August 31, 2009

5つの言葉

Watch your thoughts;they become words.
Watch your words;they become actions.
Watch your actions;they become habits.
Watch your habits;they become character.
Watch your character;for it becomes your destiny.

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

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マザーテレサの言葉らしい。twitterのRTで知ってメモ。

からだ


ニュース映像、特に戦禍を伝える映像を音なしで眺めていると、人間とはからだのことなのだと、ひどく当たり前のようで、新鮮な衝撃を与えられる。テレビの ボリュームを上げていれば、ビン・ラディンもブッシュもパウエルも、シャロンもアラファトもニュース解説者も、難しい言葉を並べ、あたかもその言葉が思考 を生んで、生まれた思考で何かが起こっているように思えるが、その音を消してみれば、人間の思考などどこにも見えず、ただ歩き、座り、横たわる人間のから だしか映っていない。ビン・ラディンの痩せたからだが、何か悪さをするとは思えなかったし、健康的なブッシュのからだが、逆に何かを解決できるとも思えな かった。

--------------------吉田修一「パーク・ライフ」より引用

August 30, 2009

衆院選などなど

・衆院選

民主圧勝は皆の予想通りとして。
twitterではこの話で持ちきりといった感。
選挙タグつけてるものをフォローしているサイトを見たりしていると、やっぱり面白いメディアだよなと思う。某掲示板より匿名性が低いだけ、割と穏当な感じで。けれどもスピードは速くて。
テレビでは、速報の合間に当確者へのインタビューというある意味安定的な構成で、選挙番組が流れている。

選挙っていうのは、国民が唯一政治に口を出せる機会、という感じがする。
そもそも政治は国民のものなんだけれども、普段は議員にお任せしているわけで、その議員がやたらと上からな人が多すぎて(そういう人たちがテレビに出すぎていて、かもしれんけど)。
具体的な何か、つまり景気回復とか、年金とか、税金とか、を期待しているかと言われたら、そういうことはない。いや、いい方向に行ってほしいし、そのようにしてほしいし、というかしろと思うけど、そういうマニフェスト的なものが決定打か、と言われると、そうではない。
とにかくフレキシブルに、という感じ。
一生懸命でかつ現実的で、真っ当な感覚とスピード感を持っている人、というか世代というのがいることは知っていて、その人たちが自由に活発に動けるような状況に、なればいいと思う。というか、この結果からしたら、少なくとも今までよりはなっていくだろう。

国民主権でよかった。普通選挙でよかった。と、なんか思う。

因みに、一票の格差の話で、最高裁裁判官の国民審査で一石を投じようと言う話には、乗りました。
大事なことだと、思うんだ。


・障子
を張り替えた。
祖母が以前転んで障子紙を破ってしまい、そのままだったのである。
最近の障子紙は、わざわざ桟に糊をつけて張るのではなくて、アイロンでくっつけるのだ。
恥ずかしながら、障子の張替えを初めてやった。サザエさんとかで見たことはあったのだけど。
張るのがアイロンで出来るので、逆に古い紙をはがすのが厄介だった。父と共に、ぬれ布巾片手に格闘。張った後は少しでこぼこしているのだけど、霧吹きで水を吹き付けてしばらく置くと、ぱりっと張る。これも知らなかった。


・でこぼこ
で思い出したけど、でこぼこしたゴーヤーができている。
ゴーヤーなんて全部でこぼこじゃねえかと。そう思うじゃん。
でこぼこ面以前に本体の形状がでこぼこなのである。何故かはわからない。終盤だからだろうか。


・第三の時効
第三の時効/横山秀夫
読了。
めっちゃ面白い。と、ついったーにもつぶやき、メディアマーカーでもつぶやいた。
いやとにかく、ツボった。
前に動機のエントリでも書いたが、何作も読んでしまうであろう作家。
鮮やか。後味がいい。うまくまとめられている。無駄が無い。単純ではないのに読者が混乱しない。魅力ある人物描写。過度のロマンチシズムがない。
とまあ、いろいろあるけど、とにかく素晴らしい技術だと、思う。

