September 17, 2009

痛みを避けると面白くは無いということ

本当は、刺激があまり好きではないのではないか、と思う。
本来的にはというか、生来持っている性質として、刺激を回避しようとしていると思う。

辛いものは食べられない。
胃が弱いとかそういうのの前に、舌がそれを受け付けない。
苦味とか酸味とか甘味なんていうのは味だけれども、つまり味覚で感じているけれども、辛味は痛覚だからね。味覚じゃないからね。痛がって喜んでるんだからね、君ら。マゾだよマゾ。と、思っている。

同じ理由で、炭酸も苦手である。コーラをぱーっと一気飲みしてしまうような超人的な人はともかく、普通の人でも難なく飲んでいるらしい。スカッと爽やか、らしい。解せん。
あれも、痛いの部類に入る。
炭酸が弱いとありがたい。
で、大学に入って最初の頃なんかは、お酒も初心者で、居酒屋なんかに行くと何のもうかなーとかなるんだけど、大抵炭酸なんだ。サワーは言うに及ばず、居酒屋にあるカクテルは大抵炭酸で(ジントニックだのピーチフィズだの)、まあビールだってそうだしチューハイもそうだし。カシスオレンジとカシスウーロンばっかり飲んでいた。
そんなこんなで、そちらの道が閉ざされてしまったがゆえに、炭酸の無い方へ、炭酸の無い方へと歩いていくと、そこに焼酎とウイスキーがあったというだけの話なのである。別に攻めた結果でなく、守った結果である。

舌もそうだが、その他あらゆる面で、刺激の強いものは避けている気がする。これは持って生まれた性質なので仕方が無い。刺激ばっかり追い求める性質を持って生まれた人もあろう。こればかりは自分では決められぬ。

しかしこれを自覚したのが最近で。というか昨日で。
刺激ほしさに東京生活を送っていたり、友人との対話を楽しんでいたりした、とそれまでは思っていた。
刺激を必要としている、と。
それはそうなのだ、確かに。でも、痛さを伴う刺激は避けてきているのだ。自分が傷つかないラインでコミットしているのだ。のっぴきならないところまではいかないのだ。多分。

勿論いくつかの物事については選択してコミットしている。軸足を置いている。それは責任というような上に立った感じではなく、一蓮托生みたいなものだけど。
私は小さい頃から慎重なので、自分の手に負えるものかどうか、抱えきれるかどうかを多分少なく見積もって手を出している。よく言えばそれは自分の度量を判断して迷惑をかけないようにしている、ということなのだろうが、あんまり面白みは無い。物事が面白くなるのはどれだけコミットしているかというのと比例するのだから。それはもう絶対。

そろそろ積む作業に手を出したく。

2 comments:

  1. 刺激を見積もりつつ積み上げてゆけばいいさ。積み木の地道さとジェンガのあやうさがあれば、人生それでよい。

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  2. Wow,JENGA!
    新しい概念だ。ありがとう。

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