September 19, 2009

人生―ジェンガモデル

私はこの部屋にあるもっとも神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。
人生はジェンガであると。

というのは。先のエントリのコメント欄にいただいたコメントがそれを示唆するものだったからである。
更に言うと、先の先のメモエントリにおいてメモしておいた友人の考え方が、それとリンクしたのである。


彼の話のおおまかな説明としては(私の解釈が半分くらい入っている、あしからず)。

周りの人を見ていると、どうやら「積む」作業をやっているらしい。
積むというのは、つまりこの地位もしくはステップの次はもう一段上のステップへ、次はその上へ、という風に積んでいくということ。もしコンサルなら、アソシエイトからコンサルタント、その次はマネジャー、次はゼネラルマネジャー、という風に。起業していたら、売上いくら、規模いくら、というのを拡張していき、という風に。
誰も彼もそうで、何かの集まりなどに行くと、「積んでいる」ということを前提に、あなたはどの分野で積んでいるのか、という風なことを聞かれるのだが、それに居心地の悪さを感じる、と。
僕にとっては、同時に「掘る」作業というのも必要であると思う。散歩をして何かに気づくとか、麻雀をやって留年するとか、そういう作業が必要だ。意味づけることは自分しかできないわけだし。
勿論、僕にとっての「掘る」作業に位置するものが、誰かにとっては「積む」作業であることもありうる。
君なんかはずっと掘ってるよね。

と、私はまあ大体こんな感じで受け取った。

最初に聞いたとき、掘る、という言葉にピンとこなかったのだけど、ジェンガとリンクして、なにやらピンときた。
人生はもしかすると、ジェンガのようなものかもしれない、と。

最初は積み上げるものがない。
それで、掘り出す。掘っていると積み木が出てくる。
それを積んでいくのだけど、積み木がなくなればまた見つけに掘り出さなくてはならない。
多分これをやっていると、掘る作業と積む作業を同じくらい、もしかすると掘る作業の方を多く、やらなければならない。
でも大人になり、掘る作業をする時間をなかなか工面できなくなってくる。積め積めと、プレッシャーをかけられたりする。他の人の塔の高さと競争したりするようになる。それで、積む方に気を取られるようになる。ジェンガのように、下の積み木を抜いて、積むようになる。掘らなくて済むから、これはとても効率がいい。
しかし、積み木の絶対量は変わらないから、それを続けるのには無理がある。塔だって脆くなる。
人の積み木を真似てなんとか作ってみたりもする。丹精込めてくつった積み木は頑丈で美しいが、簡単に作った積み木は不安定である。
そうして掘ったり積んだりしながら、生き延ばす。
ある人の塔は美しく、ある人の塔はささくれだっているかもしれない。ある人の塔は脆いが高みを目指していて、ある人の塔は低いが堅固かもしれない。人々はその塔を見て、ほめたりけなしたり、自分と比べたりする。
或る時、掘る力も積む力も衰え、塔が傾き、積み木は崩れおちる。地に落ちた積み木は、地面に吸い込まれる。そうして、また誰かが掘り返し、見つける。


そういうイメージがなんとなく、浮かんだのである。人生のある一面を、ジェンガモデルによって想像できるんじゃないかと。

人生といわず、世の中も。人生ならぬ、世界生というか。
なんだか、この世界というのは、時間も含めて、生き物みたいだと思っていて。
私は一個の生命体だけれども、私は細胞という個体の集合であって、一個の細胞の生き死にというものもある。そういう風に、人類もまた一人の生き死にはあるにせよ人類というものは生き続けているのであり、それは地球然り、宇宙然り、というような感じで考えると、世界、時間然り、と思えるのである。
この世界もまた、もしかするとジェンガのようなものなのではないかと。

という妄想。

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