August 27, 2009

強さとは

病院で、自分の番を待ちながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に竿差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。

と、芸術の尊さを考えながら、院内をできうる限り客観的に、詩歌の如く、風情をもって見ようとするも、目の前にはピクサーとおぼしきアニメ映画のDVDをポータブルプレイヤーで視聴中のドレッドヘアの黒人の男の子(7歳くらい)、そのお父様とおぼしき筋肉の隆々とした同じく色の黒い男の人が傍らから太い腕で男の子を抱き寄せてはキスをする。
ふむ。
漱石ならばどんな句を詠むであろうか。

そんな光景を見て、院内を詩歌にするのは諦め、病院へ通う自分というものを見てみる。
ぢっと手を見る。
私は望んでここにいるわけではないのだ。勿論。
一人暮らしをしていた頃は、病院へはほとんど行かなかった。病院に行くほどの疾患も見当たらなかったし、風邪くらいだったら市販の薬を飲んで寝ていれば治った。幸いインフルにもかからなかったし、まあ一度急性の胃腸炎で親が上京して病院へ連れて行かれたことはあったけれど、それくらいだ。
体調が良くないのはデフォルトで、女性は大体こんな感じだろうと思っていた(実際、体調が常に悪い女性は多いと思う)。まあ、違う人は違うらしい。

あの頃が強かったとは言わないまでも、随分弱くなってしまったものだ、と思う。病院で何時間も草枕片手にマスクをしてジーンズの脚を組み直す我。これを毎週1,2回やるのである。文庫くらい読了できるさ。

強いとか、弱いとかって、相対的な問題だよなあと思う。
何が強くて何が弱いのか。
働いていた頃、日経を片手に歩き夜遅くまで仕事をする私を強いと言ったのも、同時に疲れ切っていた私の弱っているのを支えてあげたいと言ったのも、同じ人だった気がする。丁重に断る。
他者から強いとか弱いとか、言われるのは全然好きじゃない。というか、しっくりきた試しはない。そうだな、強いな、と思ったことも、弱いな、と思ったこともない。まあ多かれ少なかれ他者からの評価というのはそういうものだ。強い弱いに限らず。男っぽいとか女っぽいとか、まあ好きにしてくれ。

強いは弱いの裏返しか。

強くなればなるほどに、それが折れた時の脆さがあるのか。
専門性を高めるが故に、その分野が衰退した時に展開できないとか。強くあろうと意志が律するほどに、律せられた精神が脆くなるとか。強くあろうとする肉体が、悲鳴をあげるとか。
私は、強い、というとなぜかトヨタを思い出すのだけど、トヨタは強かったし、脆くもあった、気がする。強さというのは突出した何かに頼っていて、諸行無常であるからには、その何かが永遠に頼れるものではないということなのか。
リスクを分配すれば、安定はするが強くはなれないのか。それとも安定が強さなのか。

ある一点、一分野、限られた項目において、強い弱いは存在する。
人として強いか弱いかなど、見当もつかぬ話。持続性すなわち、したたかさ。ポテンシャル。評価軸。

mighty girlという曲がある。一年以上前、シャッフルにしていたプレイヤーから、会社からの帰宅途中で流れていて、曲名を確認して苦笑した。



最近空を見ていない。暑くて外に出られないし、出たとして見上げる気になれない。太陽が圧政を敷いている気がする。
秋が待ち遠しい。

August 26, 2009

秋刀魚

昨夜、秋刀魚を焼いた。

秋が旬の、刀みたいな、魚、といえば、さんまなわけで、刀みたいにぴかぴか光って、持ち上げるとしなる。
沖縄では秋めいているのは空ばかりで、全然暑くて秋という感じもしないのだが、きっと本土の方では秋めいてきているところもあるのだろう、秋刀魚もそういうところで水揚げされて、やって来たに違いなかった。脂がのって美味しかった。

