見ていなければできないことだし、情熱がなければ出来ないことだろうと思う。子どもの目から見る限り、先生は心から楽しんで私たちに接してくれていたし、信頼してくれていた。こういうのを天職というのだろうなと思う。
もしかしたら、今まで出会ってきた先生たちの中で、一番影響を受けた、一番好きだった先生かもしれない。15年も前のことなのにこんなに覚えているなんて、結構驚きである。

そういえば、先生はグッピーが好きだった。家でたくさん水槽に飼っていて、ペット屋からかけあわせを頼まれるほどだったと言っていた。うちには水槽が沢山あって、母親がよくにやにや水槽を見ている俺を見て心配してるんだ、と言っていた。
また、先生は涙もろかった。ほたるの墓を観たときは誰より先に泣いた。冷やかすと、あれは悲しいだろ!と頭をはたかれたのを覚えている。

先生は、私たちのクラスを持ったあと、急に離島に転勤してしまった。先生が希望したらしく(それは先生らしい理由だったのだけど)、私たちはとても悲しかった。

卒業後も少し交流はあって、自分がその島で釣ったマグロのブロックを送ってくれたこともあった。ワイルド。
いつからか、連絡は途絶えてしまったのだけど。

今どこにいるのだろうな、と思っていたら、ちょっと前に新聞のwebサイトで名前を見かけた。まだ離島で教員をやっているみたいだ。いつか会いに行きたい。

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