August 6, 2009

属すること

今日夕食のときにたまたま見ていたクローズアップ現代で、漫画家たちの戦争、というのをやっていた。

戦争を経験した世代の漫画家たち、つまり、手塚治虫とか、赤塚不二夫とか、さいとうたかをとか、やなせたかしとか、ちばてつやとか、松本零士とか、他にも多くの漫画家たちがそれぞれの体験を絵に文にした、「私の八月十五日展」のことだとか、そのうちの数人のインタビューだとかだ。

たとえば、飢えて死んでいく兵士たちを見た体験から、正義というならば食べさせてこそだという思いがあって、アンパンマンが生まれたのだとか、敗戦という、価値観や善悪すべてがひっくり返る体験をしたのだとか、いろんな印象深い話があったけれども。

山田洋次が語った、愛国心というものの話。

愛国心というものはあっていいんですよ。国つまり、自分の周りの人たちを愛していくということ。でもそれは、同じように、違う国の人たちのことも愛していくってことだと思う。敵だからやれやっつけろと、そういう風なものとは全く反対のことだと思うんです。

詳しくは忘れてしまったけれど、大体こんな感じのことを言っていた。


少し前から、属することについて考えてみたいと思っていた。

愛国心、というのは、自分が属する国を自分が属するという理由で、他の国よりも愛することなんじゃなかろうか、と思っている。つまり、普段の文脈で使われるような「愛国心」のこと。

私は、山田洋次の言うような「愛国心」の捉え方、つまりもっと根本的な愛のあり方に共感するし、つきつめればその通りだと思う。私たちは日本人である前に人間であるからだ。

ただ、私たちの頭の中は、皆同じ人間、終わり、という風にはなっていない。人間というものの上のレイヤーに、国とか民族とかがあって、更に更にと細分化していって、個人までたどり着く。そして、究極的には自分という個人を愛し防衛するというところに生物的な本能というものはある、と思っている。そしてその究極的な個人の防衛のために、場合によっては対立する組織なりグループなりと戦うこともありうる。
それが属するという意識の本質なのかもしれない。などと思う。つまり、自分を守るために自分側を守る意識。

サッカーワールドカップやWBCのときに、思い出したようにあちこちで言われる、にわかナショナリズム的なこと、そういうのは主に国単位の時にしか言われないけれど、別に毎晩行われるプロ野球でも、箱根駅伝でも、甲子園でも、自分の属する地域を応援するというのは起こっていることで、学閥だとか属している団体、人間関係レベルでも起こっていることなのである。

そうして、あんまり関係ないのに日本を応援したり、阪神を応援したり、早稲田出身選手を応援したりするっていうのは、自分がそこに属していることによってそのグループそのものが自分を包含しているからであり、究極的には自分個人の勝ち負けということになることがあるからではなかろうか。スポーツではそんなに影響はないが(プライドの問題くらいだろう)、戦争だったら結構な大問題であって。
そういう本能的な習性みたいなものがあって、属しているものを庇護するという意識につながるのだろうなと思う。
結局のところ、人間の競争本能、攻撃性、食うか食われるか、支配するかされるか、という本質が、所属意識というものを強めているのだと思う。利己的な。
逆に、イマジン的発想というのは、人間のつまり相手の攻撃性を極小に見積もった(信頼したと言い換えてもいいが)、もしくは攻撃性を見据えてなお攻撃性に対して対抗しないスタイルを提示する行為なのかもしれぬ。
ゲーム理論を思い出した。


属することには、きっと世の中のあらゆることがそうであるように、いろんな面があって。
属していて楽しいことも嬉しいことも安心することもあれば、属していて考えなくなったりこだわったり変に敵視したりすることもあって。利益や権利が発生することもあれば、責任や義務が発生したりもして。

属しているってことは一種のフィクションだ。けれども、この世の中、フィクションでも身を切られることがある。ことがある、というより、最近はフィクションが主に人々の身を切っている。リアルの世界をフィクションが制御しつくしている。高度に概念化され共有された世界。

TOMOVSKYの「ひとりに戻るんだ」という曲がある。
こういう歌は、必要だな、と思う。

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