そういえば、いつかも出てきた幼なじみは筑波にいて、学園祭の時におじゃましたことがある。
季節は秋で、少し寒くて、彼は3つくらいのサークルを掛け持ちして、大学生だというのに何故かよく「今日も3徹めだよー」とか言ってる感じの子で(自分で忙しくしてしまうタイプの子だった)、そのうちの1つのサークルで、秋刀魚を焼いて売っていた。確か。
学園祭で秋刀魚を焼いて売るとは、流石筑波!
とか思ったのを覚えている。

秋刀魚といえば、目黒のさんま
目黒に住んでいた時、図書館でカードを作ったら、なぜか秋刀魚のマークで、なんでだ?と思っていた。落語の噺であった。
下魚と言われようとも、美味いものは美味い。
どうやら、目黒のさんま祭り、なるものが9月6日に催されるとのこと。目黒に住んでいた時は知らなかったけど、もう14回目らしく。公式サイトは目がちかちかするので、こちらで。まあこっちも若干ちかちか気味ではあるけれども。寄席もあるらしい。目黒住んでたら行くんだけどな。

と、まあ、秋刀魚あれこれ。

August 23, 2009

動機

動機 (文春文庫)/横山秀夫

これから何作も読むことになるであろう作家。
半落ち、出口のない海、臨場、クライマーズ・ハイ、の作者。
というか、今まで読まなかったのはきっとあまりにドラマ化、映画化されていたから、というのがあるのだろう。私にはそういうところがある。知らない作家の話題作は読まないというか。なんなんだろうなこの心理。
幸いにして、ドラマも映画も観ていないので、普通に読もうと思う。

なかなか好きな作家に出会えることは少ないので、素直にうれしい。
エンタメではあるのだけれど、それもともかく描き出す現場感とでも言おうか、そういうのがかなり好み。
特に新聞記者の話は、というか、別の作品になるが「クライマーズ・ハイ」は本当によい。や、本は読んでいないのだが、とにかく映画はいい。怒号、とか、罵倒、とか、嫉妬、出し抜くこと、その中に守ろうとする信念、とか。男くささ、ロマン、そんな中で生きている女性記者の姿も少なからず描き出されていて。まあ、格好いいわけだ。新聞に対する見方が変わった。

裁判官の話も出てくるのだけど、実際はああではないのじゃあないか、とは思う。高圧的な人はいるかもしれないが、基本的に品のある人々(良かれ悪しかれ)というイメージがある。私とて現場は知らないのだが。

最初の二作「動機」「逆転の夏」が面白い。

August 21, 2009

長崎

長崎へ行ってきた。

実はtwitterでたまに今どことか呟いていたのだけど、ブログの携帯投稿モードを使えるようにしとけばよかったかななんて思う。

記録。

1日目
移動:那覇→福岡→長崎
・なんか駅弁
・二十六聖人
・長崎県美術館-藤城清治展 光の祈り
・トルコライス

2日目
移動:なし(路面電車(長崎電気軌道)活用)
・長崎大学
・マック
・平和公園
・原爆資料館
・大浦天主堂
・豚角煮まん
・新地中華街

3日目
移動:長崎→佐世保(ハウステンボス)
・佐世保バーガー
・ハウステンボス
 -アトラクションのやばさ
 -とらわれない
 -人の少なさ
 -街並みが流石にすごい
 -かんざらし
 -ベリーダンス
 -サックス演奏
 -花火
・ホテルに一笑い

4日目
移動:佐世保→博多→那覇
・特急みどり
・博多ラーメン
・通りもんとか


全体通して面白かったけれど、非常に消耗した旅だった。
まず連れが妹二人っていうことで、結構配慮が必要だったし、移動や時間配分なんかに追われた気がする。一人旅だと回らないであろうところにも回るわけだし(たとえば、私はあんまり食事に頓着しないので、特に名物を食べに行くというのはしないと思う、し、結局カフェで過ごす時間が多くなっていた気がする。)、逆にまあそれがよかったわけだけど。一人じゃ行けないってところもあるしな。中華料理店とか。
東京でも毎日のようにお世話になっていた携帯のジョルダン乗換案内に今回もお世話になった。

長崎の印象は、山がちなところ、だ。
人があったかい、という割には、特にその辺感じなかったし、市内は栄えているので田舎という感じもしない。まあ市内とハウステンボスだけしか行っていないので、田舎にいけば印象はかわるのかもしれないけど。
とにかく、地方都市だった。地方都市だったら宇都宮とか倉敷とかの方が個人的には好きかもしれない。
駅は混み混みなので、喫茶店で休むということができない。人数に対してカフェが少なすぎる。東京みたいにやたらカフェを作ってほしい、まあ、とりあえず駅前には。おそらくは、車移動の人が多いのでそんなに必要ないんだろう。

ハウステンボスと長崎県美術館については印象深いので、別エントリで書くとして、その他について。

実は長崎は初めてではなくて、中学校の修学旅行で訪れたことがあった。これは沖縄の中学校の通例で、大抵福岡から佐賀、長崎、熊本あたりを回って帰路につく。
その時と視点が違ったのは言うまでもなくて、もちろん回ったところや移動手段が違うというのもあるけれど、同じところを回ってもそうだなと感じた、というのは、主に原爆資料館。

ずっと言われ続けていると意味を考えずに反射で答えを出してしまう、感想を抱いてしまうということが、特に幼いころというのはある。

沖縄は地上戦が行われた地で、ものすごく多くの人が亡くなった。戦後の占領も長く続いたから、平和教育にはとても力を入れている。沖縄の総司令部が陥落した6月23日の慰霊の日の前後は、平和追求モード一色になる。特に私が中学の頃というのは、太田知事で、ちょうど米兵による少女暴行事件が起き、基地に対する反抗が盛り上がっていた時期だった。そういうムードというか、沖縄の大半の人がそういう考えだったから、中学生の私もまた、そういう風になっていた。反射で、反戦を思っていた。

でも、人が死ぬというのがどれだけ重いことか、原子爆弾を落とすという行為が、どれだけ罪深い結果をもたらしたかということを、きっとよくわかっていなかった。知識として広島と長崎に落ちた、多くの人が被爆して苦しんでいる、その事実のみを認識しただけだろうと思う。
沖縄戦についても同じことだ。時にはいつまでこのことを言い続けるつもりなのだろうと思った事さえある。単なる被害者意識、かわいそられたがり、そういう風に。

ここ数年で固まりつつあるスタンスというのがある。つまり、大切なのは、基本に置くべきは人、ということ。
ビジネスをやるにしても、人の幸せのためでなければ、そのビジネスには魅力を感じない。雇用関係でも、人を大事にするところでなければ、人は辞めていく。芸術も、学問も、どんな組織も、行動も。
仕事をするにしても、家庭を作るにしても、目の前にいるその人を大事にできるか、何かができるか、そういうのを自分の軸にしていきたいと思っている。

何度も繰り返し、TVがこの大戦の映像を流すのは、つまり人が、あなたの大切に思っている人が、目の前で焼けただれたり、撃たれたり、知らない土地で餓死したりしたということ、それが何百万、何千万という人の上に起こったというその事実を、忘れるな、ということで。苦しみ抜いて、あるいは気づかぬ間に、この世で生きていく時間を奪われたというその事実を。
戦争の理由が何であれ、どれほど正当なものであれ、その事実は忘れるなと。
多分そういうことなんだろうと思う。
戦争なんて、最悪だ。本当に。
大切な家族や友人を奪われるなんて嫌だし、そんなの見知らぬ人だってそうだ。どんな人だって、友人になる可能性を秘めているし、一人しかいない、個性的な、貴重な人だったはず。

攻撃されれば、防御しなければならない。それはそうだろうと思う。
ただ、日本が率先して大量の殺人を犯さないように、人の生を重んじるように、平和教育というものはあると思う。

長崎は、キリシタン弾圧の激しかったところで、殉教者が何人も出た地でもある。
その信仰のゆえに、ただ信じているということのために、殺されなければならなかった人々が多くいたということ。
これも含めて、感じることは多かった。

早稲田にいたので、多くの地方の人と知り合ったけれど、長崎県人は友人にいない。
長崎という土地で育った人と、いつか話してみたいというのはある。

August 14, 2009

最近の徒然なることども

・本
戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)/芥川龍之介
読了。メディアマーカーに登録。

何かといろいろ立てこんで忙しい。いや、忙しいというか、忙しくはないんだけれども、PCに向かう時間はなんだか非常に少ない。それってある意味いいことだが、ある意味よくない。私は一人の時間を愛する。

芥川なんかは、そういうときに読むのがいい。何作か読んで放置していたのだけど(短編集なので)、よくよく味わえる佳作。文章の力。巧みさ。繊細さ。美しさ。無駄のなさ。
けばけばしさがなく、奇をてらわずに奇を描くような。
人の心の細やかな移ろいを。


・最近の。

妹 「夢に、堤真一が出てきた」
私 「!」
母 「!」


母  「年をとったら、いろんなところに故障が出てくるんだよ」
祖母 「はじめて年取るからわからんさー」



妹1(寝言) 「アハハハハ(ひとしきり笑って)・・・bored.」
妹2  「えええええ」

・_・


・九州
明後日くらいから所用で九州方面に行くらしい。引率。
主に長崎。
体力に不安を感じる。


・一般的とか
一般的、抽象的であることというのは、別に悪いことではないと思う。
結局のところこのブログで書こうとしているのは、具体的事実から抽出できる一般的抽象的な法則というか、こういうものなんじゃないの的な考察というか、そういうことをしていて、それをある意味仮説として持ちながら生活していることによって、サンプルを集めながらその仮説を検証しているのである。まあ、建前としては。

で、あるところにあるサイトがあって、そこで、「定義の問題に帰着したときに、あーあってなる」、ていう話があったのだけど、私とかはそこからも結構やりたいというか、それを考えるのがセンスとか観察力とかそういう話になってくるという風に考える傾向がある。
たしかに数学の問題とかだと式を立てるまでが面白いみたいのは同感なのだけども、定義(解釈)問題をやってるのが法学、みたいなところってあったから、だと思う。そこが争点なんです、熱いんですという人々というか(学者が)。定義によるよね、というのでは答えになってないというか。その定義が何かが問題なんです、というか。どの分野でもまず定義の話から始まるというか。

やってた分野の違いかなと思う。定義とか解釈とかもう通説判例でいいよ、少数説とかもうだまっててよ、っていう人は法学やっててもいると思うけども。


・ついった
こう、使い方がいろいろあるツールだなと思う。わりかしおとなしくしている。
140字。返信だとかReTweetだとか、postもあっちゃこっちゃからできるらしいし、有名な人のリアルタイムのつぶやきだとか、問いかけだとか、ニュースだとか、人脈的ななんとかだとか、むにゃむにゃ。
ヘヴィに使うと、便利そうだが、時間をとられるのと、疲れそう。
錯綜したチャットというか、複数人メッセというか。
このブログにリンクしているアカウントはとても平和的な感じで、穏やかにつぶやかれ、つぶやいている。

August 11, 2009

8月、首里。

朋遠方より来るあり。
皆夏は沖縄に来がちなのかもしれない。

会うのは久々だった。はじめの頃と比べて幾分やわらかい感じになった、と思う。態度が。
いろんな話をしたけれど、そしてそれを備忘録的にメモしておくのが常だけれども、どうやら彼の方がそれをしてくれたので(しかもかなり細かく)、思い出せなくなったらそっちを参照することにする。

友人と会えるのは何より嬉しいけれども。他にもいろいろ嬉しかったのは。

母校を見ることができた。
首里の町を散策できた(かつて5年ほど住んでいたことがある。小学生の時だ)。
久々にボウモアが飲めた。
ということ。


母校というのは小学校で、私は2年生の頃に転校してきた。
その時点で110周年記念式典なんかをやっていたので、今は130年近いと思う。改修や建て替えを重ねて、今やコンクリート打ちっぱなしの近代的な小学校に様変わりしていた。中に入るのは憚られたので、外から様子を伺ったけれど、構造はかわっていなくて、体育館も古いままだった。比嘉先生を思い出したのは言うまでもない。

小学生の頃の思い出というのは結構強烈で。
そこら中を自転車なんかで走り回って、妹や従兄弟を引き連れて、駄菓子屋で駄菓子とか花火とかけむり玉を買ったりなんかして。私はトンボ花火が一番好きだった。
通る道々、少し通った公文だとか、よく遊んだ公民館だとか。
そのあたりは2つの町が隣り合っていて、公民館もまたそれぞれにあり、近いのだが、自分の住んでいる町ではない方の公民館はどこかアウェーな感じがして皆寄り付かなかった。お祭りも同日開催で、校長先生がどっちの町に先に来るかを競ったり、運動会の町対抗で競ったりなんかしていた、そういえば。

友達の家の場所を今でもほとんど把握していた。結構覚えてるものだ。
近所にも子どもが沢山住んでいて、昼間はだるまさんとか、昼か夜かとか、キックベースボール的なものとか、たかおにとかで遊び、夜は花火をした。
なんて懐古的!

そういう、親しくて濃密で、窮屈で抑圧された、限られた空間時間の中生きていた頃にいた地域を散策できたので、つい嬉しかったのである。


ボウモアは、というかウイスキー自体を、沖縄に帰ってから口にしていなかったため。
沖縄の友人にはウイスキーを飲みに行くような人も、バーにつれて行ってくれる人もいないものだから、大抵泡盛を飲んでいた。ので、お付き合いいただいたというわけである。
泡盛にも泡盛の良さってあるのだけれど、ウイスキーの良さというのは格別で、色とか香りとか味が、艶っぽいというか、色気があるというか、雰囲気があるというか。気障っぽい。
ボウモアに性別があるとしたら、という話が出て、彼は「女王」だといい、私は「派手な男の人」だと言った。それぞれ異性をイメージしたわけだけれども、それは先の話、色気とかそういうことと、無関係ではない気もする。
このコップは男性か女性か、というような。ドイツ語は名詞にも女性中性男性という分別があるけれども、と言うような話もした。「人間失格」で、名詞をトラ(トラジディ。悲劇)とコメ(コメディ。喜劇)に分けていく遊びをしている場面があるけれど。
そういえば昔、院の友人と、その人の顔がオフェンシブかディフェンシブかという遊びをしたことがある。


総括して、非常に歩いたけれど、楽しかった。歩き通し、喋り通し、RPGのように敵(なんか大きな鳥(図体も態度も))に囲まれたり(めっちゃたくさんいた)、村人(地元の普通のおじさん数人)に誘導されたり、小さい階段上ってみたり、だ。おかげでもうあの辺は案内できる。つまりダムとかだけど。

無事帰宅された由、何よりであった。

August 9, 2009

090808memo

カフェ
非沖縄的
話しておくべきことはなにもない
不合理の自由
生きにくいけど好きでやってる
眠剤率
FDA
波長
ペーパーレス
リスク管理
沖縄的
スーツ信仰
専門の人
論文の書き方
博士
沖縄料理を沖縄料理たらしめるもの
吉田修一

August 6, 2009

属すること

今日夕食のときにたまたま見ていたクローズアップ現代で、漫画家たちの戦争、というのをやっていた。

戦争を経験した世代の漫画家たち、つまり、手塚治虫とか、赤塚不二夫とか、さいとうたかをとか、やなせたかしとか、ちばてつやとか、松本零士とか、他にも多くの漫画家たちがそれぞれの体験を絵に文にした、「私の八月十五日展」のことだとか、そのうちの数人のインタビューだとかだ。

たとえば、飢えて死んでいく兵士たちを見た体験から、正義というならば食べさせてこそだという思いがあって、アンパンマンが生まれたのだとか、敗戦という、価値観や善悪すべてがひっくり返る体験をしたのだとか、いろんな印象深い話があったけれども。

山田洋次が語った、愛国心というものの話。

愛国心というものはあっていいんですよ。国つまり、自分の周りの人たちを愛していくということ。でもそれは、同じように、違う国の人たちのことも愛していくってことだと思う。敵だからやれやっつけろと、そういう風なものとは全く反対のことだと思うんです。

詳しくは忘れてしまったけれど、大体こんな感じのことを言っていた。


少し前から、属することについて考えてみたいと思っていた。

愛国心、というのは、自分が属する国を自分が属するという理由で、他の国よりも愛することなんじゃなかろうか、と思っている。つまり、普段の文脈で使われるような「愛国心」のこと。

私は、山田洋次の言うような「愛国心」の捉え方、つまりもっと根本的な愛のあり方に共感するし、つきつめればその通りだと思う。私たちは日本人である前に人間であるからだ。

ただ、私たちの頭の中は、皆同じ人間、終わり、という風にはなっていない。人間というものの上のレイヤーに、国とか民族とかがあって、更に更にと細分化していって、個人までたどり着く。そして、究極的には自分という個人を愛し防衛するというところに生物的な本能というものはある、と思っている。そしてその究極的な個人の防衛のために、場合によっては対立する組織なりグループなりと戦うこともありうる。
それが属するという意識の本質なのかもしれない。などと思う。つまり、自分を守るために自分側を守る意識。

サッカーワールドカップやWBCのときに、思い出したようにあちこちで言われる、にわかナショナリズム的なこと、そういうのは主に国単位の時にしか言われないけれど、別に毎晩行われるプロ野球でも、箱根駅伝でも、甲子園でも、自分の属する地域を応援するというのは起こっていることで、学閥だとか属している団体、人間関係レベルでも起こっていることなのである。

そうして、あんまり関係ないのに日本を応援したり、阪神を応援したり、早稲田出身選手を応援したりするっていうのは、自分がそこに属していることによってそのグループそのものが自分を包含しているからであり、究極的には自分個人の勝ち負けということになることがあるからではなかろうか。スポーツではそんなに影響はないが(プライドの問題くらいだろう)、戦争だったら結構な大問題であって。
そういう本能的な習性みたいなものがあって、属しているものを庇護するという意識につながるのだろうなと思う。
結局のところ、人間の競争本能、攻撃性、食うか食われるか、支配するかされるか、という本質が、所属意識というものを強めているのだと思う。利己的な。
逆に、イマジン的発想というのは、人間のつまり相手の攻撃性を極小に見積もった(信頼したと言い換えてもいいが)、もしくは攻撃性を見据えてなお攻撃性に対して対抗しないスタイルを提示する行為なのかもしれぬ。
ゲーム理論を思い出した。


属することには、きっと世の中のあらゆることがそうであるように、いろんな面があって。
属していて楽しいことも嬉しいことも安心することもあれば、属していて考えなくなったりこだわったり変に敵視したりすることもあって。利益や権利が発生することもあれば、責任や義務が発生したりもして。

属しているってことは一種のフィクションだ。けれども、この世の中、フィクションでも身を切られることがある。ことがある、というより、最近はフィクションが主に人々の身を切っている。リアルの世界をフィクションが制御しつくしている。高度に概念化され共有された世界。

TOMOVSKYの「ひとりに戻るんだ」という曲がある。
こういう歌は、必要だな、と思う。

最近の運動状況

台風が来ているので頭痛。気圧が。

今、頭痛薬を服用しないでがんばろう運動と、ご飯の量を増やそう運動を実施中である。

頭痛薬はこのところ消費量が増えており、一日二回とか飲んでしまったりするので、胃にも肝臓にも家計にもよくないよなあと思うに至り、代替としてアンメルツの類を後頭部や肩などに塗布するという方法をとっていて、これも結局薬品が身体に浸透しているという面では一緒なのかなーとかも思うけど、一応そうしている。アンメルツの類は塗ってしばらくするとひりひりしてきて、頭痛が良くなったように思うのだけど、最近、ひりひりの方の痛みに頭痛が紛れているだけなのではないかという疑惑が浮上しているところである。ひりひりとしたのが無くなると頭痛が復活してくる。でも一応、血行はよくなっているはずだと信じている。信じる者は救われるのである。そう信じている間は少なくとも救われている。

ご飯の量に関しては、ほとんど出歩かないのに少しずつ痩せていくという奇妙な現象が起こっているために、収入と支出のバランス的に、支出の方が多いからではなかろうかと思って、増やすことに努めているのである。特に家族と比べて量的には変わらないはずなのだが、燃費が悪いのだろうと思われる。吸収率がきっと悪い。無論、胃腸薬も併用である。

どちらも、数年前から続く、健康になろう運動の一環である。
ダイエットと同じで、あんまり奏功しない。院では不健康キャラでそのイメージを終えてしまった。残念なことである。

明日も病院だなあ。

August 4, 2009

Waltz for

音沙汰なかったところではあるが、まあ概ねrightな感じ。

最近は土日に外出しているので、色も黒くなってきた。迂闊なのだ。

特に書くことがなかったというか、書くタイミングがなかったというか、そういうので久々に書くわけだけれども、こうしてみてもそんなに書くことがあるわけではない。書くってのはなんか単発的にふわっと思ったこととかを膨らませるイメージなのだが、膨らますことにあんまり喜びを感じることができない時というのはある。そういうのを、無感動の日々と呼んでいる。呼んでいたような気がする。いや私が。

目新しかったことといえば。
Kind of Blue/Miles Davis
を聴いて、モードって何ぞや、と思った。といったところだろうか。
最近仲良くさせてもらっている夫婦がいて、というか婦人の方が中学時代の同級生なのだが、その旦那さんの方が、ジャズで一番好きなアルバムを挙げてみて、という問にこれを挙げたのだった。
私はジャズを聴くのは好きだけど全然わかっていない人なのだが、それでも名前を聞いたことのある人(Bill Evans、John Coltrane、Cannonball Adderleyとか)が共演していて。
これにも入っていました、Blue In Green。(私信)
たしかに格好よろしい、と思ったのだけど、私には早い気がした26の夏。なんというか、即興性の強い曲というのは何にせよメロディやリズムみたいな基本以上のものを理解する力を強いるわけで。

そのあと、話の流れで次の週にある市民のジャズイベントに連れ立って行くことになり、沖縄ジャズ界というものを垣間見たのは楽しかった。おじいちゃんたちがものすごい速さでドラムを叩いているのだ。そしてサックスはやっぱり格好いい。
何人かと父が軽い知り合いだったりするらしく。今度お店に行ってみたい、が、ひよる。ひよひよ。

そんなわけで、今は何故か
02/矢野沙織
を聴いている。報道ステーションのOPに惹かれて買ったやつだけど、他の曲のが全然いい。
これを買ったのが多分2004年とかで、当時彼女は確か17歳だった。全然追っかけていないけれど。

あとは、更に院の同期が来沖。
くらいか。